評論

2020年11月08日

藤野裕子という文学博士による『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)を読みました。近世から近代にかけてこの国で起こった民衆による暴力を純粋に研究した本なんですが、現代ニッポンをも撃つ内容で、今年を代表する一冊と言っていいんじゃないかと思いました。


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民衆暴力に関するトリビア
まずは、この本の特に前半部分、安土桃山時代、そこから一気に江戸時代末期から明治初期に現れた社会的事象として紹介された驚愕のトリビアの数々をご紹介しましょう。

・刀狩り
近世で行われた秀吉による刀狩りは百姓を丸腰にしたイメージがあるが、文字通りの武装解除ではなかった。あくまでも外見で武士と百姓を見分けられるようにとの措置で、長い柄や派手な鞘の刀を携行することは禁じられたが、脇差しのような小さな刀は問題視されなかった。

・百姓一揆の作法
百姓一揆には作法があり、幕府や藩も一揆を無理やり弾圧することはなく、訴状を受け取ってから説諭し、解散させるケースが多かった。

・仁政イデオロギー
領主には百姓の生業維持を保障する責務があり、そうした「仁政」(情け深い政治)を施す領主に対して百姓は年貢をきちんと納めねばならないという不文律があった。これを「仁政イデオロギー」という。
武装しないことが「自分たちは武士ではなく百姓」であることをアピールすることになり、それが領主に仁政を求める正統性を示す手段になった。


・村の遊び日
江戸時代の農民の生活は決して苦しい悲惨なものではなく、氏神の祭礼や節句、農作業の節目などで農民たちは休みの日を設け、酒宴や博打、相撲、芝居などを楽しんだ。これを「遊び日」という。定例の遊び日だけでなく、願い出て臨時に設けられる「願い遊び日」が増え、さらに願い出さえしない「勝って遊び日」なるものも増加した。

・世直し一揆
幕末にかけての政治・社会の変化は仁政イデオロギーの機能不全をもたらし、解放願望をもつ百姓たちのエネルギーが暴力行使や踊りとなって現れる。これがええじゃないかや世直し一揆である。

・新政反対一揆
廃藩置県・徴兵令・学制・賤民廃止令・地租改正といった明治の新政に対して起きた一揆の総称。農民の生活を根底からひっくり返す新政は、世直しの願望に応えるものではなかった。

・賤民廃止令
賤民廃止令を機に、それまで穢多・非人には許されなかった場所への立ち入りが見受けられるようになり、百姓たちにとっては廃止令ではなく「解放令」と感じられた。特に、一揆の基本的な形だった訴願は百姓たちにだけ認められていた権利だったのに、それが被差別部落民にも認められるようになった。加えて、皮革産業で羽振りのよかった穢多もいて、自分たちより強い力をもった被差別民が自分たちより強大になっていくことへの恐怖と、開国によってやってくる異人への恐怖がシンクロした。この過程で、権力への暴力と下層民への暴力が同時に行われることになった。


へぇ~~~、と驚きました。一揆というと、『カムイ伝』を読んだときのイメージで、暴動→捕まる→拷問→解放→内ゲバで殺される、と勝手に思ってたので。

あと、江戸時代の農民はすごく苦しんでいたというイメージは私ももっていましたね。どうしても時代劇の影響が強いのか、悪代官に苦しめられる百姓たち、というイメージはほとんどの日本人の頭に刷り込まれてしまっていると思います。

厳しい年貢の取り立てに我慢ならず蜂起した果てに、皆殺しにされる民衆というのはある意味捏造されたものなんですね。

大事なのが、百姓たちは訴願するとき武装していなかった、ということ。これは刀狩りによって「武装していない者=農民=訴願の権利をもつ者」という型ができあがり、なのに明治の新政によって被差別部落民にも訴願の権利が与えられると、与えた権力者たちにも、与えられた部落民にも暴力の刃が向いた。

なるほど。

このような江戸末期から明治初期の民衆暴力が上下反対のベクトルを同時にもっていた。それがこの本のクライマックスである関東大震災時の朝鮮人虐殺のときにも共通していた、ということが著者が一番言いたいことのようです。


官民一体の暴力
ただ、上への暴力といっても、西南戦争が武力で鎮圧されたために武装蜂起しても意味がないと悟った士族たちは言論での政治運動に傾倒していった。それが自由民権運動だった。というのはとても大事ですね。

