サスペンス

2021年07月21日

話題沸騰中の林真理子さんの新作『小説8050』を読んだんですが、あまりにあんまりな内容でげんなりしてしまいました。


少しも「8050問題」じゃない
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8050問題といえば、若い頃から引きこもっていた人が50代になり、親は80代で、50歳まで何もしてこなかった人間が稼げるはずもなく、親の年金や遺産を当てにするしかない。そこで、親の死体遺棄をして年金を不正受給したり、子どもを不憫に思う親による一家心中が起こると予想されているというか、すでに起こっている問題。2020年代末には「9060問題」というさらに事態が悪化した問題に変化するとかしないとか。

だから「父さんと死のう」と帯にあるこの『小説8050』を興味深く読み始めたんですが、少しも「8050問題」の話じゃなかったので詐欺に遭ったかのように腹を立てています。

まず、主人公は50代で古びた歯科医を営んでいる正樹という男で、引きこもっているのはその息子の翔太20歳。歯科医は割に合わないということで普通の医者になってほしいと有名私立中学に入学するまでは順調だったのが、中学でひどいいじめに遭って引きこもってしまった。30年後には正樹は80代、翔太は50歳。「30年後の8050」として物語は起動するのですが、結局、7年前のいじめをした加害者たち相手に裁判を起こし、勝訴してめでたしめでたし。って、それじゃ少しも「8050問題」じゃないじゃないですか。

そりゃいじめが原因なのだから、いじめた連中に社会的制裁を加えないことには何も始まらない。それはわかる。

でも、引きこもりってすべてが「いじめが原因」なんでしょうか?

厚生労働省の定義によると、

ひきこもりは単一の疾患や障碍の概念ではなく、「様々な要因によって社会的な参加の場面が狭まり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」

だそうです。

様々な要因とあるから、やはりいじめだけじゃないですよね? 私だって引きこもりみたいな時期ありましたけど別にいじめられてはいなかった。確かに高校で無視されたりというのはあった。でも無視しないやさしい人もいた。厚労省の定義の続きには「統合失調症などの精神疾患や発達障碍などにより周囲との摩擦が生じて引きこもる場合と、そういった疾患や障碍など生物学的な要因が原因とは考えにくい場合があります」とある。

私は一応、神経症という精神疾患だったが、まぁ半分以上は親への反抗で引きこもっていたんでしょう。自分でも本当の理由がよくわからなくなっているのが現実です。

いずれにしても、いじめは数多い引きこもりのうちの「ある一つのパターン」にすぎないし、いじめの場合は加害者という明確な敵がいるぶん、まだ対処しやすいんじゃないでしょうか。

7年前のことをもちだして裁判で勝つためにはそのための証人が必要ですが、この『小説8050』では、焼却炉に閉じ込められていた翔太を発見した用務員さんとか、パンツを脱がされた画像をいじめっ子たちから送られた隣の女子校の優等生とか、加害者のうち被害者でもあった寺本という男を被告ではなく証人として招致するなど、あとがきにもありますが、この作品の完成に尽力してくれた弁護士が「これなら勝てる」と太鼓判を押せるほど証人や証拠をそろえたとか。

いや、これだけ味方がそろってたら、そりゃ勝てるでしょうよ。

私のように、自分自身に問題があったり、親に問題があったりするように、本当の敵は「自分たちの中にある」というふうに設定しないと引きこもりの問題は解けないんじゃないかしら。

正樹という父親は、敵の弁護士が隠し玉としてもっていた、息子の翔太がいじめている現場写真を見て半狂乱になります。本当は翔太はむりやりいじめさせられていた。そんなのはそれまでの文脈を見れば少しは想像できそうなのに、「おまえのせいですべてパーだ! もう負けだ。裁判なんて終わりだ!」と息子を非難しまくり、翔太は3階(1階が歯科医院なので自室が3階にある)から飛び降りて下半身不随になります。

これ、ひどくないですか? こんな父親だったら別にいじめなんかなくても何がしかの問題が起こっていたように思う。妻の節子も「勝手なことばかり言う」と裁判が終わったら離婚すると言って、実際そうなるし、この正樹という父親の問題を少しもあぶりださないのはいかがなものか。

