政治

2021年07月28日

もう結構前ですけど、ある小説家の方が、

「いまコロナを描かないとSFになる。そういう葛藤を抱えていない作家はいないと思う」

と言っていて、一見正論のように見えるけれど、「本当にそうか?」という疑念がすぐ湧きました。でもそれをうまく言葉にすることができなかったんですが、このたび、やっとわかった気がします。


コロナ小説?
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そう言ってる私も実は去年、コロナ禍を舞台に短編小説を書いたんですけどね。しかしながら、あれは「いまコロナが蔓延してるからコロナを描かないとアクチュアルな小説にならない」と考えたわけではなく、当時跳梁跋扈していた自粛警察からいろいろ連想していて思いついた物語でした。

でも、コロナと真正面から取り組むつもりがなかったので、コロナに関する話なのか、自粛警察にかこつけたサスペンス譚なのか、よくわからない代物になってしまった憾みがあります。

コロナ禍をフィクションに取り入れた作品として私がすぐ思い出すのはクドカンの『俺の家の話』ですね。


『俺の家の話』と『姉ちゃんの恋人』
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この作品はなぜコロナ禍でマスクをしているという設定なのか、よくわかりませんでした。「介護」や「認知症」という今風の題材を取り入れているからコロナを取り入れないと「いまを描いたことにならない」と作者たちが考えたのかどうか。(単純に役者の顔がちゃんと見れなくてイライラしたのは私だけではないはず)

コロナを描かないと「2020年や「2021年」(そしておそらく「2022年」も)を描いたことにはならないのでしょうか?

そんなことはない。

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『俺の家の話』の1クール前、有村架純主演の『姉ちゃんの恋人』では、明らかに「2020年」が舞台だとわかる物語設定でした。回想シーンのトイレットペーパーの買い占めではみんなマスクしていたのに、現在のシーンでは誰もマスクをしていなかった(あれは回想でもマスクしてないほうがよかった)。

コロナでいろいろつらかった、不自由を強いられた今年だからこそ特別なクリスマスイベントを、という物語だけど、役者の顔がちゃんと見れるようにマスクはしないし、ソーシャルディスタンスも取らない。

画像の観覧車のシーンはかなり意図的なものと思われます。脚本家・岡田惠和さんの、ソーシャルディスタンスなんか描かなくても、つまりコロナを直截的に描かなくても2020年を描くことはできるんだ! という宣言だったように思います。


『戦争と一人の女』
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もう10年近く前の映画ですが、文科省を辞めた寺脇研さんが製作、荒井晴彦さんが脚本を書いた『戦争と一人の女』という映画がありました。

荒井さんが見た学生から感想を募ると、

「戦争中なのにセックスばかりしてるのはリアリティがない・共感できない」

という感想が多数派を占めていてげんなりさせられたと言っていました。

そうなんですよね。戦争中だからといって戦争ばかりしていたわけじゃない。そもそも沖縄以外の本土は空襲の被害には遭ったけど、実際の戦場にはならなかったし、戦争中だからといって不自由ばかり強いられていたわけでもなかった。

コロナ禍のいまだってそうでしょう? 今日、東京都で初めて新規感染者が3000人を超え、全国でも初の8000人超。なのに、都下では緊急事態宣言中であるにもかかわらず、やはりオリンピックという祭りで浮かれているからか、みんな気持ちが緩んでいる。だから中止にせよと言ったのに。

というのはまた別の話ですが、戦争中だからといって国民がみな戦争のことばかり考えていたわけではないのと同じように、コロナ禍だからといってみんながみんなコロナのことばかり考えてるわけじゃない。

コロナを描かなければ2020年や2021年を描いたことにはならない? いやいや、それを裏返せば、コロナさえ描けば2020年・2021年を描いたことになってしまう。それは違うと思う。


「時代」をどう捉えるか
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おまえは生まれる時代を間違えた。とよく言われます。幕末、あるいはテロが横行した大正から昭和初期、あるいは68年革命の時代がおまえには似つかわしい、と。

