日本文学

2021年02月26日

ツイッターで相互フォロー関係のこだまさんの新著『いまだ、おしまいの地』をようやく読むことができました。(以下いろいろネタバレあります)


kodama (1)


デビュー作『夫のちんぽが入らない』から愛読していますが、今回も「物書きになるために生まれてきたとしか思えない」家族環境や生活の細部に嫉妬しながらも、帯の惹句にあるように「ちょうどいい。」ぬる燗のような柔らかい表現の数々に舌鼓を打ちました。


驚愕の家庭環境
「物書きになるために生まれてきたとしか思えない家庭環境」というのは、例えば一人称が「俺」の祖母。こんな人、普通いませんよね。

祖母の一人称は一貫して「俺」だ。

という何でもない一文でキャラが立ってしまう。こんな人は少なくとも私の周りにはいない。

その祖母が認知症になったのがきっかけで「確変」に入ってしまう。小学校で出待ちして子どもたちにお手玉を上げたり、早朝の校門前であいさつ運動を始めたり。

私たち家族には「奇行」でも、学校側からは「善行」と思われたらしい。お手玉も「強要」ではなく「奉仕」と捉えられた。世の中わからない。

この何でもない文章も名人芸ですよね。祖母の奇行に対して文字通り「奇異」の目で見ているこだまさんがおり、でも、同時に愛情をもって接している「やさしい」こだまさんも感じられ、そしてさらにすべてを「俯瞰」で見ているこだまさんがいる。人や物事へのまなざしだけで天下一品の文章が書ける。

文章がうまく描けないと悩んでいる人には一度こだまさんの本を読むことをお薦めします。(マジで。素直に書けばいいだけなんだとわかるから)

話を戻すと、ハワイ旅行に当選するまでのいきさつがすさまじい。こんなフィクションみたいなことは私の人生では一回もない。やはりこだまさんは「もっている」人なのだと思う。

東京の専門学校のある高名な脚本家の先生が、

「作家とは経験です」

と言っていたけれど、こだまさんは幼少の頃から珍奇なことを見聞きしてきたわけで、そしていまも最果ての地でいろんな経験をしているわけで、私など及びもつかないなぁ、と思ってしまうのです。


メルヘンを追って
kodama1
(こだまさんは覆面作家です。まだばれてないというからすごい)

この『いまだ、おしまいの地』は全部で20編のエッセイから成るんですが、一番印象的だったのが「メルヘンを追って」という一編。

人の言うことを鵜呑みにしてばかりのこだまさんは誰でも詐欺だとわかるダイレクトメッセージに反応してしまい、計44万円を騙し取られた、と。

でも、こだまさんの辞書には「騙される」という言葉がないようで、少しもメルヘンというハンドルネームの男を恨んでいない。それどころか、周りの人たちが骨を折ってくれてお金は全部返ってくるんですが、どっちみち自分の手を離れたお金だからと慈善団体に寄付してしまう。

寄付するきっかけができてよかった。

この気持ち、わかるようでわからない気もするし、わからないようでわかる気もする。

あれは京都にいたときだから1994年ごろですが、ニュースステーションで「最後の晩餐」というコーナーがありました。司会の久米宏が各界の著名人と晩餐を食しながら対談するんですが、脚本家の倉本聰が招かれたとき、こんなことを言っていました。

「何かをもらう、というのはとてもありがたいしうれしいことなんだけれど、何かを誰かに与えるという行為をしないと人間は生きていけないんじゃんないか」

と言っていたのがいまでも印象に残っています。

こだまさんも寄付のきっかけを与えてくれたメルヘンに感謝の意を示す。寄付は私もしてますが、最初はなかなかハードルが高いですからね。

こだまさんはだから「わざと騙されたんじゃないか」というのが私の見立てです。ご本人は否定するでしょうが、私が言っている「わざと」というのはもちろん「無意識に」という意味ですよ。

誰かに何かを与えないと生きていけない。そのきっかけを欲していたときにメルヘンと出逢った。そういうことではないかと。

しかし、そこまでなら私にも同じようなことがあったと思う。(ないか?)

こだまさんの真に非凡なところは、メルヘンの実家に乗り込んだとき、彼の母親の何気ない一言を聞いてメルヘンとその家族の幸せを願っているところ。もしかしたら「メルヘンはかつては幸せだった。でもいまは……」という意味かもしれませんが、私には著者が彼の幸せを願っているように感じられました。

そのような太っ腹は、私には、ない。

しかし、脚本家の荒井晴彦さんが「かすり傷を重症と思うかどうかだよ」と言っていたし、くだんの高名な脚本家の先生も「ユーミンみたいに1回の失恋で100曲書くんだよ。1回の失恋で1曲しか書けなかったら100曲書こうと思ったら100回失恋しなきゃならない。そんなの無理でしょう」と言っていた。

つまり、私の周りにはキャラの立つ人がたくさんいたし、いまもいるのかもしれない。私がそれに気づいていないだけか。「フィクションみたいなこと」もたくさんあったのかもしれないけど、それに気づく感受性をもち合わせていなかっただけか。もしかしたらそれを「才能」というのかもしれません。


名前をつけてもらう
まったく別の意味で印象的だったのは、旦那さんの奇行が「パニック障害」によるものであり、著者本人の病気が「自己免疫由来の鬱」と名前をつけてもらった途端に安心できた、というエピソード。

私も精神科に通いはじめたころ、自分の病名が「神経症」と知ったとき何となく体が軽くなった気がしたもんです。

実家の犬も自分の名前をつけてもらったと知った頃はとてもうれしそうだった(名前を呼ばれると文字通り跳んできたのがまるで昨日のことのよう)。どんな物事でも「名前がついていない」のが非常につらい。

