ラブストーリー

2020年11月11日

テレビ東京製作の『共演NG』。第1話、第2話はめちゃんこ面白かったですが、第3話でいきなり大失速してしまったと感じたのは私だけでしょうか。


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1話も面白かったですが、2話が最高でしたよね。

全部で共演NGが4組いて同時多発的子どもの喧嘩が勃発。特に里見浩太朗と堀部圭亮の喧嘩がひどく、最大共演NGの主役二人がなだめて絶妙なアドリブが生まれ台本よりいい出来のシーンができあがる、なんていうのは、かつて撮影現場で働いていた者からするとたまらないものがありました。

ただ、画像のシーン、劇中劇『殺したいほど愛してる』の主役二人が出逢う場面で、中井貴一がいきなりキスするというふうに台本が改変されましたが、あのとき、ショーランナーの斎藤工が書いた脚本は絶対で異議申し立ては認められない、そういう契約だ、と言われてました。なのにアドリブで勝手に改変するのはいいんですかね? そこらへんの細かい詰めが甘い気もしました。

が、共演NGの二人を別の共演NGの二人がなだめ、いさめ、あの手この手で問題を解決していくというのはとても面白かったんですよ。


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だけど、今回の第3話はちょっとどうなんでしょう?

若い二人の役者が不倫していた。その不倫謝罪会見に当の二人以外に主役二人を出席させるのはわかります。斎藤工は「僕はそこまで策士ではありません」と言っていたけど、おそらく彼は不倫の事実を知っててキャスティングした。で、話題作りのために中井貴一と鈴木京香の主役二人を謝罪会見に出席させてあのようなことを言わせて解決にもっていく、それはわかります。

でも、劇中劇『殺したいほど愛してる』の観点ではそれでいいでしょうが、そこから一歩引いて『共演NG』というドラマを考えた場合、あの謝罪会見はダメじゃないでしょうか。

中井貴一が「いつまでこんなことを…」と言いかけてそこから里見浩太朗の土下座、それを見た堀部圭亮も鈴木京香も頭を下げ、若造二人も頭を下げ、すべて丸く収まり「共演NGが共演NGじゃなくなっちゃいましたね」というセリフになる。

でも、共演NGが共演NGじゃなくなるためには、中井貴一が不倫で世間に謝るいまの風潮に疑問を投げかけたり、里見浩太朗や鈴木京香が頭を下げるのは違うんじゃないか。

不倫をしていた男女は「共演NGアベンジャーズ」の一員で、それぞれ共演NGの同棲俳優がいます。


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やはり、このような関係にある人間があの謝罪会見で一番前面に立って謝罪会見を丸く収めないといけないんじゃないでしょうか。第2話と同じように。里見浩太朗や鈴木京香の尻馬に乗って謝るんじゃなく、彼らが引っ張っていく展開にしてほしかった。

それで↓こうなったら快感だったんですが↓

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この第3話はそうなっていないので「共演NG」の話ではなく「不倫バッシング」の話になってしまっています。

昨今の不倫バッシングについては私も作者たちや劇中の中井貴一や里見浩太朗と同じことを思っています。いつまでこんなことをと思っているし、何で世間に対して謝らないといけないのかと思っています。

しかし、作者の主張が正しければいい作品ということにはなりません。

『殺したいほど愛してる』は不倫ドラマで、『共演NG』もおそらくこれから不倫ドラマになっていくのでしょう。(山口紗弥加は美人で好きだけどストーカー顔なので恐ろしい)

だから、第3話はそのための伏線にもなるのかな、とは思うものの、どうしても「作者の言いたいこと」が先走ってる感は否めないし、そういう「テーマをはっきり言葉で語れる物語」には白けてしまうのです。

軽い打ち上げの席でプロデューサーが言う「共演NGが共演NGじゃなくなっちゃいましたね」というのは希望的観測で、またあの4組の男女はいがみ合っていくんだろうと思ってたんですが、次回予告を見ると「新たな共演NG出現⁉」となっていて、新キャラが出てくるそうです。

じゃあほんとにあの4組の子どもの喧嘩は終わっちゃったの? それじゃあつまらない。

というか、やっぱり、不倫中の二人と共演NGの別の男女が活躍するべきでした。残念。


蛇足
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現場スタッフのこの人が私は一番好み。小島藤子というらしい。若くてかわいいのに、いい感じにやさぐれているのが大変よろしい。(2009年には『おっぱいバレー』に出ていたというから驚き)
瀧内公美もいいですけどね。

それと、いまいち劇中劇の『殺したいほど愛してる』の内容がよくわからないんですが、ちゃんと第1話から最終話までの脚本を全部書いてるんですかね? 劇中劇をやる場合、今回で言えばまず『殺したいほど愛してる』の脚本を全部書いてから『共演NG』の脚本を書くのが鉄則なんですが、ちゃんと実践してるのか怪しくなってきました。

だって、劇中劇と劇中現実のリンクがあまり見られないのでね。ちょっと気になる。いや、かなり気になる。







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2020年11月04日

岡田惠和さんの新作『姉ちゃんの恋人』。


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小池栄子が出てるなら何でも見るのが信条の私は、岡田惠和さんの新作ということもあり、めちゃ期待して見始めたのでありました。

これが大当たり!

