評論

2021年06月12日

竹倉史人という人類学者が著した『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(晶文社)を読みました。あの養老孟司先生が絶賛していると聞いて興味津々だったんですが、それも大納得。すこぶる面白かった。


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土偶は女性をかたどっている?
昔学校で習ったときも、そしていまも、教科書には「土偶は女性、主に妊娠女性をかたどっている」と書かれていて、私もそれを信じ込んでいましたが、著者は「どうしても女性に見えない。そもそも人間にすら見えない」と疑問をもち、考古学が専門ではないのに研究に打ち込んだと。でもその道の専門家じゃないから先入観や固定観念を打ち破ることができたんですよね。あとがきに「考古学者のなかには私の研究成果が世に出ないように画策する人まで現れた」とありますが、新しい挑戦者にはえてして世間というものはそういうものなのでしょう。醜いことこの上ない。

土偶が女性の性徴を有していることは著者も認めます。

しかしながら、ここがとても大事です。

「土偶が女性の性徴を有していること」と「土偶が女性をかたどって作られている」ことは同値ではない。

確かに。二つは必要充分条件ではない。


土偶は植物をかたどっている!
では、土偶は何をかたどっているのか。それは「植物」だというから仰天するではありませんか。だって、植物ですよ。明治に土偶研究が始まってから100年以上「女性」だと思われていたのに人間でないどころか動物ですらない植物を直観したというのはほとんど天才です。

いや、天才というのは間違っている。著者はただ単に「素直」なのです。


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土偶といえば誰もがイメージするのがこの遮光器土偶。

北方民族が装着していたというゴーグルに似ているからその名前がつけられたそうですが、さすがにそれを信じている学者はいまはいないとか。でも、名前にだけその名残が残っている。

でも、これ、普通に見たら人間の形に見えますよね。私は「女性をかたどっている」と習ったからそうだと思い込んでいましたが、少なくとも女性には見えない。妊娠女性なんてもっと見えない。

著者は言います。

遮光器土偶は「見た目の類似は当てにならない」というトラウマを生んだ。しかし土偶の正体を探るにあたって、イコノロジーにはリスクはあるが不要ではない。我々が採るべき道はイコノロジーの排除でなく、イコノロジーの補強である。

著者はこの土偶に何とサトイモを直観したというんですね。

遮光器土偶とサトイモ、どこが似ているのか。

驚くべき画像があります。

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上の土偶画像と見比べみてください。四肢の部分をサトイモの画像に差し替えているんですが、ほぼ完全に一致しています。目からウロコとはまさにこのこと。

遮光器土偶の乳首に当たる部分はサトイモの芽だそうです。第二次性徴を迎えた少女の胸が膨らむことを「芽生え」と称する(←これ、知らなかった)。英語でもbreasts budというとか。『市民ケーン』バラの蕾rose budのbudですね。

遮光器土偶は土中に貯蔵するサトイモを守護する役割を担っていた。もともと遮光器土偶は真っ赤に塗られていたそうです。血液と同じ色。いまでも還暦の年に赤いちゃんちゃんこを着ますもんね。あれは生命力を回復する意味をもつ。縄文人は遮光器土偶に莫大な生命力をもたせて細菌などの魔力からサトイモを守ろうとしたのだろう、と著者は言います。

しかも遮光器土偶は自立しない。立てて置いておくことができない。だから礼拝や鑑賞の対象ではなかったことは明らか。背面が平らに造形されていて、しばしば後頭部に磨滅痕が見られることから、サトイモと一緒に土中に寝かせて埋められたのだろう、と。でもなぜサトイモと一緒に埋めるの?


