昔のテレビドラマ

2021年01月11日

『怪奇大作戦』考察シリーズ第1弾は第3話の『白い顔』。これはあの金城哲夫さんと上原正三さんの共作です。


物語の概要
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①村上ジュンコという女が同僚の岡田という男からしつこくデートに誘われている。退社時、ジュンコははっきり断るが、その直後、岡田は炎に包まれて死んでしまう。

②ジュンコが地下の駐車場で白い顔の男を目撃する。

③ジュンコの実家は箱根にあり、父親は頭部をすべて包帯で覆っていて白い顔の男にそっくりである。
「お父様の本当のお顔が見たい」とジュンコは言うが「それだけはいかん。ジュンコがお父さんを嫌いになってしまうからね」

④SRIの面々が岡田死亡の謎を追っている。牧と三沢、ノムの三人は箱根に赴く。

⑤箱根。ジュンコが父親に「池谷さんという恋人に会っていただきたい」と言い、父親は快諾する。

⑥牧と三沢がジュンコの家にやってくる。ジュンコは岡田の死を初めて知り驚愕する。外の車で待っていたノムは白い顔の男を目撃して追うが見失ってしまう。

⑦ある男が車の運転中に狙撃され、崖から転落して死んでしまう。

⑧SRI。男は三沢の親友のレーサーで名を池谷、つまりジュンコの恋人だということがわかる。レーザーで狙撃されたのではないかとの疑惑がもちあがる。

⑨警察。池谷の体からレーザーで撃たれた穴が見つかったことがわかる。あわせて、ジュンコの父親はレーザーの世界的権威である村上博士であることも判明する。牧と三沢は再度箱根へ赴く。

⑩三沢がジュンコと話している間、外で待っている牧は白い顔の男に狙撃されそうになる。逃走と追跡。モーターボートでの追跡、炎上。

⑪屋敷に帰ると、ジュンコが「岡田さんが死んだとき、地下の駐車場で白い顔の男を見ました。あれは父です」。村上博士は実験中に負った火傷で妻に逃げられた。娘にまで逃げられるのは死ぬよりもつらい。それで殺人を重ねていたと告白する。

⑫ジュンコは父親の本当の顔を見る。右半分がケロイド状のひどい顔だった。

⑬SRIではレーザーがどれだけすごいかを少年に見せている。すぐれた科学技術も使い方を誤るとひどい事件を生む、という所長の言葉で幕を閉じる。


驚喜するものと戦慄するもの
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物語を駆動するのはこの火傷ですね。

村上博士は世界的権威になるほどだから実直な科学者だったんでしょうが、実験中にひどい火傷を負ってしまい、ダークサイドへ堕ちてしまう。世界的権威=ヒーローから殺人鬼=アンチヒーローへの転落。そのきっかけが次世代を担うレーザー技術の実験。

所長が言うように(セリフで言ってしまうのはよくないと思うけど)使い方によっては文明の利器たるレーザーも、誤れば殺人兵器になってしまう。

つまり、レーザーとは両刃の剣なのですね。『ロード・オブ・ザ・リング』の指輪と同じ。世界を救う鍵ともなれば、悪い奴の手に渡れば世界を破滅に導く。




『クリエイティヴ脚本術』という本では、ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』やユング心理学を援用した作劇理論が展開されるんですが、ヒーローが手にしている問題を解決へ導く小道具を「驚喜するもの」、アンチヒーローが手にしている問題を引き起こすものを「戦慄するもの」と定義しています。

これまでの映画鑑賞経験から言うと、驚喜するものと戦慄するものが同じものであるほうが物語としての強度は強いようです。

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しかも、この「白い顔」では、驚喜するものだったレーザーがなぜ戦慄するものになったか、それはレーザーの実験だった、ということで、科学技術にはあらかじめ大きな問題が内在していると捉えられている。ここが素晴らしい。

円谷プロダクションの特撮技術も『怪奇大作戦』のような作品に使われれば素晴らしいことですが、もし仮にアポロ11号の月面着陸が特撮だったとしたら……それは特撮技術の悪用です。世界を騙した茶番以下の代物に成り下がってしまいます。

金城哲夫さんと上原正三さんの思想が色濃く出た名編ですね。


映像できっちり見せる
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どれだけひどい火傷かをきちんと見せているのも、また素晴らしい。