コロナで一変してしまったこの世界の片隅で、クリスマスだからこそよけい淋しくなる孤独な人たち、何らかの理由でクリスマスを楽しめない人たちにも「ちょっと見に行ってみようかな」と思わせるイベントをやりたい。

彼らが働くホームセンターのコンセプトがいいし、あそこで働いてみたいと思わせるものがありました。(臼井さんという存在感稀薄の人をいじるのがいじめだパワハラだという批判は理解しがたい。あの程度のことを適当にやりすごせなくてどうやって生きていくのか。そんなこと言ってたらいつかみんな自殺しなきゃいけないよ)

さて、クリスマスを楽しめない人たちのためのクリスマス・イベントを企画したのは、イベント・リーダーを任された有村架純と配送係から強制的に寄越された林遣都なんですが、彼らはまったく同じことを考えていたということで惹かれあうんですね。


「はい……え?」の二人
で、その前、二人が企画会議で出逢う前に、この二人が同じキャラクターをもっていることが示されていました。

有村架純は小池栄子からリーダーに指名され、林遣都は先輩の藤木直人から「おまえが行ってこい」と言われる。そのときの二人のリアクションがまったく同じなんですね。

「はい……え?」となる。いきなり言われてまったく事態を呑み込めないまま「はい」と言うんですが、そのあとで事態を呑み込んで「え? あ、いやいや」となる。

リアクションというのはキャラクター(性格)の重要な一部というか、リアクションこそがその人物のキャラクターを表すわけで、主役二人のキャラクターを同じにしている意味が最初はわかりませんでした。同じリアクションなんて芸がないなぁ、と。

しかし、同じ企画を考えていたから、ということで出逢いが始まる、というのが大きなプロットのターニングポイントになっているのを知り、腑に落ちました。

ところが……

惜しまれるリアクション演出
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末弟のサッカーの試合を応援しに来た有村架純がなぜ見に来ていたのかよくわからない林遣都と出逢う瞬間。プライベートで初めて会うんですが、このときの有村架純のリアクションに関して、脚本家の意図を演出家がちゃんと汲めていないと感じました。

上述のように、事態が呑み込めないまま「はい」と承諾の返事をし、承諾の返事をしてから事態の大きさを初めて知る、というのがこの二人に共通するキャラクターなんですよね。

なのに、ここでの有村架純は林遣都を見た瞬間に画像のような顔になるんですよ。

岡田惠和さんの意図を汲めば、ここは、林遣都の顔を見るけど最初は誰か気づかず素通りしようとして、それから初めて「あの人だ」とわかって「え?」と振り返る、などの演出をすべきだったはずなんです。非常にもったいないと思いました。脚本にはそんな細かいこと書きませんから、演出家がそういう芝居をつけるべきだった。

昨日の2話で、有村架純が間違えて発注してたことがわかって、お客さんのところまで届けるシークエンスがあったじゃないですか。あそこで、自転車で行くという彼女に対し、藤木直人が林遣都に「おまえ、乗せてってやれ」と命令する。林遣都は「え? はい」と返事する。

ここは、上述の「はい……え?」じゃなくて「え? はい」でいいと思うんです。だって林遣都には事態の深刻さがわかっているから。事態の深刻さがわからないときに「はい……え?」となればいいわけですからね。

めちゃくちゃ細かいことを言いましたが、神は細部に宿る。それに、元脚本家志望者として、脚本家の意図を演出家がちゃんと汲んであげていないというのはイライラしました。

ただ、全体的にはいいんじゃないですかね。保護司の光石研が有村架純の叔父さんというのはちょいと偶然が過ぎるとは思いますけど。







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2020年09月26日

2020年の本屋大賞を受賞した凪良ゆうという作家さんの小説『流浪の月』を読みましたが、非常に不快な作品でした。


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ある脚本家の言葉
私はかつて映画シナリオの専門学校に行っていたことがあり、そこで出逢った高名な脚本家の言葉が、映画を見たり本を読むときいつも脳裏に響いています。