土偶は植物霊祭祀の道具だった
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(ハート形土偶はオニグルミをかたどって作られたとか)

森の恵みによって生命を維持していた縄文人は、一方的に森からの恵みを受け取ることを良しとしなかった。秋に祭祀の場を設け、そこへ精霊たちへ供物をささげ、盛大な儀礼をおこなってきた。(遮光器土偶はサトイモが腐らないようにという願いがこめられていますが、ほとんどの土偶は「感謝」の気持ちがこめられていたそう)

この発見に至るにはフレイザーの名著『金枝篇』の援けがあったからこそのようですが、私は15年ほど前に読んだけど「王殺し」のことしか憶えておらず、植物霊祭祀についての記述は完全に忘れてしまった。(近いうちに再読しよう)

著者が「この土偶はこの植物をかたどっている」と主張するのは下の画像のように様々です。

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あれ? 変ですね。植物霊祭祀のはずなのに貝があるのはなぜ?

何と、ハマグリとは「浜栗」つまり「山の栗」に対して「海の栗」と縄文人は考えていたらしいんですね。

昔の友人とのやり取りを思い出しました。「蟹(カニ)」や「蝦(エビ)」って虫じゃないのに「虫」という字が含まれている。おかしい。

と考えるのは現代科学によって虫ではないと我々が知っているからであって、漢字ができた頃の古代の人々はカニやエビを虫の一種だと考えていたということ。当時の人々の目で見つめてみることが大事。


縄文のビーナスは妊娠した女性?
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国宝に指定されている「縄文のビーナス」も妊娠女性をかたどっていると長年言われてきました。そして著者もその通りだという。これはどういうことでしょうか。

妊娠女性は妊娠女性でも、トチノミの精霊の妊娠像だというんですね。

稲が実って膨らんでいく事象を、人間の女性が妊娠して腹が膨らんでいく事象を同じものとして捉えるアナロジー(類推)が大事だと著者は言います。

ちなみに、稲妻という言葉。古代、男女を問わず「配偶者」のことを「妻」といったそうです。稲妻の妻は男性。稲妻とは「稲の夫」という意味。夏に落雷が多い年は稲がよく実るという民間伝承から「雷が稲を妊娠させる」という観念が生まれたとか。目からウロコ。


私たちは生かされている
すごい本でしたが、著者がこのような発見を可能にできたのは、縄文人と同じように、森や海で作物を採って食べたからだそうです。

縄文人が何をかたどって土偶を作ったのか。何を願って土偶を作ったのか。そういうことは「蟹」や「蝦」という漢字と同じで、古代人と同じ目で物事を見つめないかぎりわからない。

だから、著者は当たり前のことをして、そこから素直に類推して、素直に考えて結論に至った、というそれだけのこと。

しかしながら、「それだけのこと」が現代人にはできなくなっている。科学に汚染された我々現代人には、古代の人々がどのように世界を見つめていたのかがわからなくなっている。

雨が降るといやだなと思う。週末くらい晴れてくれよと思う。

でも、ほんの100年、200年前まで、雨が降るかどうかは生きるか死ぬかの問題だった。降りすぎてもいけない。適度に晴れて適度に降るのが大事。そのような天の恩恵を受けて生きていた人々は、せめてもの感謝の印として土偶を作った。

私たちは生かされている。天への畏敬の念からおそらく宗教は生まれたのでしょう。

宗教というだけで「科学的でない」と非難する現代人は、古代人がもっていた素直な心を失ってしまった。古代人には見えていたものが見えなくなってしまった。

この本を読んで「私たちは生かされている」という感謝の気持ちを新たにしました。







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2021年06月09日

もう10年前になりますか。映画脚本のコンクールで受賞したんですが、そのシナリオを読んで助言をしてくださった映画評論家の方がいました。(仮にMさんとしておきます)

ミクシィをやっていた頃に知り合い、お互いエロ画像を贈りあったり楽しいお付き合いをさせていただいていました。Mさんとのコメントのやり取りから発想したある政治映画のシナリオを書き、それは何よりもMさんに読んでいただきたいと送ったら快く読んでくださり、的確な助言をいただきました。

