思想

2020年10月02日

Change.orgというの、あるじゃないですか。
最近なら杉田水脈の議員辞職を求めるとかそういう署名活動をやっている団体。

私も何回か賛同したことがあり、おおむねその活動には好意的でしたが、今回は完全に反対意見です。


履歴書に写真は不要?
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Change.orgからのメールには「履歴書に写真は必要なのか」と書いてありました。

何でも諸外国では性別や人種、年齢、国籍を書く欄をなくそうという動きが活発で、何より仕事において大事なのは能力や適性であり、性別や外見でそれを判断するなどナンセンスだと。

確かに、人種差別が盛んな国では履歴書の写真はなくしたほうがいいかもしれません。書類審査で落とされる可能性がありますから。

でも日本には、日本人以外にもアイヌ人や在日朝鮮人もいますが、外見だけでは判別できません。写真だけでは差別されないのだから別にいいんじゃないかと思います。

Change.orgの言い分で納得いかないのは「外見に内面は反映しない」というきれいごとを信じ込んでいることで、そんなのは子どもの言い分ですよ。

そりゃ、彼らの言い分にある「アルビノや顔面に怪我や痣がある人がそのせいで不採用になるのは防がないといけない」というのはもっともです。

しかし、Change.orgはそういう人たちだけでなく「すべての人が外見で採否を決められるのを防がないといけない」というんです。これは完全に子どもの言い分です。

内面は外見に出ます。

履歴書に写真を貼らずとも、面接ではがっつり外見を見られます。顔を洗ったり、ヒゲを剃ったり、鼻毛処理をしたり、シャツにアイロンをかけたり、靴を磨いたりなどなど、身だしなみを整えていないとそれだけで落とされるのは常識。

自分の身だしなみも整えられない人間に仕事などできないと捉えられても文句は言えません。


写真は「採否」だけに必要なのか?
そもそもの問題として、履歴書の写真って採用か不採用かを決めるために貼らせるんですかね?

私はかつて脚本家を目指していましたが、脚本家に「感想を聞かせてください」と送ったり、あるいは製作会社に売り込んだりするとき、顔写真を必ず貼って送ってましたよ。

なぜか。

理由は至極簡単です。どこの馬の骨かわからない人間から分厚いシナリオが来た場合、その馬の骨の顔がわからないよりわかったほうが読んでもらえる可能性が高まると思ったからです。

私はハゲていますから外見に問題のある人間です。少しも見栄えはよくありません。それでも顔がわからないよりわかったほうが可能性は高まると信じて手紙に写真を貼っていました。

書類にいくらその人の履歴や情報が書かれていても、その情報を「人間」とはあまり感じられない。それが普通の感覚です。顔がわかったほうが「あ、こういう人が送ってきたんだな」とわかって親近感をもってもらえる。

逆に、履歴やスキルだけが書かれた紙だけで能力や適性を判断するほうが非人間的なふるまいだと思いませんか?

採用する側だってそれはわかっているはずです。というか、わからざるをえない。なぜなら、たくさんの人を面接するわけだからあとで選考する際に名前や年齢、履歴やスキルといった情報だけでは誰が誰やらわからなくなってしまう。そこに写真が一枚ありさえすれば「あ、この人ね」とわかってもらえる。顔写真にはありとあらゆる「情報」が詰まっているから一目でわかるのです。

よく、非常識なふるまいをする人がいたら「親の顔が見てみたい」というじゃないですか。決して親の職歴や能力、年齢、日頃の行いなんか問わない。問われるのは「どういう顔をしているか」それだけ。

少年犯罪が起こると、顔をさらすのは違法だから新聞やテレビでは犯人の顔は見れませんが、正義を標榜する週刊誌が載せたりしますよね。載ってたら見ますよね。いったいどんな顔の奴があんなひどい殺人を犯したのかと誰もが思う。そういうことだと思うんです。


美人だからといって採用されたりしない
Change.orgは最近のほとんどの企業と同じく、人間の能力をすべて数値化できると思っているのでしょう。顔写真に含まれる情報は数値化できない(おそらく情報量が膨大すぎて無理なんだと思う)から「そんなものを載せるなんて不当だ!」と思うんじゃないですかね。

