ホームドラマ

2020年10月26日

『家政婦のミタ』の遊川和彦さんの新作『35歳の少女』がなかなか面白い。


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私はてっきり植物状態から脱した外見は35歳だけど中身は10歳の女の子が主人公だと思って見ていたんですが……だんだんと違う雰囲気になってきました。


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1話から異様な雰囲気で無表情が恐ろしい鈴木保奈美演じる母親が主人公なのではないか。

3話では橋本愛が「お母さん、お姉ちゃんが目覚めても少しもうれしそうじゃないよね」と、眠っていた間は何があっても柴咲コウのことばかりで自分のことをかまってもらえなかった恨みもあって思わず罵ってしまってましたが、あの母親には何かがある。間違いない。

最初は過保護だから坂口健太郎と逢うなと言っていたのかと思ったら、監視カメラを付けてGPSで常に監視するって常軌を逸しすぎています。ただの過保護な親ではない。25年もの間我が子の面倒を見ていたのは、おそらく突然目覚めて「不都合な真実」を口にしたらどうしよう……ということだったのでしょう。でなければ辻褄が合わない。

すき焼きなのに豆腐を買い忘れ、妹が買いに行くの嫌だというから自転車で買いに行った。でもその自転車はブレーキが壊れていて父親の田中哲司が直すのを忘れていた。

ということになっているけれど、おそらくそれも捏造されたものなのでしょう。

これから何が明らかになっていくのか、興味津々!
そして、そこにテーマ上、何も関係がないと思われる田中哲司の引きこもりの義理の息子のドラマがどう絡んでくるのか。毎週土曜日が楽しみな今日この頃です。


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渡 哲也
2015-02-13



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2020年10月04日

長谷川和彦監督の衝撃的デビュー作『青春の殺人者』をチャンネルNECOにて再見しました。


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無花果をめぐる物語
水谷豊演じる主人公は、スナックを与えてくれた両親と対立しています。スナックの経営をやっている恋人の原田美枝子をめぐって。原田美枝子は右耳が聞こえないのですが、彼女が語るその理由は、裏庭だったかどこかの無花果の実を食べて母親から思いきり叩かれたからだ、と。

水谷豊はそれを鵜呑みにしているのですが、父親は「考えてもみろ。鼓膜が破れるほどぶっ叩くなんてのはよっぽどのことだぞ。あの女のことだ。母親の男を咥えこんだのを見られて殴られたんだろう。性悪なんだよ。おまえもそろそろ目を覚ませ」

なんてことを言われて、カッとなった主人公はまず父親を刺し殺します。そこへ母親が帰ってくるのですが、咎めるどころか「あたし、こうなることを望んでいたような気がするの」なんてことを言って、父親は女と蒸発したことにして二人でどこか知らないところへ行って静かに暮らそうともちかけます。

何だかんだの行き違いの末に主人公は母親まで殺してしまい、両親を亡きものにした男のウロウロは頂点に達します。

そこで再度、無花果が出てきます。出てくるといっても、確かに原田美枝子が食べる小道具として出てはきますが、それはあくまでも彼女の嘘の映像として、主人公が愚かにも信じてしまった妄想として、幻影として、です。

確かに父親の言うとおり、無花果の話は作り話だった。それは原田美枝子の母親を演じる白川和子にも確認したし(「あれは無花果ではなくヤツデだった」)何より原田美枝子が継父に犯されていただけでなく、自分から咥えこんでいたことも告白します。

すべては両親の言うとおりだった。後悔先に立たず。

とはいえ、彼は原田美枝子の嘘がもっと前に判明していたら別れていたのでしょうか?