だいたい、息子が焼却炉に閉じ込められたり、パンツ脱がされたりして帰ってきたら、いつもより違う様子でしょう。なぜ息子の異変に気づかなかったんでしょう? そこを完全スルーして、しかも下半身不随になったのは父親のせいなのに、そこもスルーして、「お父さん、ありがとう」という幕切れには開いた口がふさがりませんでした。

そもそもタイトルで「8050」と銘打つからには、「30年後の8050」ではなく、いま親が80代で引きこもっている子どもが50代の「現在進行形8050」を題材にしないと意味ないんじゃないでしょうか。実際、若い引きこもりより中年以上の引きこもりのほうが多いらしいですし。


「引きこもり」とは何か
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はたして、布団で寝ている柴犬は「引きこもっている」と言えるのでしょうか?

いや、最近のワンちゃんはみんなこんな感じですよ。と言う人もあれば、犬が人間の布団で寝るとはこれ如何に。と憤る人もいるでしょう。

私みたいに、就労も就学もしていないが自室にずっと引きこもっているのではなく、普通に買い物に行ったり映画に行ったりする人は「引きこもっている」のでしょうか?

以前、同じ職場で働いていた人とLINEで会話した際、その人は私と似たような病気を患っていて「療養中」と言っていました。「引きこもってどれぐらいになるのか」と私が問うと、「引きこもってませんよ。めっちゃ買い者とか行ってますよ」と返事が来て、いや、引きこもりというのは外に出る出ないではなく社会参加していない状態のことを言うはずだが……? と思ったんですが、それ以上言うのはやめておきました。

巷でも、その子みたいに「就労や就学など社会参加してなくても買い物には頻繁に行くから引きこもりではない」と考えている人って多いと思うんですよね。どうしてもテレビドラマや映画の影響で、引きこもりというと、ずっと自室に閉じこもって、親が寝静まったあとに起きてきて冷蔵庫の物を勝手に食べたりする髪の毛ボサボサで不潔な男、みたいなイメージがありますから。(ちなみに、引きこもりのうち男性はやはり多く全体の7割。逆にいえば3割は女性とのこと)

もっと「引きこもり」の定義を世に広めるべきだと思う。それに……



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これは犬が人間社会に進出している、つまり社会参加していると見るべきか。
それとも、犬社会に参加せず人間が作った巣に引きこもっていると見るべきか。

「引きこもり」の定義とは何か。そこらへんをラディカルに問う物語を読みたいですね。







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2021年07月19日

話題沸騰中の『プロミシング・ヤング・ウーマン』。私にはどうにも乗れない復讐劇でした。(以下ネタバレあり。他の映画の結末にも触れています。ご注意あれ!)

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あるべき復讐映画とは
1996年製作の『スリーパーズ』という映画がありました。あれなどは、自分たちをいじめた少年院の看守に対し復讐を果たした仲間を無罪にする内容で、いやいや、復讐映画なんだから看守を見つけ出して殺すのが最後でないといけないんじゃないの? とげんなりしました。

私が「復讐映画のあるべき姿」と思うのは何といっても阪本順治監督の『トカレフ』で、たとえこの身が滅んでもあいつだけは絶対に許さない! という強い思いがあるかどうかが鍵です。だから『スリーパーズ』や『39 刑法第三十九条』のように「復讐を果たして同時に無罪を勝ち取ろう」などという映画は姑息に思えるのです。

その点、この『プロミシング・ヤング・ウーマン』は潔い。主人公キャシーが自分の命を懸けて事に及んでいる。私の考える「あるべき復讐映画」です。

では何がいけないのか?


「物語」と「脚本」
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かつて医大生で将来を嘱望されたキャシーは、性的暴行を受けて自殺したニーナという親友のために主犯アル・モンローはじめその場にいた男たちに復讐を仕掛けます。

(性的暴行事件⇒ドロップアウト)⇒復讐を仕掛ける⇒殺される⇒一発大逆転で復讐完遂

という流れになるのですが、この「物語」自体は特に面白くないですよね。目新しくも何ともない。

でも「脚本」はうまい。上の括弧でくくったところはファーストシーンが始まる以前の出来事で、画面には一切出てきません。そうです。最重要人物であるニーナを登場させないのです。これは非常に勇気のある作劇ですが、大正解でしょう。もし回想シーンがあったら凡俗な映画になっていたと思われます。

回想がないうえに主人公が復讐を仕掛ける相手に小出しにしか情報を出さないのがまたうまい。焦らされるとよけい知りたくなってくる観客の心理をうまく読んでいます。実際にどんなことがあったのか、キャシーとニーナはどれぐらい深い関係だったのか。同性愛? 同性愛ではないけどものすごく深い友人関係? とか、想像に任されているぶん、はっきり見せられるより上質な香りが漂ってきます。

では何がダメなのか?