最後でレーザーがどれだけすごい技術かというのも映像とはっきり見せる。
風船を内包した風船があり、それをレーザーで撃つと中の風船だけ割れて外側の風船は穴一つあいていない。

言葉だけでいくら「レーザーは次世代を担う技術だ」と言われてもよくわかりませんものね。当たり前のようでいて、これはとても大事なことです。


上原正三シナリオ選集
上原 正三
現代書館
2009-08-06







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2019年11月15日

私は自分の父親に対して「絶対に許せないこと」があります。

すぐ怒鳴るとか独善的とか子供じみてるとかいろいろ問題のある人ですが、ひとつのことを除いて他はどうでもいいです。

もう8年前になりますが、シナリオコンクールで受賞し、東京の授賞式に行って帰ってきた晩、泊めてくれた友人の悪口を言い始めたので文句を言うと、あれこれ愚痴を言った末に、

「そんなくだらない賞はいますぐ東京へ戻って返上してこい!」

と言いました。私はあれだけは未来永劫絶対に許しません。

ということを今日の今日まで忘れていました。思い出したきっかけは、NHK‐BSプレミアムで再放送された、向田邦子原作、ジェームス三木脚色の『父の詫び状』。


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1986年の作品ですから、映画狂になる前に見ていたんですね。あれ以来33年ぶりの再見。

この作品は向田邦子さんが自分の父親について書いたエッセイがもとになっているのですが、この父親が絵に描いたような「昭和のカミナリ親父」で、すぐ怒鳴る、小言ばかり言う、女房を家政婦としか思ってない、などなどさまざまな問題を抱えている。でも、語り部である長女は最後に「すべてを許そうと思った」というんですね。

父親の母が死に、会社の社長が弔問に来た。すると家では威張り散らしている父親が、平身低頭している。

「父は、こういう卑屈ともいえるお辞儀で外の世界では闘っていたのだ」

それがすべてを許そうと思った理由なのですが、私には自分の父親の「すべてを許す」理由が見当たらない。そもそも「父の詫び状」というものを読んだことがない。

そういえば、あるとき手紙を渡されました。いい成績を取れ、いい大学に入れ、とばかり言われていた私はあるとき突然いやになり進学を拒否。映画の専門学校に行ったのですが、その頃です。

「まず係長、その次に課長、課長の次に営業部長、営業部長から事業部長、あわよくば重役、そして社長。そういうふうに人生を一本のレールとしか考えていなかったのが私の落とし穴だったのかもしれない」

と書かれていました。母に話してみると、

「お父さんはあなたのおかげでいろいろ自分の人生を見つめ直しているのよ。そういう人生もあったのかって」

それを聞いたとき「勝った!」と思わなかったといえば嘘になる。けれど、だから許すとまではいかない。

いや、許してはいるんですよ。

小学校3年のとき、父の日をすっかり忘れていた私は友だちと遅くまで遊び惚け、日が暮れてから帰ってくると兄貴二人はタバコと酒(ワインだったか)を買っていて「おまえ、どうするんだ」とニヤニヤしている。もう店は閉まっている時間だから必死でクレヨンで父の似顔絵を描き、「お父さん、毎日僕たちのために働いてくれてありがとう」と添え書きして、接待ゴルフから帰ってきた父に渡した。

すると、父はそれを見るなりビリビリに破り裂いた。

「プレゼントというものはお金を出して買ってくるものだ。こんなものはプレゼントじゃない!」

私がカネというものにまるで執着心がなく、カネ儲けと聞いただけでいやになるのはこのときのことが原因なんだろうと思う。しかし、ま、それはそれで「カネは汚らわしい」と思い込ませる教育効果はあったのかもしれない。だから許す。

こんなこともあった。

何歳の頃かは忘れたけれど、ある晩のおかずがトンカツだった。いまと違ってトンカツが月に一度しか食べられない結構なごちそうの頃だからおそらく小学生の頃かな。

何よりの大好物なのでむしゃむしゃ食べていると、父が横から箸を出してきて私のトンカツをひとつつまんで食べた。文句を言うと、

「このトンカツはお父さんが働いた給料で買ったものだ。だからお父さんにはおまえたちのものを全部食べる権利がある」

そりゃ、あんたの金で買ったものには違いないが「食べる権利がある」というのはどう考えても間違い。すべてが父の物ならなぜ母は別々の皿に盛りつけたのだろうか。しかし、ま、こういうことも「自分が親になったら絶対にすまい」という反面教師の役割を果たしてくれるだろうから、許そう。

