主義・主張

2021年01月17日

今日1月17日はジム・キャリーの誕生日だそうです。

しかし、ジム・キャリーを語る人の多くは『トゥルーマン・ショー』や『マン・オブ・ザ・ムーン』『マジェスティック』などを挙げていて、私はそれが大いに不満なので筆を執った次第。そりゃああいういい子ちゃんの映画も面白かったけど、やっぱりジム・キャリーなら『ふたりの男とひとりの女』や『マスク』『ブルース・オールマイティ』あたりが最高じゃないかしら、と。おとなしめの作品なら『イエスマン YESは人生のパスワード』とかね。

たまたま昨日、WOWOWで最初の主演作『エース・ベンチュラ』とその続編『ジム・キャリーのエースにおまかせ』が放送されていました。なかなかタイムリーじゃないかと早速見てみました。ジム・キャリー大好き人間なのにこの2本は初見なのです。


ジム・キャリーはチャップリン⁉
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やはり面白かったです。あの顔面芸をはじめやりすぎ感満載のオーバーアクションは好き嫌いがわかれるところでしょうが、私はジム・キャリーは現代のチャップリンだと思っています。

こんなことを言ったら、チャップリンを語らせたら右に出る者はいない泉下の淀川長治さんが激怒するかもしれません。ジム・キャリー大嫌いでしたからね。

それに、チャップリンを出すなら同じサイレント期の巨人バスター・キートンはどうなんだと言われるかもしれません。

でも、キートンにはすでに正統な後継者がいるじゃないですか。


バスター・キートン=ジャッキー・チェン
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ジャッキーはかねてより最も敬愛する映画人はバスター・キートンだと言っていました。え、アクションスターなのにコメディアンを尊敬しているの? と思うかもしれませんが、『セブン・チャンス』や『キートンの大列車追跡』を見ればキートンがアクションスターであることは論を俟ちません。

さて、ジム・キャリーがチャップリンと同等だと思うのは、この人の言葉を幼い頃に聞いたからなんですよね。


萩本欽一の言葉
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中学生でしたから、映画を狂ったように見始める前のこと。NHKで「チャップリンはなぜ時代を超えて人々を魅了するのか」という番組をやっていて、同じコメディアンの欽ちゃんが解説していました。

「例えば熱い鍋に触れて思わず手を引っ込めるシーンで、普通ならアツッを大きく手を引っ込めるだけですが、チャップリンはそこでひっこめた手の指を変なふうに曲げてみせるんです。さらに片目を大きくつぶる。口元を歪める。もう片方の手を反対方向へねじる。片足を上げる。というふうに、同時にいろんな部位を動かす。思わず手を引っ込めるというひとつのリアクションに実はいろんな動きが隠されているんです」

みたいな意味のことを言っていました。いま思えばちょいと変ですよね。だってチャップリンはキートンと同じで笑わせる場面ではいつも無表情だったから。淀川さんはそういう上品さが好きだったんでしょう。


お下劣ジム・キャリー
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確かにこんな変な芝居をする役者を淀川さんが好きになるはずはないなぁとは思うものの、しかし淀川さんの言葉がすべて正しいわけではない。もちろん私の言葉も正しいとはかぎりません。

ジム・キャリーが苦手な人は下品・下劣な芝居が満載なのがいやなのでしょう。でも私は好き。欽ちゃんの言葉通りだからとかそういう理屈ではなく、ただ見ていて自然と噴き出してしまう。なぜ爆笑してしまうのかと考えると、欽ちゃんの言葉がよみがえってくるのです。

サイレント期と違い、セリフがあるからジム・キャリーは素っ頓狂な声で笑いを取ることもありますが、基本的には体の動き、つまりアクションで魅せようとしている。上品か下品かの違いこそあれ、チャップリンとジム・キャリーのやっていることはほとんど同じです。

フィルモグラフィーを見ると、最近はあまり映画に出ていないみたいだし、画像を見ると皺だらけになっていて大丈夫かなと心配になってきましたが、『トゥルマン・ショー』みたいな賞狙いの作品ではなく、『ふたりの男とひとりの女』みたいな顔面芸だけで成立しているお下劣な映画を待ってまっせ!







