差別

2020年08月14日

『町山智浩のシネマトーク 怖い映画』を読みました。


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『血を吸うカメラ』に『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』『アメリカン・サイコ』など私の大好きな映画が取り上げられているので興味深く拝読しました。

が、一番期待していた『血を吸うカメラ』と『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』に関する文章はさして面白いものではありませんでした。

それに『ヘレディタリー/継承』『ポゼッション』『たたり』『狩人の夜』はさほど好きな映画じゃないので読んでいてもあまり乗れなかった。

『アメリカン・サイコ』と『カリガリ博士』に関する文章はなかなか興味深かったですが、それ以上に私にとってこの本の白眉と言えるのが、実はあまり好きじゃない映画『テナント 恐怖を借りた男』をめぐる考察です。


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この映画も上記の好きじゃない映画と同様、3回、4回と見ているんですが、多くの人が語っているような魅力が感じられなかった。

でも、町山さんの論考を読んで大いに蒙を啓かれ、これはすぐにでも再見せねば、と思いました。

ユダヤ人であるロマン・ポランスキーの出自や、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で描かれたシャロン・テートのこと、アメリカで淫行事件を起こしていまだ指名手配中であることなどが最初に語られます。

そのあとで映画本編の話になるんですが、最もギョッとなったのが、ポランスキー演じる主人公の隣人のパジャマが縦縞で、ナチスの収容所でユダヤ人が着せられている服だというところ。

ううう、いままでそんな重要なことに気づかなかったとは。

あと「警察署長と知り合いだ」「警察署長とは友人だ」というセリフで脅されたりするんですが、そんなセリフもまったく憶えていません。いったいどこを見ていたのやら。

「この映画には『ユダヤ人』という言葉が一切出てきません。だから縦縞パジャマの意味やポランスキーの出自を知らないと意味がわからない映画なんです」

いやぁ、私は縦縞パジャマの意味もポランスキーの出自も知っていたけど、少しも映画そのものにひそむ恐怖を感じ取れていませんでした。脱帽です。


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私がいままでこの映画に乗れなかったのは、おそらく「不条理劇」だからかもしれません。何だかよくわからないままに警察に連行されたりすることに乗れなかったのかも。町山さんも触れているカフカの『審判』なんて若い頃はめちゃ楽しんで読んだくせに。

主人公の前の住人シモーヌはエジプト関係の本をもっていたとか、壁にエジプトの象形文字が書いてあるとか、「え、そんなのぜんぜん知らなった」という体たらく。出エジプト記の「過越」の祭りが関係してくるとか、うーん、聖書は読んだけどまったく憶えてないニャ。また読まねば。アメリカ映画を存分に楽しむためにわざわざ大枚はたいて聖書を買ったのにまるで役に立てられていない。反省。

その他、ウディ・アレンの『カメレオンマン』が『テナント』を読み解くためのヒントになるとか、目からウロコの話ばかり。

主人公が終盤飛び込むパブにはアメリカの1ドル札を拡大したポスターが貼ってあるとか、私はおそらくこの映画を少なくとも4回は見てるはずですが、ほんとまったく目に入っていなかった。号泣。


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「差別は差別された人をおかしくしてしまうものなんですよ」

と町山さんは言うが、うーん、私が受けた差別といえば、イタリアに行ったとき老婆に道を訊いたらシッシとやられたくらいで、それ以外は何もない。差別はいけないと思っているし、そう言ってきたけれど、差別される者の悲しみや苦しみ、恐怖については逆立ちしてもわからないことを思い知らされました。

町山さんは在日韓国人ということでクラスメイトだけでなく教師からも差別されていたというし、いわれなき差別を受けた者でないとこの映画を十全には楽しめないような気もしてきました。町山さんの考察どおりに再見したとしても「よくできている」とは思えても「怖い」とまでは思えない可能性があります。

でも、とりあえずはユダヤ人差別の観点から見直してみようと思います。ここで本当に怖いのは、『テナント』という映画が「町山智浩が論じた通りの映画」にしか見えなくなることです。

いろんな見方があっていいはずなのに、それしか見えなくなってはいけない。

もっとしなやかに、もっとしたたかに、再見してみます。楽しみ。


私が書いた『血を吸うカメラ』と『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に関する記事はこちら。
『血を吸うカメラ』(KaoRiさんのアラーキー告発をめぐって)
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(『サイコ』を超える「主人公の入れ替わり」)

町山智浩のシネマトーク 怖い映画
町山 智浩
スモール出版
2020-06-09





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2020年07月24日

雨宮処凛さんの編著による『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)を読みました。

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2016年に起きた相模原市にある障害者施設「津久井やまゆり園」で19人もの障害者が殺された事件。