でも、

「そんなくだらない賞はいますぐ東京へ戻って返上してこい!」

これだけは許せる理由がない。おそらく自分が「こんなくだらないものを書くな」と難じたものが栄誉を受けたので恥ずかしかったんでしょう。何よりも体面を重んじる人だから(ゆえに中身がない)「見る目がない」と思われてるんじゃないか、という恐怖もあったのでしょう。

あそこで「俺はあんなシナリオが受賞に値するとは少しも思わない」と言っていれば「骨がある」と思っていただろうけれど、常に多数派でいないと安心できない人だからそんなことが言えるはずもない。

だからといって「そんなくだらない賞はいますぐ返上してこい!」などと言っていいわけではない。

最近は歳も歳なので、体も脳味噌もだいぶガタが来ており、それなりに心配はしているけれど、はっきり申し上げて「どうでもいい」のである。昔は「早く死んでほしい」と思っていたけれど、いまはそれすら思わない。どうでもいい。

とはいえ、よく似た父親が出てくるテレビドラマの感想と称してこんな文章を書いているわけだから、向田さんと同じく「すべてを許す」という気持ちがどこかにあるのかもしれない。本当にどうでもよければ、こんな日記すら書かない。『父の詫び状』を見ても自分の父親のことが頭に浮かぶことすらない。

私がこれまで書いたシナリオで、母親が大きな位置を占める作品はほとんどない。受賞作も含め、父と子の関係が軸になっていることが多い。やはりどこかで父親をずっと意識して生きてきた(いまも)からだろうか。

でも、それは幼少の頃に貪り読んだ『巨人の星』の強い影響かもしれず、本当のところはよくわからない。

確かなのは、私はちょっと前から「父親になりたい」という気持ちがものすごく強くなっていること。「結婚したい」という気持ちももちろん強くあるけれど、それ以上に、父親になりたい。


続きの記事
父親と縁を切った男の戯れ言
忘れていた心の傷が口を開けてしまった件
生きるということは後悔すること

新装版 父の詫び状 (文春文庫)
向田 邦子
文藝春秋
2005-08-03




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2019年08月27日

山田太一さんの1979年作品『沿線地図』、昨日が最終回でした。

前回までの記事
①まるで自画像のような
②両親たちのウロウロ
③父親の落とし穴
④脚本家の苦心
⑤前面に出てきた笠智衆
⑥口紅はいらない
⑦仰天の笠智衆!


白紙の便箋
笠智衆の遺書は二枚の便箋で、二枚目はまったくの白紙でした。あの白紙の二枚目に何か意味があるのでは? と誤解しているかもしれない若い人のために一言書き記します。

あれはただの作法です。一枚だけをたたんで封筒に入れるとペラペラで頼りないので、一枚だけで足りても白紙をつけてしっかりした状態にするのです。だからあの白紙の二枚目にはそれ以上の意味はありません。


思わず笑ってしまう
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正直に言います。
物語が終わってエンディングクレジットが流れ始めた途端、笑ってしまいました。

え、これで終わっていいの? おじいさんの自殺は何だったの? 古い世代と新しい世代の「生き方」の違いを問うテーマはどうなったの? あの長い浮気話は何のためだったの? と。

先週のラスト、祖父役の笠智衆が自殺をしたという知らせが入り、一体どういうことか、そしてこの連続ドラマはどういうふうに収束するのかと思っていたら……

何てことはない。ただすべてが丸く収まって終わり。すべてが、というのは違うかもしれませんが、あれだけ激烈だった親子6人の葛藤はまるで何もなかったかのように終わってしまいました。

後半は笠智衆の自殺もまるでなかったかのような感じでしたよね。

「一か月後」となり、横浜支店長の辞令が下った児玉清の送別会のシーンになる。なぜ家族のドラマで会社の送別会が? しかもそこに広岡瞬が現れて真行寺君枝が堕ろしてない、堕ろしたと嘘をついて5か月になるのを待ち、それから児玉清に言おうと母さんが言ったと。それは河原崎長一郎と岸惠子も承知している、と。