まず、最後にひねりがなさすぎですよね。キャシーが殺される。殺されるといっても殺意があったわけではない。正当防衛が認められるかもしれないのに警察に行かずに死体を焼いてしまうというアル・モンローたちの行動がどうかと思うのですが、でも、彼らなら警察なんか行かず、すべてを闇に葬るだろうというのがキャシーの計算だったのでしょう。

そこは百歩譲るとしても、復讐の主が殺された時点で「もし自分が行方不明になったら~」というのを用意してるんだろうな、と予想できちゃいますよね。そしてその通りになる。何のひねりもない。キャシーの計算通りには行かなかったが、別のところからボロが出てアル・モンローたちが逮捕、ということになれば快哉を叫んだんですがね。その「別のところ」というのは何か、いいアイデアが思いつかないので恐縮ですが。

すべて主人公の計算通りに運んでしまう(しかもクライマックスで)というのは芸がなさすぎます。

1945年製作の『哀愁の湖』は、復讐の主が死んでもそこから30分くらいさらに復讐が続いていく、という意外性があって面白かった。

でも、以上はすべてラストに関することで「乗れない」理由ではありません。私が乗れなかった最大の理由は以下です。


なぜ実家を出ていかないのか
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私自身が数年前まで実家に寄生していたのであまり偉そうなことは言えませんが、しかし、だからこそ主人公が実家に寄生している設定の脚本をよく書いてたんですよね。

そのことについて長谷川和彦監督から言われました。

「現実には、親に頼って生きている人間はたくさんいるだろう。そういう人たちのことをとやかく言うつもりはない。だがフィクションにおいては、何かあっても親が守ってくれる人間には共感しにくい。君自身がそういう人間だから似たような主人公を描いてしまうのかもしれないが、主人公を甘やかしてはいけない」

確かに『青春の殺人者』も『太陽を盗んだ男』も、主人公は自分で自分を破滅に追い込む愚か者ですが、自分の足で立っている。親に甘えるどころか、甘えられる存在がなくて孤立している。それが悲劇の根っこになっていました。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』では、キャシーはニーナの死後、実家に帰ります。傷心のあまり医者になる道なんかどうでもよくなりドロップアウトする。そこまではいいです。その気持ちはよくわかる。父親も「ニーナのことは残念だったがおまえは帰ってきてくれた」と言うように、彼女はとても愛されています。愛してくれる両親のもとで思いきり泣くことができてよかったと思います。

しかしそれなら、夜な夜な泥酔した振りをして下卑た男たちに罠を張って天誅を下したりするのはいけないんじゃないかしら。ああいうことをやりたい気持ちはよくわかります。しかし、あのようなことをしていたら捕まるかもしれないし、殺されるかもしれない。

キャシーはニーナへの想いが強すぎて、両親が自分を愛してくれていることにあまりに無自覚です。

ニーナを失って自暴自棄になっている自分と同じように、もし自分が死んだら両親がどう思うかということに対しあまりに無頓着です。

女を性的玩具としか思ってない男に天誅を下したいならすればいい。復讐を果たしたいならすればいい。

でも、それなら実家を出るべきだった。せっかく両親が「実家を出ていけというメタファー」としてスーツケースをプレゼントしてくれたんだから。なぜあそこで出なかったのか。あそこで実家を出て、一人暮らしをしながらどうやって復讐するかを練って実行に移して完遂したのであれば「乗れる復讐映画」として快哉を叫んだでしょう。

そりゃ、実家を出たって娘が殺されたという知らせが来たら両親は嘆き悲しむでしょう。しかし、自分が死んだら確実に悲嘆にくれる人たちに食わせてもらいながら復讐計画を考える主人公には共感できない。自分の死によって復讐を完遂する計画を立てた以上、彼女は実家を出るべきでした。

私の考える『プロミシング・ヤング・ウーマン』の瑕疵はそれだけです。しかしその瑕疵は、クライマックスを見ながら白けてしまうほど大きいものでした。


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2006-02-24




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