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2020年10月02日

Change.orgというの、あるじゃないですか。
最近なら杉田水脈の議員辞職を求めるとかそういう署名活動をやっている団体。

私も何回か賛同したことがあり、おおむねその活動には好意的でしたが、今回は完全に反対意見です。


履歴書に写真は不要?
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Change.orgからのメールには「履歴書に写真は必要なのか」と書いてありました。

何でも諸外国では性別や人種、年齢、国籍を書く欄をなくそうという動きが活発で、何より仕事において大事なのは能力や適性であり、性別や外見でそれを判断するなどナンセンスだと。

確かに、人種差別が盛んな国では履歴書の写真はなくしたほうがいいかもしれません。書類審査で落とされる可能性がありますから。

でも日本には、日本人以外にもアイヌ人や在日朝鮮人もいますが、外見だけでは判別できません。写真だけでは差別されないのだから別にいいんじゃないかと思います。

Change.orgの言い分で納得いかないのは「外見に内面は反映しない」というきれいごとを信じ込んでいることで、そんなのは子どもの言い分ですよ。

そりゃ、彼らの言い分にある「アルビノや顔面に怪我や痣がある人がそのせいで不採用になるのは防がないといけない」というのはもっともです。

しかし、Change.orgはそういう人たちだけでなく「すべての人が外見で採否を決められるのを防がないといけない」というんです。これは完全に子どもの言い分です。

内面は外見に出ます。

履歴書に写真を貼らずとも、面接ではがっつり外見を見られます。顔を洗ったり、ヒゲを剃ったり、鼻毛処理をしたり、シャツにアイロンをかけたり、靴を磨いたりなどなど、身だしなみを整えていないとそれだけで落とされるのは常識。

自分の身だしなみも整えられない人間に仕事などできないと捉えられても文句は言えません。


写真は「採否」だけに必要なのか?
そもそもの問題として、履歴書の写真って採用か不採用かを決めるために貼らせるんですかね?

私はかつて脚本家を目指していましたが、脚本家に「感想を聞かせてください」と送ったり、あるいは製作会社に売り込んだりするとき、顔写真を必ず貼って送ってましたよ。

なぜか。

理由は至極簡単です。どこの馬の骨かわからない人間から分厚いシナリオが来た場合、その馬の骨の顔がわからないよりわかったほうが読んでもらえる可能性が高まると思ったからです。

私はハゲていますから外見に問題のある人間です。少しも見栄えはよくありません。それでも顔がわからないよりわかったほうが可能性は高まると信じて手紙に写真を貼っていました。

書類にいくらその人の履歴や情報が書かれていても、その情報を「人間」とはあまり感じられない。それが普通の感覚です。顔がわかったほうが「あ、こういう人が送ってきたんだな」とわかって親近感をもってもらえる。

逆に、履歴やスキルだけが書かれた紙だけで能力や適性を判断するほうが非人間的なふるまいだと思いませんか?

採用する側だってそれはわかっているはずです。というか、わからざるをえない。なぜなら、たくさんの人を面接するわけだからあとで選考する際に名前や年齢、履歴やスキルといった情報だけでは誰が誰やらわからなくなってしまう。そこに写真が一枚ありさえすれば「あ、この人ね」とわかってもらえる。顔写真にはありとあらゆる「情報」が詰まっているから一目でわかるのです。

よく、非常識なふるまいをする人がいたら「親の顔が見てみたい」というじゃないですか。決して親の職歴や能力、年齢、日頃の行いなんか問わない。問われるのは「どういう顔をしているか」それだけ。

少年犯罪が起こると、顔をさらすのは違法だから新聞やテレビでは犯人の顔は見れませんが、正義を標榜する週刊誌が載せたりしますよね。載ってたら見ますよね。いったいどんな顔の奴があんなひどい殺人を犯したのかと誰もが思う。そういうことだと思うんです。


美人だからといって採用されたりしない
Change.orgは最近のほとんどの企業と同じく、人間の能力をすべて数値化できると思っているのでしょう。顔写真に含まれる情報は数値化できない(おそらく情報量が膨大すぎて無理なんだと思う)から「そんなものを載せるなんて不当だ!」と思うんじゃないですかね。

怪我や痣なども数値化できません。数値化できないから厄介なのです。

でも、その厄介なものも含めて「その人」であり「その人の内面」を反映していると言えるのではないでしょうか。

顔に痣がある人には心底同情しますが、笑顔ひとつでチャーミングな部位に変えることは可能でしょう。

ピンチはチャンスという言葉があるように、弱点を隠すのではなく、チャームポイントに変える積極的な方法論を模索すべきではないでしょうか。だって、採用されたら自分の顔をさらして働かないといけないんですよ。就活のときだけ隠すなんてできないんですから。

かつてバイト先の同僚に絶世の美女がいましたが、いくら面接を受けても結果が出ず、どこにも決まらないまま結婚という永久就職の道を選ばざるをえませんでした。

見た目がいいからといって採用するようなアホな会社はごくごく少数派です。



美人の正体 外見的魅力をめぐる心理学
越智 啓太
実務教育出版
2013-08-28







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2020年08月30日

永田希という書評家(女性かと思ってたら男性だった)による『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)を読みました。