違いますよね。嘘は嘘として「それぐらいのこと」とか何とか言って両親に反抗して仲を深めていたに違いありません。


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それに、原田美枝子は両親の言うとおりのあばずれなのはそうなんでしょうが、結構主人公のことを心配し、彼のために行動する場面が結構あります。そんなに悪い女じゃない。いや、むしろいい女でしょう。

何が言いたいかというと、両親を殺すより原田美枝子を殺すことで地獄のどん底に叩き落とされる主人公のほうがよりドラマチックだっただろうということ。

しかしながら中上健次の原作『蛇淫』は実際に起こった殺人事件をモチーフにしているので、そこは動かせなかったのでしょうね。何しろプロデューサーは『復讐するは我にあり』の今村昌平監督であり、実録物からはずれることは許されなかったと推察します。


長谷川和彦監督の狙い
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長谷川和彦監督はこの監督デビュー作の前にすでに脚本家としてデビューしていました。

なのに自分で書かず、脚本を田村孟さんに依頼しています。これは自身の判断だったのか、今村さんの判断なのかはわかりません。それに『蛇淫』を読んだことがないので、どこまで原作に即しているのかもわからないし、実際の事件にもそんなに詳しくないのでどこまで現実に即しているのかもわかりません。もちろん、そんなものが評価の対象にならないのは百も承知です。

問題は、書ける監督である長谷川和彦監督が、他人に依頼したのはなぜかということ。

かつて私も長谷川さんに師事しました。師事というのはおこがましいのですが、それでも教えを受けたことには違いなく、専門学校で直接指導してくださった先生方や先日亡くなった桂千穂さん、何度も自作シナリオを読んで感想を送ってくださった小滝光郎さんなどとともに、長谷川さんも師匠の一人には違いない。

さて、その長谷川監督から私がどういう教えを受けたかというと、、、

「君のシナリオでは主人公がウロウロする様が描かれていない。もっと主人公のウロウロを客観的に突き放して書けば人間の可笑しみや哀しみが出るはずなんだ」

だから、『蛇淫』をどう脚色するとか、主人公がウロウロする原因の無花果にどういう意味があるかとか、誰を殺すとか、そういうことはほとんど些末なことだったんじゃないか。

現実の犯人が両親を殺した、それなら親殺しでいいじゃないか。女を殺してたのならそれでいい。とにかく俺は主人公のウロウロを撮りたいんだ。

長谷川さんがほんとにそう思ったかどうかは定かではありませんが、できあがった映画の水谷豊のウロウロぶりは半端ではありません。ここまで主人公がうろうろする様を克明に丹念に追っていった映画はそうないんじゃないでしょうか。映画全編が主人公のウロウロなのです。

両親を殺すのにもあれやこれやがあって、死体の始末をしようにも二人分の始末は大変で、スナックに戻って女を抱こうとしたら旧友が訪ねてきて水を差され、首尾よく死体を始末するも無花果の件で途方に暮れてしまい、警察官にすべてを告白するも信用してもらえず、スナックに放火してついに永遠にうろうろすることが暗示されて映画は幕を閉じます。

実際の犯人は捕まったようですが、映画では生き地獄を味わわされるかのごとく捕まえてすらくれません。どこまでもおまえはウロウロせよ、ウロウロしなければ主人公の資格はないよ。

という長谷川和彦監督のサングラスの奥の冷徹な目が言っているかのようでした。次作『太陽を盗んだ男』でも主人公は最後までウロウロしてましたっけ。

見事な傑作です。もうそろそろ新作見たいんですがね。どうでしょうか。



青春の殺人者
桃井かおり
2013-11-26





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2020年05月02日

久しぶりに再見しました。泣く子も黙る名作『ゴッドファーザーPARTⅡ』。今回は最後のほうで『ラストエンペラー』を想起するなど、ちょいと新しい発見がありました。

『PARTⅠ』の感想はこちら⇒『ゴッドファーザー』(父親を乗り越えられなかった息子の悲劇)


続編ではない続編?
世に続編映画は数あれど、ここまで完璧な続編はありません。というか、これは正確には続編ではないんですよね。マイケルのその後、マイアミのドン、ハイマン・ロスとの闘いなどより、それと対比された若き日のヴィトー(ロバート・デ・ニーロ)を描くことが主眼ですから。だから今風に言えば、『エピソード0』ですかね。『PARTⅠ』の前日譚をやるのはこの『PARTⅡ』が嚆矢でしょう。すぐれた発明です。