怪我や痣なども数値化できません。数値化できないから厄介なのです。

でも、その厄介なものも含めて「その人」であり「その人の内面」を反映していると言えるのではないでしょうか。

顔に痣がある人には心底同情しますが、笑顔ひとつでチャーミングな部位に変えることは可能でしょう。

ピンチはチャンスという言葉があるように、弱点を隠すのではなく、チャームポイントに変える積極的な方法論を模索すべきではないでしょうか。だって、採用されたら自分の顔をさらして働かないといけないんですよ。就活のときだけ隠すなんてできないんですから。

かつてバイト先の同僚に絶世の美女がいましたが、いくら面接を受けても結果が出ず、どこにも決まらないまま結婚という永久就職の道を選ばざるをえませんでした。

見た目がいいからといって採用するようなアホな会社はごくごく少数派です。



美人の正体 外見的魅力をめぐる心理学
越智 啓太
実務教育出版
2013-08-28







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2020年07月24日

雨宮処凛さんの編著による『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)を読みました。

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2016年に起きた相模原市にある障害者施設「津久井やまゆり園」で19人もの障害者が殺された事件。

犯人は植松聖という、何とその施設の元職員。いったいなぜ??? とはてなマークと憤りが渦巻いてもう4年になります。

雨宮処凛さんが実際の障害者や精神科医と対談したこの本は、決して植松をモンスターとして社会から排除しようとはせず、逆に社会から排除されたのはなぜか、排除されたように思いこんだのはなぜか、その深層にグローバリズムの視点から斬り込んでいきます。


世界経済活性化のために
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植松の犯行の動機は、当時ニュースでもさんざん言われてましたが、

「障害者をもつ親のために」というものでした。障害者の子どもをもった人の負担を減らしてあげたのだと。そして、障害者は何の役にも立たないから殺してもいいのだと。

また、彼はこうも言いました。

「世界経済活性化のため」「日本国の借金をこれ以上増やさないため」

つまり、「生産性」のない人間を亡きものにし、「生産性」をもつ人間だけで経済を回せば日本の借金は減り世界経済が活性化すると。

2004年のイラク人質事件で「自己責任」という言葉が罷り通るようになりました。「おまえたちのせいで税金が使われた」という声があがりました。


神聖なる「税金」
税金といえば、生活保護費は税金から出ていますが、何といま「生活保護を受けるくらいなら自殺する」「税金の世話になってまで生きていようと思わない」と平気で言う人間が増えているとか。

何か「税金」というものを「自分たちのもの」と思いすぎですよね。そりゃ私たちが払った血税なんですけど、それはやはり社会的弱者から優先的に使われねばならないのに、「自分たちの金が使われた」という感覚に陥るというのは解せない。それならまず、自分たちから税という形で収奪している国家を糾弾せねばならないはずなのに、それはせず、逆に為政者の望みそうなことを勝手に推測して実行する「忖度する悪漢」が跋扈している。その最たるものが植松ではないか。ハンナ・アーレントはアイヒマンのことを「凡庸な悪」と総括したが、もしアーレントが植松を観察したらどのように総括するだろうか。

税金の話に戻すと、私もできれば自分の食い扶持は自分で稼いでいきたいと思うけれど、病気になったり障害を負ったらそれができなくなるわけですよね。それでも税金の世話になりたくないというのは想像力の欠如か、あるいは、我々現代日本人が幼少の頃から内面化させられている「他人に迷惑をかけてはいけない」というほとんど「信仰」に近いものが根底にあるからでしょう。

「他人に迷惑をかけるな」と同時に日本人が刷り込まれている価値観に「社会の役に立て」というものがあります。「数学を勉強して何の役に立つのか」と平気で言う子どもが増えているのもそのせいでしょう。

おそらく、植松や植松に共感する人たちは、社会の役に立つ人間は税金を納めることのできる者のことで、納めた者にだけ還元されないとおかしいと考えているのでしょう。俺たちが納めた税金をなぜ納められない人間が横取りするのか、ということだと思う。

そこから一歩か二歩進めれば、役に立たない障害者は殺してもいい、となる。そこまで行かずとも、役に立たない障害者を税金で食わせてやるのは無駄遣いという間違った思想につながっていく。(しかし、彼自身がいまは税金で生かされているという事実をどう考えているのだろうか?