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印象的なフレーズ
まずは、本書を読んでとても印象に残ったフレーズを抜き書きしてみましょう。

「本はそれが閉じられている状態と、開かれている状態との『あいだ』にある。その性質は、それを読んでいる時間とそれを読んでいない時間との『あいだ』にある」

なるほど! これは気づかなかった。開かれて読まれている状態だけが本の性質だと思ってましたが、著者はそこを激しく撃ってきます。


「積読である以上は『いつか誰かに読まれたい』という書物の期待に十全に応えることはできない。書物の期待は積読をしている間は保留され続ける。繙かれていない書物の中の情報は、無意味でもなければ意味を特定された状態でもない。特定されていない意味のカオスこそ積読の正体です」

上の文章を難しく言い直したような感じですかね。積読こそが本の性質を保持し続ける、というような意味かな。この本は「常識」とされていることをうっちゃることが目的なので、意味を把握するのがとても難しかった。


「何かを語るために十分な知識の量と体系、要するに『語るための資格』を備えていると自負するのは、結局のところは権威主義的で鼻持ちならない高慢さの表れでもある」

これはツイッター界隈でもよく目にする言葉ですね。映画を語るには古典をちゃんと見てからにしろ、だの、おまえはこの程度の名作も見てないのか、だのといったマウンティング合戦が日常茶飯事的に行われています。
著者はこの権威主義的な考え方も激しく撃ってくる。そりゃま、そうですよね。語るために資格が必要ならいつまでたっても語れませんから。


「ある書物について語ろうとするときに人が躊躇するのは、その書物を自分が完全には読めていないという『うしろめたさ』と、それにもかかわらず自分がその書物の『位置づけ』に関与してしまうという無責任さが『やましい』からです」

書物を完全に読むことはできないと主張する著者ならではの言葉ですね。

以上、小難しいフレーズばかりを選んで愚にもつかない感想を述べましたが、私がこの本を読んで一番画が浮かんだのは、本書の主旨からは外れるかもしれませんが、以下のような場面です。

「この本棚にある本、全部読んだんですか?」
「いや、全部は読んでないんだけど」

というような会話が交わされるときの、すべてを読んでいないことを恥じる後者と、それを聞いて「それはもったいない!」と鬼の首を取ったかのような前者の表情ですね。


蔵書家の言い分
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これは他人様の家の書棚です。私はこんなに本をもってないし、そもそもこんなに部屋が広くない。

冊数もおよそ1000冊くらいでしょうか。本好きなら普通の量か少ないほうでしょう。増える一方だからどんどん売るんですが、売っても売ってもそれ以上のスピードで買うから増えていく。ちょいと前に新しい本棚を買いました。まだぎりぎりもう一個置けそうではありますが、いまの状態を限界と考えるべきかな。

それはさておき、1000冊も本をもっているというと「全部読んでるんですか?」って必ず訊かれるんですよね。

私は恥ずかし気に「いや、全部は」と答える。すると相手は「何割ぐらい読んでないんですか?」と間髪を入れずに訊いてくる。「3割、いや4割くらいかな」「ほとんど半分じゃないですか!」

と鬼の首を取ったかのような顔で突っ込んでくる。うっとうしいったらありゃしない。

以前、ツイッターで「あなたの本棚のあいうえお」「かきくけこ」という自分の本棚の本をさらすハッシュタグがあって、私も結構ツイートしましたが、あのときに思ったのは、

「本棚を一瞥しただけで、自分がこれまでどんな本を読んできたか、これからどんな本を読もうとしているかを一望できる」

ということでした。デジタル書籍には絶対にできない芸当だと。

そして大事なのは、「これまで読んできた本」と「これから読む本」が同居しているということです。

過去の自分と未来の自分の邂逅。

ここにこそ蔵書家が図らずもみな積読してしまう理由があると思う。

私の統計によると、積読状態の本棚を見て鬼の首を取ったかのような顔になる輩ほど決まって「どんな本を読んでいいのかわからない」っていうんですよ。

巷で話題になってるとか、タイトルに惹かれたとか、装丁がきれいとか、何でもいいから気になったものから読んでみたらいい、とアドバイスするんですが、ごにょごにょ言うばかりで結局何も読まない。何も読まないくせに「僕も今年こそは読書に勤しもうと思ってるんですよ」とかいう。

何だそれは。って感じですが、おそらく彼/彼女のような人は、「これから読む本」にしか興味がないのだと思います。現在から未来にかけての自分にしか興味がない。現在の自分の土台である過去の自分には興味を示さない。

読書、いや積読というのは、「過去の自分と未来の自分の邂逅」にこそ精髄があります。

それはつまり「歴史」ということです。


積読こそが完全な読書術である
永田 希
イースト・プレス
2020-04-17





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