と思っていたのは昨日まで。やはりこれは「続編」だと今回は思いました。若き日のヴィトーが主眼ではなく、現在のマイケルが主眼だと。

とはいえ、誰もが言うように、この『PARTⅡ』ではデ・ニーロの芝居が何といっても素晴らしい。


街のガン ファヌッチ
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ヴィトーはパン屋でまじめに働く好青年でしたが、ある日、街を牛耳るファヌッチというドンが甥っ子をこの店で雇ってくれとやってくる。店主はファヌッチにだけは逆らえない、逆らったら恐ろしい目に遭うということで、しょうがなくデ・ニーロをクビにします。

ファヌッチは街のガンでした。誰も彼もがファヌッチのために苦しんでいる。ひょんなことからすでに闇の稼業に手を染めていた、後年彼の右腕になるクレメンザと知り合ったヴィトーは、同じく将来の右腕テシオと3人で裏の商売を始めます。が、ファヌッチから法外な金を要求される。ヴィトーは誠心誠意をこめてもう少し負けてはくれまいかと頭を下げますが、金の亡者ファヌッチはビタ一文負けるわけにはいかないと去る。

そこでヴィトーは決心します。ファヌッチを殺そうと。あいつを殺さなければ街のみんなは誰も幸せになれない。


マイケルのために初めて人を殺す
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そして、あの名場面です。祭りで賑わう街をよそにヴィトーはファヌッチを見事に殺します。ヴィトーにとって初めての殺人です。そして、拳銃をバラバラにして始末したあと自分の家に帰ります。家の前の階段に座っていたのは他でもない、幼少時のマイケルでした。ヴィトーは「マイケル、マイケル」と声をかけ、おまえのために俺はやってきたぞ、という感じで抱き上げます。

ヴィトーは金の亡者であるファヌッチを殺して新たなドンとして街を支配しますが、決してファヌッチのように法外な金を要求したりしません。払えない人の願いでもちゃんと聞いてあげる。PARTⅠで金のことばかり言う葬儀屋を叱責するのは、俺はファヌッチのようにはならないと誓ったからでしょう。

でもヴィトーは悪人です。暴力で問題を解決する以上しょせん薄汚れた悪人にすぎない。ヴィトーはそれをよくわかっています。だから『PARTⅠ』で「マイケル、おまえにだけはこんな仕事はさせたくなかった」と言うのです。

俺は薄汚れた悪人だ、でも俺のような悪人がいなければ苦しまねばならない人がいる。とヴィトーは汚れ役を買って出る。

街のみんなのために、家族のために、かわいい三男坊マイケルのために初めてヴィトーは人を殺します。

『PARTⅠ』でマイケルも中盤で初めて人を殺します。マイケルは戦争の英雄ですから、すでにたくさんの人を殺してるはずです。だから初めての人殺しではないものの、非合法の人殺しはあの場面が初めてです。

ヴィトーはマイケルのために、マイケルはヴィトーのために初めて人を殺すのですが、それを契機にヴィトーとマイケルの運命は真逆の方向へ変わっていきます。ヴィトーが誰からも敬愛されるドンになっていくのに対し、マイケルは誰からも愛されない、金しか信用できない孤独なドンに成り下がっていきます。

マイケルのために金の亡者ファヌッチを殺したのに、そのマイケルがファヌッチと同じ金の亡者になってしまった。

壮大にして完璧な悲劇です。ここまで完璧な悲劇は映画では他にないんじゃないでしょうか。

『PARTⅠ』で描いた「父親を乗り越えられなかった息子」の物語を、父親の若き日を描くことでその悲劇性をさらに高める。『PARTⅠ』と『PARTⅡ』ではほとんど同じことを語っているんですが、『PARTⅡ』でより深化してるんですね。Ⅱのほうが好きという人が多いのもうなずける出来栄えです。


兄をめぐって
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『PARTⅡ』はまた「兄」をめぐる物語でもあります。

マイケルの最大の罪、兄のフレドー殺しが描かれるだけでなく、それとカットバックして描かれるのが、フランク(マイケル・V・ガッツォ)というヴィトーの右腕だった男の自殺です。

フランクはマイケル襲撃の陰謀を企てたと殺されかかりますが偶然通りかかった警察官のおかげで一命を取り留め、FBIに保護されます。そして公聴会の重要証人として召喚されます。