完全に児玉清の視点から描くから視聴者もその情報を彼と同時に知りますが、「え?」となりますよね。いつの間にそんなふうに話が進んでるの? だいたい一番「堕ろせ」と言い出しそうな河原崎長一郎が賛成しているというのはご都合主義ではないのか。

堕ろすかどうかで議論するとき、岸惠子が児玉清に「おじいさんがなくなってご自分を責めていたときのあなたのほうがずっとよかったわよ!」となじりますが、無理やり葛藤を作っている感が否めませんでした。


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喉に好き刺さる「自殺」
私にとってフィクションにおける自殺の原体験は漱石の『こころ』です。高校生になるまでフィクションの自殺に遭遇したことなかったのかと言われそうですが、自殺の理由を深く考えたのはあれが初めてでした。

でも、当時は物語を読むという習慣がなかったので(マンガは読んでたけど)特に自分なりの考えはありませんでした。Kはお嬢さんを横取りした先生に当てつけの意味で死んだのだ、先生はそのことを後悔してKへの謝罪として死ぬのだ、それをわざわざ乃木大将の名前を出して明治の精神に殉じるなどと屁理屈をこねているだけだ、と。

いまだにKと先生の自殺の理由は議論の対象なのでしょう。フィクションにおける自殺の理由はわからないほうが面白いのです。だから笠智衆の遺書に理由が何も書かれていなかったのを見たとき、ホッとしました。何か書かれていて、それがもとで事態が収束したのでは少しも面白くない。

でも、はっきりわからなくても推理できる何かがあるんじゃないかとも思っていました。『こころ』も2回読むと、Kがあまりの求道者のためにお嬢さんに恋をした自分を罰したんじゃないか、とか思いましたし。

でも、この『沿線地図』を何回見直しても笠智衆の自殺の理由にいろいろ気がつくということはなさそうです。(昨日一度見たきりなのでわかりませんが)

老い先短い自分が死ぬことで事態が収束することを祈ったのか。でも、それはどちらかというと作者である山田太一さんの願いだったような気がします。

自分や息子の児玉清の生き方を否定され、いまの若者の価値観がわからない。かわいい孫が宇宙人にしか見えないことへの絶望か、とも思いますが、それぐらいで死ぬだろうか、とも思う。

人が自殺するのにはいろんな理由がある。それはわかります。私も死のうとしたことがあるので「人はひとつの理由だけでは死なない」と強く思います。

ということは、笠智衆にも複数の理由があったのか。

しかしそれは明示されない。明示はされないが、そういう理不尽に耐えながら生きるのが人生だよ、というのが山田太一さんのメッセージなのだろうか。

あの結末を見たいまとなっては、「口紅はいらない」というあの口紅で右往左往していたときのほうがよっぽど面白かったような気がする。

でも、とも思うのです。

自殺の理由がはっきりしないのはフィクションではよくあることですが、あの衝撃の自殺がまるでなかったかのような登場人物たちの溌溂としたラストには、何か喉に突き刺さるんですよね。

はっきり言って、昨日見たときは「この2か月は何だったんだ」と怒っていましたが、いまは「あれは何だったのだろう」と否定的な意味ではなく、妙に気になるのです。

前半の面白さに比べて後半が尻すぼみになってしまっただけの失敗作かもしれません。そっちの可能性のほうが高いのでしょうが、いまの私にとってこの『沿線地図』は「妙に気になる作品」です。

それはやはり、自殺の理由がはっきりしないからでしょう。もし私があのとき死んでいたら、家族や友人たちは「本当の理由」を探してウロウロしていたことでしょう。それを思うと、やはり駄作だと切って捨てることができません。

思い起こせばこのドラマは、私と同じように、若者たちが人生をわざと踏み外すところから始まりました。それが、まったく別の人物とはいえ、はっきりしない自殺で幕を閉じる。

後半はあまり自分の過去に思いをはせることはありませんでしたが、最後の最後で自分と向き合わねばならなくなりました。どこまでも自分の人生にリンクした作品でした。ここまで自分のことが描かれていると感じたのは太宰の『人間失格』をおいて他に思いつきません。





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