本書でも取り上げられている秩父事件は権力への暴力ですが、民衆を率いた人物たちは「軍隊を相手にしても勝ち目がない」と最初から醒めていたらしい。

関東大震災時の朝鮮人虐殺でも警察権力への暴力はあったけれど、それは朝鮮人を虐殺したことに対して警察署長が「司法権の侵害だ」と言ったことに民衆が激怒してのことらしいんです。

青年団・在郷軍人会などを基盤に、安全組合・自衛組合・保安組合といった自警組織が「警察の指導のもとに」各地域で形成されていった。特に在郷軍人会が重要な役割を果たした。自警団を構成する人員の大半が徴兵経験者であったことから、自警団は警察と軍隊という国家の二つの暴力装置が交差する位置にあった。

そして警察と軍隊が震災時に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が日本人女性を強姦している」などといったデマを流して自警団が朝鮮人虐殺に走るのを促した。

土木労働者や工場労働者たちは朝鮮人たちに仕事を奪われていて、彼らに対する敵愾心が「天下晴れての人殺し」と言わせた。警察や軍隊がデマを流したことによって虐殺が行われたが、民衆の心にあらかじめ「いつか朝鮮人たちに恨みを晴らしたい」という素地があった。「官民一体」となった虐殺だった。

というわけで、上下正反対のベクトルを孕んだ暴力といっても、結局は権力者の思い通りに民衆が動かされ、下への暴力を働かされた、というのが肝でしょう。

「官民一体の虐殺」
この言葉ほどこの本に書かれていることを象徴する言葉はないし、また現代ニッポンにも同じような事象がありますよね。


露探
ここで突然時代を戻して、私がこの本で一番へぇ~~~~となったトリビアをひとつ。

日比谷焼き討ち事件、つまり日露戦争の講和条約に反対する民衆暴力事件のときに「露探」という言葉が生まれたそうです。

日比谷焼き討ち事件では日清・日露戦争で挙国一致のムードが高まり、「国民」ではない者を発見しようとする動きが現れた。「露探」つまりロシアのスパイ。日露戦争時のナショナリズムの昂揚は身近な人間が実は敵国側の者だという疑心暗鬼を生み出した。また、誰かを露探だと後ろ指さす行為が逆にナショナリズムを昂揚させる働きもあった。

うーん、これなんか、いまのネット民が政府を批判する者たちに「在日」というレッテルを貼って誹謗中傷しているのと何も変わらないですよね。

明治の新政での賤民廃止令による被差別部落への暴力は、いまも「在日特権を許さない」という言葉で残っています。時代が移り変わっても、自分たちの既得権益を犯す者へ刃を向ける行為は少しも変わっていない。

政府も朝鮮人高等学校だけは授業料無償化を認めなかったり、下への差別意識とナショナリズムを昂揚させる方向へ方向へと舵を切り続けています。そしてネット民はその波にうまく乗せられて非国民探しに余念がない。

まさに官民一体の暴力。

歴史は繰り返されるというけれど、この無限循環はどこかで止めないといけないのではないか。

と、言葉で言うのは簡単ですが、具体的にどうすれば止められるのかはとても難しい。

少なくとも、民衆暴力の歴史を学ぶところから始めなきゃ、と思った次第。必読。







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2020年08月30日

永田希という書評家(女性かと思ってたら男性だった)による『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)を読みました。


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印象的なフレーズ
まずは、本書を読んでとても印象に残ったフレーズを抜き書きしてみましょう。

「本はそれが閉じられている状態と、開かれている状態との『あいだ』にある。その性質は、それを読んでいる時間とそれを読んでいない時間との『あいだ』にある」

なるほど! これは気づかなかった。開かれて読まれている状態だけが本の性質だと思ってましたが、著者はそこを激しく撃ってきます。


「積読である以上は『いつか誰かに読まれたい』という書物の期待に十全に応えることはできない。書物の期待は積読をしている間は保留され続ける。繙かれていない書物の中の情報は、無意味でもなければ意味を特定された状態でもない。特定されていない意味のカオスこそ積読の正体です」