が、このとき、マイケルが一人の男を連れてきます。フランクのお兄さん。ずっと本国イタリアで暮らしていて英語がわからない。でもフランクはそのせいで証言を拒否する。

FBIの証人保護施設か何かにトム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)が訪ねてきて言います。

「君は歴史が好きだったな。ヒトラーのこともいろいろ教えてもらった。……昔のマフィアはファミリーを組織化しようとした。ローマ皇帝とその兵隊のように。皇帝に謀反を起こした者でも処刑されるまでは猶予を与えられた。家族を守る猶予を」

兄貴を殺されたくなかったら自決しろという、ものすごく遠回しな脅迫ですが、フランクは唯々諾々と従って兄を守るために自殺します。それと並行して描かれるマイケルのフレドー殺し。

自分の兄は裏切り者だからと殺し(それも母親が死ぬのを待ってからという巧妙というか卑劣というか)別の裏切り者には兄を守るために死ねという。

皇帝マイケルは兵隊たちにどこまでも横暴です。


「皇帝」と「兵隊」
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『PARTⅡ』の最後には、まだ大学生だったマイケルが海軍に入隊したと言ってソニーから殴られそうになる回想シーンがあります。

もともとの台本にはないシーンであとから付け足したらしいですが、いままでずっとこのシーンがなぜ必要なのかわからなかったんです。

今回初めてわかりました。

マイケルは国のために戦う「兵隊」になります。ソニーは「何が国のためだ」と言いますが、本心は「おまえが仕えるべき相手はアメリカの大統領ではなく、ファミリーの皇帝たる親父ではないのか」ということだったはずです。そして「おまえだって皇帝の血を引いた男じゃないか。それがなぜ兵隊なんかに」とも。

マイケルは英雄として帰ってきますが、なぜか「兵隊」として働くのはいやになったと考えられます。皇帝に仕える兵隊ではなく、兵隊を顎で使う皇帝になりたい。

だから『PARTⅠ』でヴィトーが撃たれたとき、血相を変えて帰省し、家族のために力になりたいと殺人まで犯したんだと思います。でなければずっと堅気だった男があそこまでしないはず。

でも、それがそもそもの間違いだったのでしょう。

ヴィトーは「おまえにだけはこんな仕事をさせたくなかった」と言っていました。最初から堅気の人間として育てたはずですが、それはマイケル自身の望みでもあったはずです。

周りがやくざな連中ばかりなのに自分一人だけなぜ、とは思わず、おとなしく大学に入ってひとかどの人物になろうとしていたわけですから、堅気の人間のほうがいいと思っていたのでしょう。だから国のために軍隊にも入った。一兵卒として働いて生きていくというごく普通の将来像があった。

しかし戦場で何を見たのかはわかりませんが、「兵隊」に嫌気が差し「皇帝」になろうとした。そんな器じゃないのに。

『ラストエンペラー』のジョン・ローンに似たものを感じます。

皇帝として生まれながら、辛亥革命によって皇帝の座から引きずり降ろされ紫禁城に軟禁される。そして日本が満州国を建国するとき、皇帝になってほしいという依頼に胸を躍らせます。ただの操り人形だと妻は諭しますが彼の耳には少しも聞こえていない。

「もう一度皇帝になれる!」

その喜びが勝ってしまい、もう何も見えない聞こえない。

マイケルもソニーが殺されたとき、同じような思いをもったのかもしれません。

「ソニーは死んだ。フレドーは能無し。じゃあ俺が次期皇帝だ!」

皇帝の器じゃないのに皇帝になろうとした男の悲劇。その根っこには「裏切り」があった。ヴィトー襲撃もシチリアの妻殺しもすべては裏切り。テシオもカルロも裏切った。今度はフレドーまで。

マイケルはもしかしたら戦場で「国家の裏切り」に遭ったのかもしれない、という思いも芽生えてきました。だから「兵隊」がいやになったのかも……。

それについては『PARTⅡ』までではまったく描かれていませんが、もしかして『PARTⅢ』を見たらわかるのかしらん。あれ、あんまり好きじゃないから見る気が起こらないけど、久しぶりに見てみようかな。







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