私自身、そうかなと思わないでもないんですが、一番現在に近い68年でさえ、68年当時はどうか知らないが、その年に学生であるためには戦後すぐに生まれないといけないわけで、戦後すぐなんて日本全国ボットン便所でしょ? それがいやなんですよ。

政治的なことを考えたら、私という人間は68年に合っているのかもしれない。でも毎日あの臭すぎるボットン便所なんて絶対いや。田舎で使ったことはあるけど、あまりに行くのがいやで、我慢のあまりウンコもらしちゃったほどですから。

68年革命の闘士だって四六時中革命のことを考えていたわけではないでしょう? 政治よりもまずその時代で生活をしないといけないわけで。生活を抜きに「時代」を考えることは不毛です。

コロナは人々の生活を根本から変えたとは言われるけれど、変わってないところのほうが多いのでは?  

料理、食事、歯磨き、トイレ、洗濯、掃除、etc. 特に変わってない。そりゃ買い物はマスクして行かなきゃいけないし、食事前後の消毒を念入りにとかはあるにしても。

10年後、20年後あるいは50年後、100年後に「2020年」や「2021年」のことを振り返るとやはり「新型コロナウイルス」というキーワードが登場するでしょう。政治的・社会的なことを振り返るならそれでいいと思う。

でも人々の「生活」を考える場合、コロナ禍だからといってみんなコロナのことばっかり考えてたわけじゃなかったよね? 一番感染がひどかったときにオリンピックで日本スゴイってなってたよね? という言説が支配的になる気がしますが、どうでしょうか。










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2021年07月15日

東京オリンピックが開催されることが決まりました。新型コロナ感染者は増加の一途をたどっていて、いまからでも中止にしたほうがいいと思いますが、IOCも政府もやる気満々なので止めるのは無理でしょう。


東京オリンピック2020は政治まみれの祭典
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私は感染者が増えるとかそういうことの前に、この一年半の政府の不手際(重傷者用ベッドをほとんど増やしてないとかワクチンに関するシッチャカメッチャカとか)を見ていると、この国はオリンピックという大きな大会を運営する力をすでに失っていると思う。おそらく大会期間中にいろんな不手際が続出して世界中に恥をまき散らすことになるでしょう。

それでいいと思う。堕ちるところまで堕ちれば8月15日を境にすべてが180度変わったように、いい方向へ変わるかもしれない。少なくともこれ以上の失政や失言が続けば、どうあがいても衆議院選挙は自民党の負けでしょう。

何しろ、あれだけ自治体に「早くワクチン接種を!」と言っておきながら途端に在庫が底をつくんですから、来週からどれだけの失策を世界に見せることになるのか。結構楽しみにしています。

すでに、飲食業界の不満鬱積は爆発寸前ですし、あろうことか金融機関を使って恫喝のススメをする、酒屋に対して居酒屋に裏切りのススメをする、という開いた口が塞がらない所業をして、非難されてもなお上司にだけ謝罪するという体たらく。

堕ちるところまで堕ちた日本の政治家と、「私たち自身にも責任がある」と自戒したサイゼリヤの社長。国民がどっちの言葉に従うか、ここで権力者におもねるようだとこの国はジ・エンドですな。

失政だけでなく、IOCのバッハとそのお友だちは開催したくてうずうずしている。オリンピックが利権まみれであることが白日の下に曝された。招致にあたって贈収賄の疑いがあるし(100%本当でしょうが)このオリンピックは政治まみれの祭典なのは誰の目にも明らか。


「スポーツに政治をもちこむべからず」という伝家の宝刀
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しかし、こういうオリンピックというスポーツの祭典をを政治利用することを好ましく思わない人たちがいます。

「スポーツに政治をもちこむな」という例のアレです。

私の知人で、東京オリンピックは中止にすべき、いや開催すべき、ということについて何も言わない人がいました。そのこと自体は別にいいでしょう。誰もが政治的な発言をしないといけないなんてそれこそファッショです。ところが、先日「開催決定!」という一報が流れるや否や、彼はこんなツイートをしました。