この社会が数十年かけて生み出したのが植松聖というモンスターだというのがこの本の論旨ですが、上述の日本だけの事情だけでなく、先述のとおり、グローバリズムの視点を盛り込んでいるところが素晴らしい。


トランプ
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植松はトランプが大統領になったことに感激したという。

「あれだけ本音をどんどんいう人間はかっこいい」と思ったそうな。下品なだけなのに。


本音と本心は違う
しかしながら、「本音」と「本心」は違う、という話がこの本には出てきます。

「本音と本心は違う。「ぶっちゃけ……」と本音を語っているつもりが、どこかからのコピペであることが多い。その人自身の体験にしか裏付けられていない特別な話なのに共感せざるをえない、それが本心」

だそうですが、ヘイトスピーチなんかも自身の体験に少しも裏づけられていませんよね。2年ほど前に駅前でヘイトスピーチを実際に見ました。というか、ヘイトスピーチをやめましょうという演説に対し、「ヘイトの定義を言ってみろ!」などと罵詈雑言を浴びせていました。

「ヘイトの定義を言ってみろ!」というのは、おそらくネットとか誰か他人の言葉をそのまま口にしてるだけなんでしょうね。それを口にすれば相手が押し黙るのを「成果」として知っている。本人は勝ったつもりなんだろうけど、こちらの心には何も響いてこない。


障害者自身の内なる優生思想
ヘイトといえば、障害者自身が自らの障害をヘイトするようなことがあるらしい。

自分と同じ障害をもつ異性を好きになれない。自分の身体を醜いと思う。

植松自身も整形手術を繰り返したり犯行前に正装した自撮り写真をツイッターにアップしていたそうな。自分が嫌いだ、自分を肯定できないという感情に依存している、それはセルフネグレクト、もしくはセルフヘイトと言っていい、と本書で語られています。

「あなたはもしかすると、自分は役に立たない人間だと思っていたのではないですか」

と面会した人は訊いたそうな。

植松は教師になることに挫折し、しかも自分のせいで教職を追われることになった父親に対し申し訳なく思っているという。でも障害者を大量殺害したことで「役に立てた」と本気で思っている。

私がこの本で一番興味深いと思ったのは、ナチスの優生思想に共感を示す植松に対し「殴ってでもそこから救い出そうとした友人がいた」ということです。

殴ってでも、というのは本当の友人ですよね。生涯の親友になれたかもしれない。でも彼の言葉は植松には届かなかった。

「植松は自分の声すら聞き取ることができなかったんじゃないか」という一節がありましたが、激しく同感!


悦楽人・植松聖
「外にいたときの楽しみは?」と訊かれた植松は、

「おいしいものを食べること、大麻を吸うこと、そしてセックス」

と答えたそうな。もう死ぬまでその三つは無理だね、というと、それでいいと思っていると答えたとか。三大快楽を捨ててでも世界経済活性化のために、日本経済救済のために大量殺人を犯したというのだから、やはりこんな奴はモンスターとしてさっさと処刑すべきではないか、と思ってしまう。

でもそれは早計なんですよね。我々みんなが自らのうちに巣食う「内なる植松」の声に耳をすませなければ。


誰でも「障害者」になりうる
これは誰でもいつ何時、事故に遭遇して障害を負うかわからないという意味ではなく、「障害」というものの定義から来ます。引用してみましょう。

「障害とは、社会と個人の間のミスマッチが生み出すもの。社会構造の急速な変化によって定義上『障害者』にカテゴライズされる人が増えているのではないか。身体上は健常者でも社会モデル的には障害者と呼べるのではないか」

私もこの歳で非正規雇用者だし、社会的にはかなり弱者だと思う。(でも幸福感に包まれていますがね。幸せはカネでは買えんのだよ。おほほ)