犯人は植松聖という、何とその施設の元職員。いったいなぜ??? とはてなマークと憤りが渦巻いてもう4年になります。

雨宮処凛さんが実際の障害者や精神科医と対談したこの本は、決して植松をモンスターとして社会から排除しようとはせず、逆に社会から排除されたのはなぜか、排除されたように思いこんだのはなぜか、その深層にグローバリズムの視点から斬り込んでいきます。


世界経済活性化のために
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植松の犯行の動機は、当時ニュースでもさんざん言われてましたが、

「障害者をもつ親のために」というものでした。障害者の子どもをもった人の負担を減らしてあげたのだと。そして、障害者は何の役にも立たないから殺してもいいのだと。

また、彼はこうも言いました。

「世界経済活性化のため」「日本国の借金をこれ以上増やさないため」

つまり、「生産性」のない人間を亡きものにし、「生産性」をもつ人間だけで経済を回せば日本の借金は減り世界経済が活性化すると。

2004年のイラク人質事件で「自己責任」という言葉が罷り通るようになりました。「おまえたちのせいで税金が使われた」という声があがりました。


神聖なる「税金」
税金といえば、生活保護費は税金から出ていますが、何といま「生活保護を受けるくらいなら自殺する」「税金の世話になってまで生きていようと思わない」と平気で言う人間が増えているとか。

何か「税金」というものを「自分たちのもの」と思いすぎですよね。そりゃ私たちが払った血税なんですけど、それはやはり社会的弱者から優先的に使われねばならないのに、「自分たちの金が使われた」という感覚に陥るというのは解せない。それならまず、自分たちから税という形で収奪している国家を糾弾せねばならないはずなのに、それはせず、逆に為政者の望みそうなことを勝手に推測して実行する「忖度する悪漢」が跋扈している。その最たるものが植松ではないか。ハンナ・アーレントはアイヒマンのことを「凡庸な悪」と総括したが、もしアーレントが植松を観察したらどのように総括するだろうか。

税金の話に戻すと、私もできれば自分の食い扶持は自分で稼いでいきたいと思うけれど、病気になったり障害を負ったらそれができなくなるわけですよね。それでも税金の世話になりたくないというのは想像力の欠如か、あるいは、我々現代日本人が幼少の頃から内面化させられている「他人に迷惑をかけてはいけない」というほとんど「信仰」に近いものが根底にあるからでしょう。

「他人に迷惑をかけるな」と同時に日本人が刷り込まれている価値観に「社会の役に立て」というものがあります。「数学を勉強して何の役に立つのか」と平気で言う子どもが増えているのもそのせいでしょう。

おそらく、植松や植松に共感する人たちは、社会の役に立つ人間は税金を納めることのできる者のことで、納めた者にだけ還元されないとおかしいと考えているのでしょう。俺たちが納めた税金をなぜ納められない人間が横取りするのか、ということだと思う。

そこから一歩か二歩進めれば、役に立たない障害者は殺してもいい、となる。そこまで行かずとも、役に立たない障害者を税金で食わせてやるのは無駄遣いという間違った思想につながっていく。(しかし、彼自身がいまは税金で生かされているという事実をどう考えているのだろうか?

この社会が数十年かけて生み出したのが植松聖というモンスターだというのがこの本の論旨ですが、上述の日本だけの事情だけでなく、先述のとおり、グローバリズムの視点を盛り込んでいるところが素晴らしい。


トランプ
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植松はトランプが大統領になったことに感激したという。

「あれだけ本音をどんどんいう人間はかっこいい」と思ったそうな。下品なだけなのに。


本音と本心は違う
しかしながら、「本音」と「本心」は違う、という話がこの本には出てきます。

「本音と本心は違う。「ぶっちゃけ……」と本音を語っているつもりが、どこかからのコピペであることが多い。その人自身の体験にしか裏付けられていない特別な話なのに共感せざるをえない、それが本心」

だそうですが、ヘイトスピーチなんかも自身の体験に少しも裏づけられていませんよね。2年ほど前に駅前でヘイトスピーチを実際に見ました。というか、ヘイトスピーチをやめましょうという演説に対し、「ヘイトの定義を言ってみろ!」などと罵詈雑言を浴びせていました。

「ヘイトの定義を言ってみろ!」というのは、おそらくネットとか誰か他人の言葉をそのまま口にしてるだけなんでしょうね。それを口にすれば相手が押し黙るのを「成果」として知っている。本人は勝ったつもりなんだろうけど、こちらの心には何も響いてこない。