「スポーツ選手には昔から『夢を叶えた人』ということで尊敬の念をもっている。オリンピックではみんな頑張ってほしい。政治的なことに惑わされず、見る人を楽しませてほしい」

はあああああ? 賛成だったんかいな。それなら最初からそう言いなはれ。何も言わんといて開催と決まってから後出しじゃんけんみたいに言うなや。

それに「政治的なことに惑わされず」というのは看過しがたい。欧米諸国はワクチン接種率を高めることで映画館再開などこれまで禁止だったことが解禁され始めている。なのに日本は緊急事態宣言⇒解除⇒リバウンド⇒緊急事態宣言⇒解除⇒リバウンド⇒緊急事態宣言⇒解除⇒リバウンドと、同じことをぐるぐるやっているだけ。ワクチンさえ打てばと思っていたのにそのワクチンがいまは予約休止という憂き目。(私はまだ1回も打ってませんぜ)

とにかく、安倍と菅とその他お友だちの失政のせいで「開催か中止か」「開催なら無観客か否か」という議論をこんな直前までずっとやってきているのに、政治的なことに惑わされずって、やっぱりそれは「スポーツに政治をもちこむな」というアレなんですよね。スポーツファンの伝家の宝刀みたいなやつ。もちこんでいいのはブラックサンダーだけか?


毛沢東の言葉
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かつて毛沢東は言った。

「戦争とは血を流す政治であり、政治とは血を流さない戦争である」

スポーツは血を流さない戦争なのだから、つまるところ、「スポーツ=政治」ということになります。

だからスポーツに政治をもちこむなというのがおかしい。え? スポーツが戦争という前提がおかしいって? いやいや、それはオリンピックが「国別対抗戦」だからですよ。


すべての国別対抗戦は「戦争」である!
最近あまりないですが、最もナショナリズムが高揚するスポーツであるサッカーで「日本vs北朝鮮」というカードの場合、「これは代理戦争だ。絶対負けるな!」と叫ぶ人たちがいる。一方で「スポーツに政治をもちこむなんて」と醒めている人たちがいる。

私は断然前者。だって国別対抗戦なんですよ。国籍でメンバーを決めてるんですよ。試合前に国歌斉唱するんですよ。イタリアなら青、スペインなら赤というその国を象徴する色に染まったユニフォームを着て戦うんですよ。その時点で「政治」じゃないですか。

私は大のサッカーファンだけどワールドカップは廃止にしたほうがいいと思う。国別対抗戦なんかやっているからいまだに戦争がなくならないのだ。クラブチーム同士の対戦だけでいいじゃないですか。いろんな国の人が団結して戦う。それで充分。なのにテニスや卓球はせっかくの個人競技なのに、わざわざ団体戦なる国別対抗戦をやっている始末。嗚呼。


大谷翔平は政治利用すべからず
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いま世界で一番スポーツを楽しんでいる大谷翔平。ほとんど野球を見なくなった私でも、彼のアスリートとしてのすごさ、人柄の良さには感じるところが大きい。

昨日の「クローズアップ現代+」は大谷のすごさを斎藤隆が解説する内容でしたが、最後に女性アナウンサーの、

「アメリカではいま人種問題がとても大きな問題になっていて、大谷選手が人種の垣根を越えて愛されていることに希望を見出す人もいるようですが」

との振りに、斎藤さんが見事な返しを見せました。

「いや、大谷はただ野球を楽しんでいるだけなのに見ている人がそこに何らかの意味を見出そうとしているだけ。そういうことに関係なく彼のプレーを楽しみましょう」



私も同意見。大谷と「政治問題」を結びつけるのはナンセンス。なぜなら彼は国別対抗戦を戦っているわけではないし、むしろアメリカ人、プエルトリコ人、ベネズエラ人などいろんな国の人と分け隔てなくコミュニケーションをとっているから。彼は政治とは関係ない。これがWBCになったら話は別ですが。

オリンピックは国別対抗戦なのだからもともと政治的なものだし、特に今回の東京オリンピックは新型コロナにまつわるあれやこれやがあるからよけいに政治まみれ。

スポーツに政治をもちこむなというほうがおかしい。最初から政治なのだ。











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