受賞作のときもかなり有益な感想を頂戴しました。もしあの意見がなければ受賞できなかったかもしれません。ラストシーンの非常に大事な小道具に関する意見でした。

しかし、そんなMさんとの蜜月も長くは続きませんでした。

受賞作が掲載された月刊シナリオを10冊くらい買いこんで東京の製作会社へ売り込みましたが、返事をいただけたのは1社だけ。社長直々のメールでした。その社長さんは業界では有名なプロデューサーで、ある有名なシリーズ映画の最新作の企画コンペに参加してほしいと依頼を受けました。しかし私の企画は通りませんでした。それからその社長さんにどんどん企画書を送ったものの(いつもプリントアウトして社長に渡してくれていた秘書さんは何という名前だったか)どれも却下で、焦った私はどんどん粗製乱造してしまい、1年たった頃には完全に見限られてしまいました。

で、またぞろコンクールに向けたシナリオを書くようになった頃、Mさんに読んでもらうと、よくわからない意見が書いてある。反論すると、「もっと審査員の好みを忖度して迎合して書かないといけない」みたいなことを言われ、あまりにアホすぎる意見にカチンときた私は舌鋒鋭く批判したら、「あなたのブログやツイートを読んでいると『プロになれなくてもいい』と考えている節がある。もし本当にそうなら何をかいわんやだ」などと言ってくる。

あまりにアホ臭くて返事しませんでした。「返信不要」とも書いたあったし。


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大河ドラマ『青天を衝け』のモデル・渋沢栄一の『論語と算盤』を読んだら、最後のほうにこんな一節があった。

「人を見るにあたって、単に成功とかあるいは失敗とかを標準とするのが根本的誤りではあるまいか」

「成功や失敗のごとくは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである」

「現代人の多くは、実質を生命とすることができないで、糟粕に等しい金銭財宝を主としているのである」

「人は人たるの務めをまっとうせよ」


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Mさんは「審査員の好みを忖度してそれに迎合せよ」と言った。成功するためにはそれが必要であると。

しかし、迎合するためには自分の書きたいことやその題材やキャラクターの真実を犠牲にせねばならない。『論語と算盤』に即していえば、実質を捨てることによって糟粕を得よ、ということである。なぜそんなことをせねばならないのか。そんなことをするくらいなら一生成功しなくていいよ、とマジで思う。

その2年後くらいに上京し、結局、都落ちすることになった。その間にMさんは3冊の本を出した。しかし、これがどれも面白くない。3冊目のある大スターの伝記本みたいなのに至っては「Mさん、あなたは本当にこの本を出したかったんですか?」と問いつめたい気分に駆られた。

Mさんはその本を最後に著書を出していない。本は出しているが訳書だけである。

私は都落ちからほどなくして、ネットで公開されている受賞作を読んだと東京のプロデューサーからメールがあり、いくつかの企画コンペに参加させてもらった。落ち続けるなか、1本だけ「これは今回は映画化しないが、いずれシリーズ最新作を作るときには再び俎上に載せさせてもらう」との返事をいただいた。

が、その会社の次なる映画は、あるアメリカ映画のパクリだった。このブログで何度も書いているが、私はパクリが悪いことだなんて少しも思っていない。うまくパクればいいだけの話。

が、そのプロデューサーはこんな依頼をしてきた。

「いま公開中のアメリカ映画とキャラクターも話もまったく同じものをやります」

アホか。それはうまくパクる範疇をはるかに超えてただの盗作ではないか。私は決然と言い放った。

「他人のふんどしで相撲を取るなんて真似は死んでもできません。これは作家としてのプライドの問題です」

そんな企画でプロになるくらいなら死んだほうがまし。本気でそう思う。


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Mさんはそれでも3冊の著書を出している。私は映画化された脚本は皆無だし、最近書いている小説もまったくダメである。

しかし、私は人たるの務めをまっとうしてきたつもり。確かにプロにはなれなかった。それは実力不足が最大の要因であろうが、脚本家としての、人としての倫理と誇りを守りぬいたからでもある。

私は成功できなかった。でも、そんなものより大事なものがあると信じている。


論語と算盤 (角川ソフィア文庫)
渋沢 栄一
KADOKAWA
2013-07-25







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