でも現在は社会モデル的という意味でも「障害者」ではないと思うけど、この先、社会構造のさらなる変化で「障害者」になる可能性は充分ある。

が、この「社会モデル上の障害者」が何を意味するかは難しい。

まさか役に立たない人、税金を納める人のことじゃないでしょう? それでは植松と同根になってしまう。

おそらくここでいう新たな障害者とは植松自身のことを言っているような気がします。

別の人はこう言います。

「植松個人の成育歴や精神状態を調べると同時に、グローバルな現象の一端として考える必要がある。そのときのキーワードは「剥奪感」と「孤独」。単に雇用や権利だけの問題ではなく、自分が生きる意味とか自分が自分である根拠みたいなものまで失われているという剥奪感」

かつて酒鬼薔薇聖斗と自称した少年は犯行声明に「透明な存在の私」みたいなことを書いた。あれと似たようなものかな。

自分が自分である根拠を失う、という感覚が私にはわからない。

わからないといえば、私は自殺未遂者だけれど、中1のとき誰かが自殺したというニュースを見て、親に「自殺する人の気持ちが少しもわからない」と言った記憶がある。それから数年もたたないうちに自殺願望を有するようになるのだけど、友人たちは「死にたい」という気持ちがわからないという。そのとき、私はどうしようもない「孤独感」に苛まれる。

だから、社会構造の変化によって私自身が植松のような大量殺人犯になる可能性はある。

でも、その可能性はかぎりなく低いとも思う。

なぜなら、先述したように「社会的弱者には違いないが幸福感に包まれている」から。

私は自分自身が好きなのである。自分を肯定しているのである。自分が自分である根拠をもっているのである。


笑顔
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結局、「笑顔でいること」「いつも朗らかでいること」が大事なのではあるまいか。

楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ。とは心理学の常識らしいですが、何があっても笑顔を絶やさずにいれば、自分が自分である根拠を見失わずにすむし、孤独感にさいなまれることもない。

結論はいたって単純でつまらないものになりましたが、「不寛容」の対義語は「寛容」、そしてそれは「笑顔を忘れない」ことだと思います。笑顔でいれば「世界経済活性化のために」なんてパラノイア的なことは決して考えないでしょうから。








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2020年05月21日

2016年にスマッシュヒットを飛ばした『逃げるは恥だが役に立つ』の「ムズキュン! 特別編」の放送が始まりました。

私は16年の初放送時は見逃してしまい、翌年のCS放送で見たんですが、なかなか斬新な切り口で面白かった。でも最後のほうは違和感も感じたんですよね。それをうまく言葉にできないまま3年近くたとうとしていますが、今回の「ムズキュン!」で違和感の正体をつかみたい、あるいは初見のときより楽しみたいと思って再見してみました。


『逃げ恥』の経済学
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(かわいいけど色気がないんだよな、この子は)

『「逃げ恥」にみる結婚の経済学』なんて本が出てるっていま初めて知りました。

劇中でも「主婦の家事労働は年収換算で304万円」と言ってましたが、私が言及したいこのドラマの「経済学」はそういうところにはありません。

労働を金銭に換算し、それを対価として払う。

まったく問題のないように思いますが、私はそれではダメだと思う。『逃げ恥』の第2話以降でどのような経済学が描かれるかあまり憶えていないんですが、少なくとも第1話では「原初の経済」が描かれていたのが興味深かった。

初見のときは気づきませんでしたが、あの二人は「沈黙交易」をやってますよね?


沈黙交易(贈与と返礼)
沈黙交易とは、言葉を交わさずに物々交換を行う人類黎明期の貿易です。

まず、ある部族が自分たちが作った作物で余りものが出ると、それを他の部族との境界線にそっと置いておく。他の部族がそれを気に入るともって帰り、お返しに自分たちの余りものを置いておく。

経済活動というと「まず需要があって、それを満たすための供給が始まる」と思いがちですが、事態はまったく逆です。まず供給するんです。贈与ですね。それに対して返礼が行われ、その返礼に対する返礼(新たな贈与)が行われ……

需要があるから供給が生まれるのではなく、供給するから需要が生まれる。

『逃げ恥』の物語を大きく駆動するのはガッキーの契約結婚の提案(供給)ですよね。それによって「結婚なんて一生縁のないこと」と思っていた星野源に初めて結婚の「需要」が生まれる。