障害者自身の内なる優生思想
ヘイトといえば、障害者自身が自らの障害をヘイトするようなことがあるらしい。

自分と同じ障害をもつ異性を好きになれない。自分の身体を醜いと思う。

植松自身も整形手術を繰り返したり犯行前に正装した自撮り写真をツイッターにアップしていたそうな。自分が嫌いだ、自分を肯定できないという感情に依存している、それはセルフネグレクト、もしくはセルフヘイトと言っていい、と本書で語られています。

「あなたはもしかすると、自分は役に立たない人間だと思っていたのではないですか」

と面会した人は訊いたそうな。

植松は教師になることに挫折し、しかも自分のせいで教職を追われることになった父親に対し申し訳なく思っているという。でも障害者を大量殺害したことで「役に立てた」と本気で思っている。

私がこの本で一番興味深いと思ったのは、ナチスの優生思想に共感を示す植松に対し「殴ってでもそこから救い出そうとした友人がいた」ということです。

殴ってでも、というのは本当の友人ですよね。生涯の親友になれたかもしれない。でも彼の言葉は植松には届かなかった。

「植松は自分の声すら聞き取ることができなかったんじゃないか」という一節がありましたが、激しく同感!


悦楽人・植松聖
「外にいたときの楽しみは?」と訊かれた植松は、

「おいしいものを食べること、大麻を吸うこと、そしてセックス」

と答えたそうな。もう死ぬまでその三つは無理だね、というと、それでいいと思っていると答えたとか。三大快楽を捨ててでも世界経済活性化のために、日本経済救済のために大量殺人を犯したというのだから、やはりこんな奴はモンスターとしてさっさと処刑すべきではないか、と思ってしまう。

でもそれは早計なんですよね。我々みんなが自らのうちに巣食う「内なる植松」の声に耳をすませなければ。


誰でも「障害者」になりうる
これは誰でもいつ何時、事故に遭遇して障害を負うかわからないという意味ではなく、「障害」というものの定義から来ます。引用してみましょう。

「障害とは、社会と個人の間のミスマッチが生み出すもの。社会構造の急速な変化によって定義上『障害者』にカテゴライズされる人が増えているのではないか。身体上は健常者でも社会モデル的には障害者と呼べるのではないか」

私もこの歳で非正規雇用者だし、社会的にはかなり弱者だと思う。(でも幸福感に包まれていますがね。幸せはカネでは買えんのだよ。おほほ)

でも現在は社会モデル的という意味でも「障害者」ではないと思うけど、この先、社会構造のさらなる変化で「障害者」になる可能性は充分ある。

が、この「社会モデル上の障害者」が何を意味するかは難しい。

まさか役に立たない人、税金を納める人のことじゃないでしょう? それでは植松と同根になってしまう。

おそらくここでいう新たな障害者とは植松自身のことを言っているような気がします。

別の人はこう言います。

「植松個人の成育歴や精神状態を調べると同時に、グローバルな現象の一端として考える必要がある。そのときのキーワードは「剥奪感」と「孤独」。単に雇用や権利だけの問題ではなく、自分が生きる意味とか自分が自分である根拠みたいなものまで失われているという剥奪感」

かつて酒鬼薔薇聖斗と自称した少年は犯行声明に「透明な存在の私」みたいなことを書いた。あれと似たようなものかな。

自分が自分である根拠を失う、という感覚が私にはわからない。

わからないといえば、私は自殺未遂者だけれど、中1のとき誰かが自殺したというニュースを見て、親に「自殺する人の気持ちが少しもわからない」と言った記憶がある。それから数年もたたないうちに自殺願望を有するようになるのだけど、友人たちは「死にたい」という気持ちがわからないという。そのとき、私はどうしようもない「孤独感」に苛まれる。

だから、社会構造の変化によって私自身が植松のような大量殺人犯になる可能性はある。

でも、その可能性はかぎりなく低いとも思う。

なぜなら、先述したように「社会的弱者には違いないが幸福感に包まれている」から。

私は自分自身が好きなのである。自分を肯定しているのである。自分が自分である根拠をもっているのである。


笑顔
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結局、「笑顔でいること」「いつも朗らかでいること」が大事なのではあるまいか。

楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ。とは心理学の常識らしいですが、何があっても笑顔を絶やさずにいれば、自分が自分である根拠を見失わずにすむし、孤独感にさいなまれることもない。

結論はいたって単純でつまらないものになりましたが、「不寛容」の対義語は「寛容」、そしてそれは「笑顔を忘れない」ことだと思います。笑顔でいれば「世界経済活性化のために」なんてパラノイア的なことは決して考えないでしょうから。








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