上の文章を難しく言い直したような感じですかね。積読こそが本の性質を保持し続ける、というような意味かな。この本は「常識」とされていることをうっちゃることが目的なので、意味を把握するのがとても難しかった。


「何かを語るために十分な知識の量と体系、要するに『語るための資格』を備えていると自負するのは、結局のところは権威主義的で鼻持ちならない高慢さの表れでもある」

これはツイッター界隈でもよく目にする言葉ですね。映画を語るには古典をちゃんと見てからにしろ、だの、おまえはこの程度の名作も見てないのか、だのといったマウンティング合戦が日常茶飯事的に行われています。
著者はこの権威主義的な考え方も激しく撃ってくる。そりゃま、そうですよね。語るために資格が必要ならいつまでたっても語れませんから。


「ある書物について語ろうとするときに人が躊躇するのは、その書物を自分が完全には読めていないという『うしろめたさ』と、それにもかかわらず自分がその書物の『位置づけ』に関与してしまうという無責任さが『やましい』からです」

書物を完全に読むことはできないと主張する著者ならではの言葉ですね。

以上、小難しいフレーズばかりを選んで愚にもつかない感想を述べましたが、私がこの本を読んで一番画が浮かんだのは、本書の主旨からは外れるかもしれませんが、以下のような場面です。

「この本棚にある本、全部読んだんですか?」
「いや、全部は読んでないんだけど」

というような会話が交わされるときの、すべてを読んでいないことを恥じる後者と、それを聞いて「それはもったいない!」と鬼の首を取ったかのような前者の表情ですね。


蔵書家の言い分
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これは他人様の家の書棚です。私はこんなに本をもってないし、そもそもこんなに部屋が広くない。

冊数もおよそ1000冊くらいでしょうか。本好きなら普通の量か少ないほうでしょう。増える一方だからどんどん売るんですが、売っても売ってもそれ以上のスピードで買うから増えていく。ちょいと前に新しい本棚を買いました。まだぎりぎりもう一個置けそうではありますが、いまの状態を限界と考えるべきかな。

それはさておき、1000冊も本をもっているというと「全部読んでるんですか?」って必ず訊かれるんですよね。

私は恥ずかし気に「いや、全部は」と答える。すると相手は「何割ぐらい読んでないんですか?」と間髪を入れずに訊いてくる。「3割、いや4割くらいかな」「ほとんど半分じゃないですか!」

と鬼の首を取ったかのような顔で突っ込んでくる。うっとうしいったらありゃしない。

以前、ツイッターで「あなたの本棚のあいうえお」「かきくけこ」という自分の本棚の本をさらすハッシュタグがあって、私も結構ツイートしましたが、あのときに思ったのは、

「本棚を一瞥しただけで、自分がこれまでどんな本を読んできたか、これからどんな本を読もうとしているかを一望できる」

ということでした。デジタル書籍には絶対にできない芸当だと。

そして大事なのは、「これまで読んできた本」と「これから読む本」が同居しているということです。

過去の自分と未来の自分の邂逅。

ここにこそ蔵書家が図らずもみな積読してしまう理由があると思う。

私の統計によると、積読状態の本棚を見て鬼の首を取ったかのような顔になる輩ほど決まって「どんな本を読んでいいのかわからない」っていうんですよ。

巷で話題になってるとか、タイトルに惹かれたとか、装丁がきれいとか、何でもいいから気になったものから読んでみたらいい、とアドバイスするんですが、ごにょごにょ言うばかりで結局何も読まない。何も読まないくせに「僕も今年こそは読書に勤しもうと思ってるんですよ」とかいう。

何だそれは。って感じですが、おそらく彼/彼女のような人は、「これから読む本」にしか興味がないのだと思います。現在から未来にかけての自分にしか興味がない。現在の自分の土台である過去の自分には興味を示さない。

読書、いや積読というのは、「過去の自分と未来の自分の邂逅」にこそ精髄があります。

それはつまり「歴史」ということです。


積読こそが完全な読書術である
永田 希
イースト・プレス
2020-04-17





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2020年08月14日

『町山智浩のシネマトーク 怖い映画』を読みました。


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『血を吸うカメラ』に『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』『アメリカン・サイコ』など私の大好きな映画が取り上げられているので興味深く拝読しました。