あくまでも供給が先で需要は後。それが経済活動のあるべき姿です。(星野源だって「いつか俺だって結婚したい」と内心は思っていたはずですが、その無意識の欲求を顕現してくれたのはガッキーの思わず出た「じゃあ結婚しませんか⁉」だったはず)

主婦の家事労働が金銭に換算するといくらだ、という言説は、まず「夫に家事労働をしてほしい」という需要があって、それに対して妻が供給する。その供給に対して給料を支払え、と言っているわけですね。

でも、『逃げ恥』で描かれる家事労働と金銭の授受はそれとはちょっと違いますよね。ちょっとだけど大きな違い。


『逃げ恥』における「贈与と返礼」
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この二人は最初は星野源の「家事労働を外注したい」という需要に対してガッキーが労働力を供給したのでは?

と思う人もいるでしょう。私は違うと思う。

最初の出会いで、星野源は給料を前払いしますよね。「気に入らなかったらそれっきり会わないでいいから」と、この男らしいことを言いますが、この記事の論旨に照らし合わせると、星野源はまず前払いという形で「供給」をしているわけです。「贈与」です。

ガッキーはそれに対して一生懸命家事労働に精を出す。気に入ってもらえなかったらまた職探しせねばならない。何とかしてここの仕事を得る! という「需要」が発生しています。

この二人の間の経済活動は沈黙交易と同じように、まず星野源の供給があり、新垣結衣の需要という形で始まります。そしてその需要は「次からもよろしくお願いします」という事実上の採用メールによって満たされる。

そして、ここからが大事なんですが、ガッキーは「いつもひとつだけよけいな仕事をしている」と言いますね。

最たる例が「網戸を洗う」。そんなのは契約にない。契約にない労働力を今度はガッキーのほうが「供給」する。

土曜の朝に窓を開けたらいつもより明るかった。なぜだろうと思ったら網戸がきれいになっている。

と星野源は感激します。

彼は、おそらくガッキーの「よけいな仕事」に感動したから契約結婚という普通なら尻込みしてしまいそうな提案を受け入れたのでしょう。

そりゃ、劇中で星野源はいろんな試算結果を提示して「合理的に判断して」ガッキーの提案を受け入れたと言いますが、私は合理的なだけではあの契約結婚は成立しなかったと思う。

ガッキーの「無償の供給」に感動したから、という動機がなかったらこの作品はただの「計算ドラマ」になってしまいます。そんなものが面白いわけがない。


「必要がないものをわざわざ買う?」(大谷亮平)
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大谷亮平と石田ゆり子が初めてニアミスする場面で、彼は結婚を望む彼女に対し、「じゃあ君はさ、必要がないものをわざわざ買う?」という一言できっぱり別れますが、非常に貧しい考え方と言えるでしょう。

もう20年以上前、『ニュースステーション』で司会の久米宏が黒柳徹子など大物文化人を招いてトークを繰り広げる「最後の晩餐」というコーナーがありました。

脚本家の倉本聰が招かれたとき、

「もちろん、与えられることはうれしいし、ありがたいんだけど、他者のために与えるということがないと人間は生きていけないんじゃないか」

と言っていたのが印象的でした。

この『逃げ恥』が描く経済学は、決して必要なものを買って必要じゃないものは買わないとか、提供された労働力を金銭に換算するとかいう無味乾燥なものではなく、まず贈与があり、返礼をする、その返礼に対してまた返礼をして……という、人が人として生きていくための、ごくごく当たり前の「常識」だと思うんですよね。

それを契約結婚という非常識な形で提示したのが斬新だったんじゃないか。

いや、そもそも契約結婚って非常識なんだろうか。結婚という制度そのものを疑おうよ、というメッセージもあったのかもしれませんが、それは来週以降に置いておきましょう。


続きの記事
逃げ恥の経済学②炊き込みご飯とぶどう(藤井隆の役割)
逃げ恥の神話学①星野源を救い出すヒーロー・新垣結衣
逃げ恥の経済学③と神話学②カラダを贈与するガッキーと返礼しない星野源
逃げ恥の経済学④と神話学③(終)搾取、呪い、共同ヒーロー


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2017-03-29





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