私は皮膚病も患っているけれど、「脂漏性炎症」という病名はあるが、カビが原因まではわかっていても、具体的にどういう名前のカビが原因なのかはわからず、いまだに特効薬の開発には至っていない。

名前がわかる。名前をつける。それはとても決定的なこと。

そんなことも気づかせてくれた『いまだ、おしまいの地』は非常にお薦めの一冊です。ぜひ。


いまだ、おしまいの地
こだま
太田出版
2020-09-02





  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2021年01月06日

桐野夏生さんの新作『日没』を読みました。桐野さんの作品を読むのは『ナニカアル』以来だと思うので、もう10年以上ぶりになるんですね。毎日新聞の書評欄「今年の三冊」で複数の票を集めていたとかで読んでみました。


nitibotu

効果的な一人称
マッツ夢井という作家のもとに、「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」(通称ブンリン)というところから召喚状が来るところから物語は幕を開けます。

ただならぬ気配を読み取ったマッツ夢井は指定されたところへ赴きますが、もとは結核のサナトリウムだったところに連れていかれ、「更生」に励んでほしいと言われる。いや、正確には更生するまで出られないと告げられます。

マッツの作品は興味本位でレイプを扱ったり変態性欲を書いたりしているので読者から通報があった。それでブンリンが動いたと。前年にそういう法律ができた、コンプライアンスを徹底してもらいたいと言われるのだけど、新聞を読まないいまどきの作家であるマッツ夢井にはそれが本当かどうかわからない。

ここらへん、一人称で書かれている効果が如実に出てますよね。国家公務員と称するブンリン側が本当のことを言っているのか、それとも一部の狂信的な人間たちが私刑を行っているのか、マッツ夢井にも我々読者にもわからない。

主人公が知っている情報量と読者が知っている情報量が常にイコールで結ばれています。一人称で書く最大の利点はこういうところですよね。


「正しい小説」とは何か
最後のほうでマッツ夢井は転向するから拘束衣だけは勘弁してほしいと言います。ここらへんのマッツの感情の変化がよくわかりませんでした。転向するというわりには反抗的だし、反抗的なわりには拘束衣と聞いただけで転向すると懇願して土下座も厭わないマッツの目まぐるしい心の変化についていけなかった。しかし、追いつめられた人間の感情ってあんなふうに起伏の激しいものなのかもしれません。

あそこのシーンで大事なのは、「あなたが書いているのは良い小説ですか、悪い小説ですか」という院長・多田の言葉ですね。

ブンリンにとって、作品はコンテンツ(ほんといやな言葉)であり、コンテンツには良いか悪いかしかない。あるいは正しいか正しくないか。普通なら「面白いか面白くないか」でしょう? それを権力者は良いか悪いか、正しいか正しくないかという価値基準で測ろうとする。

マッツ夢井は「あなたの良い小説の定義は?」と訊かれ「自分に正直な小説です」と答える。「読者の側には立っていないということですね」との誘導尋問に「その通り」と居直る。「私たちは自分の書きたいことしか考えていません。それが読者の心を打つかどうかなんて関係ない。まずは自分が書くことに心を打たれないと」という正論を述べます。

ここはマッツ夢井というより桐野夏生という作家の本音なんでしょうね。「まず書いている自分が心を打たれるべきだ。それが他人の心を打つかどうかなんてわからない」と。

確かにそうですね。自分が面白いと思えないものを他人が面白がるはずがないし、とはいえ、自分が面白いと思っても他人も面白がるとはかぎらない。そこに乖離が生じたら売れないし食っていけない。

「たまたま私の場合は、自分が面白がったものが世間の大勢が面白がってくれただけ。運がよかった」という桐野さんの謙虚な言葉にも読めます。


読者におもねってはいけない
マッツ夢井は「母のカレーライス」という駄文を書きますが、ブンリン側は「正しいことが書かれている。もっとこういうのを書いてほしい」と喜びます。

しかし作家は国家権力はおろか、一般読者にすらおもねってはいけないと桐野さんは信じているのでしょうね。私もそう。まずは自分が面白いと思えるかが大事。自分だけが面白いと思っているだけかもしれない駄文を書く自由、出版する自由を奪われたら、読者におもねったことしか書けないし、いま実際にネット空間ではそうなってきています。

ツイッター界隈では世間一般の常識と違うことを書きこむとすぐに炎上するし、炎上させようと有名人の投稿を待っている人がいる。炎上が怖くて最初から「こういうことを書くのはよそう」と無意識に自己検閲している人も少なくないと思います。

かくいう私も少しはそういう「心のブレーキ」をかけているかもしれない。

でも、それはやっぱりだめなことだと思う。そのようなブレーキは作家の矜持を自ら捨て去ることに等しい。


綺麗事だけじゃないよ
世間はきれいごとが大好きですが、その傾向は年を追うごとに強くなっています。夫婦や家族の問題でしかない不倫があそこまで世間の耳目を集めるのは、きれいごとを重んじる人たちがどんどん増加していることの何よりの証左でしょう。

「ありとあらゆる人の苦しみを描くのが小説なんだから、綺麗事だけじゃないよ」

とマッツ夢井は、いや、桐野夏生は言います。

きれいごとを描く小説や映画があってもいい。でも、それだけじゃつまらない。

正しいだけが人生じゃない。

面白ければいいじゃないか、とヒッチコックは言った。


日没
桐野 夏生
岩波書店
2020-09-30




  • このエントリーをはてなブックマークに追加