曰く、

「善と悪の対立にしてはいけない。善と善の対立にしないとドラマは深まらない」

善と悪の対立にしようとすると、悪の側を悪く描こうとして筆が滑ってしまい、悪の魅力がないばかりか、ただの小悪党にしかならない、みたいなことも言われました。君はその罠に完全にはまっている、と。

この『流浪の月』で、主人公・更紗の恋人・亮くんがまさにそういう人物ですよね。単に気に入らないと暴力をふるって更紗を傷つけ、ネットに悪意ある情報をばらまいて更紗とその運命の人・文の二人を窮地に陥れる。

どうしても私の目には、暴力をふるう亮くんが出てくると安っぽさを感じてしまうのです。

亮くんだけではありません。文が起こした(ことにされている)事件で、更紗をケータイで撮ってネットにさらす人々、何も知らないのに文を悪者だと断じる人々にも感じます。作者が更紗の言葉として「彼らに悪意はないのだろうけど」と書くたびに白けました。悪意はないのは本当かもしれませんが、彼らを「悪」に仕立て上げるとドラマが安っぽくなるから「彼らは悪人ではない」と言い訳をしているように感じられるのです。


「善と善」の対立とは
高名な脚本家が言っていた「善と善の対立」とはどういうものでしょうか。

善とは善人のことではありません。その人の言い分に理がある、ということです。

例えば明日最終回を迎える『半沢直樹』で、前回まさかの頭取の裏切りが明らかになりました。半沢はすべてを闇から闇に葬ろうとしている頭取に向かって筋を通すべきだと難じます。半沢の言い分はもっともであり彼はまったき「善」です。

が、中野渡頭取もまた「善」なのです。なぜなら「銀行を守るため」という言葉にそれなりの理があるからです。私が中野渡さんなら同じことをするかもしれない。と思わせるものがある。半沢を応援したい気持ちはもちろんありますが、「理想だけでは飯は食えない」という幹事長の言い分にもうなずかざるをえない。あの黒幕幹事長や中野渡頭取の言い分に反感しか感じられない人は、おそらくカネで苦労したことがない人でしょう。

話がそれましたが、悪役の言い分にも納得できるなら、その作品は「善と善の対立」を描いた一級の作品ということになります。

が、この『流浪の月』の悪人たちの言い分には少しも納得できるものがない。

しかも、私は作者自身の言い分にも納得できないのです。


登場人物への愛情が感じられない
文はロリコンとして登場しますが、なぜか更紗に手は出さなかった。大人になった更紗にも性的欲求はないみたいだし、恋人ともそういう関係ではない。

しかしロリコンでもなかった。というのが最終盤でのどんでん返しなのですが、はっきり病名は書いていないものの、第二次性徴が遅れたり性器の発育が滞るなどする病気のようです。性同一性障害ではないようですね。詳しくないので知りませんが、性ホルモンがうまく分泌されない病気のようです。

どんな病気であれ、この人はこういう病気だからこうなった、病気だからこういう言動をした、あるいはしなかった、というのは人物描写としてものすごく粗雑じゃないでしょうか。もっといえば登場人物に対する愛情が感じられない。

世間の人々は文のことをロリコンと誤解して「ロリコンなんて病気だよな」と平気で言います。でも、そう書く作者自身が文を病気もちの変な人として扱っていないでしょうか。

私はごく普通に文をロリコンという設定にしてほしかった。ロリコンならなぜ幼少の頃の更紗に手を出さなかったかのかという疑問が出てきてしまいますが、それはひとまず措くとして、文をロリコンとして描いて、幼い主人公を誘拐する変態として描いて(そうです、本当に誘拐するのです)それでも最後にはロリコンの文に思わず感情移入してしまうような描写をすべきだったと思います。

『流浪の月』は、世間は誘拐と思っているけど実は誘拐じゃないとか、世間は文のことをロリコンと思っているけど実はロリコンじゃないとか、本当に「言い訳」が多い。文と更紗をできるだけきれいな人物・きれいな関係に設定しようとしていて、逆にそれが私には不快でした。

汚い設定だけど、犯罪者だけど、変態だけど、私はこの人が好きだ。

そう思えるなら諸手を挙げて絶賛しますが、現実にはひたすら作者の言い訳しか聞こえてこない不快な作品でした。

『理髪店主のかなしみ』なんて足フェチの変態主人公が最後にはいとおしくなってくるじゃないですか。

この小説を愛する人たちは、もしや、文が何も悪いことをしてないのに迫害されている、そんな文をいとおしく思う更紗だから感動したんでしょうか?

とすれば、この小説を愛する人たちは、何か悪いことをした人がいたら叩きまくる人々、つまり、文を迫害した人々と同根なんじゃないでしょうか。







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