が、一番期待していた『血を吸うカメラ』と『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』に関する文章はさして面白いものではありませんでした。

それに『ヘレディタリー/継承』『ポゼッション』『たたり』『狩人の夜』はさほど好きな映画じゃないので読んでいてもあまり乗れなかった。

『アメリカン・サイコ』と『カリガリ博士』に関する文章はなかなか興味深かったですが、それ以上に私にとってこの本の白眉と言えるのが、実はあまり好きじゃない映画『テナント 恐怖を借りた男』をめぐる考察です。


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この映画も上記の好きじゃない映画と同様、3回、4回と見ているんですが、多くの人が語っているような魅力が感じられなかった。

でも、町山さんの論考を読んで大いに蒙を啓かれ、これはすぐにでも再見せねば、と思いました。

ユダヤ人であるロマン・ポランスキーの出自や、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で描かれたシャロン・テートのこと、アメリカで淫行事件を起こしていまだ指名手配中であることなどが最初に語られます。

そのあとで映画本編の話になるんですが、最もギョッとなったのが、ポランスキー演じる主人公の隣人のパジャマが縦縞で、ナチスの収容所でユダヤ人が着せられている服だというところ。

ううう、いままでそんな重要なことに気づかなかったとは。

あと「警察署長と知り合いだ」「警察署長とは友人だ」というセリフで脅されたりするんですが、そんなセリフもまったく憶えていません。いったいどこを見ていたのやら。

「この映画には『ユダヤ人』という言葉が一切出てきません。だから縦縞パジャマの意味やポランスキーの出自を知らないと意味がわからない映画なんです」

いやぁ、私は縦縞パジャマの意味もポランスキーの出自も知っていたけど、少しも映画そのものにひそむ恐怖を感じ取れていませんでした。脱帽です。


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私がいままでこの映画に乗れなかったのは、おそらく「不条理劇」だからかもしれません。何だかよくわからないままに警察に連行されたりすることに乗れなかったのかも。町山さんも触れているカフカの『審判』なんて若い頃はめちゃ楽しんで読んだくせに。

主人公の前の住人シモーヌはエジプト関係の本をもっていたとか、壁にエジプトの象形文字が書いてあるとか、「え、そんなのぜんぜん知らなった」という体たらく。出エジプト記の「過越」の祭りが関係してくるとか、うーん、聖書は読んだけどまったく憶えてないニャ。また読まねば。アメリカ映画を存分に楽しむためにわざわざ大枚はたいて聖書を買ったのにまるで役に立てられていない。反省。

その他、ウディ・アレンの『カメレオンマン』が『テナント』を読み解くためのヒントになるとか、目からウロコの話ばかり。

主人公が終盤飛び込むパブにはアメリカの1ドル札を拡大したポスターが貼ってあるとか、私はおそらくこの映画を少なくとも4回は見てるはずですが、ほんとまったく目に入っていなかった。号泣。


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「差別は差別された人をおかしくしてしまうものなんですよ」

と町山さんは言うが、うーん、私が受けた差別といえば、イタリアに行ったとき老婆に道を訊いたらシッシとやられたくらいで、それ以外は何もない。差別はいけないと思っているし、そう言ってきたけれど、差別される者の悲しみや苦しみ、恐怖については逆立ちしてもわからないことを思い知らされました。

町山さんは在日韓国人ということでクラスメイトだけでなく教師からも差別されていたというし、いわれなき差別を受けた者でないとこの映画を十全には楽しめないような気もしてきました。町山さんの考察どおりに再見したとしても「よくできている」とは思えても「怖い」とまでは思えない可能性があります。

でも、とりあえずはユダヤ人差別の観点から見直してみようと思います。ここで本当に怖いのは、『テナント』という映画が「町山智浩が論じた通りの映画」にしか見えなくなることです。

いろんな見方があっていいはずなのに、それしか見えなくなってはいけない。

もっとしなやかに、もっとしたたかに、再見してみます。楽しみ。


私が書いた『血を吸うカメラ』と『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』に関する記事はこちら。
『血を吸うカメラ』(KaoRiさんのアラーキー告発をめぐって)
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(『サイコ』を超える「主人公の入れ替わり」)

町山智浩のシネマトーク 怖い映画
町山 智浩
スモール出版
2020-06-09





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