映画

2020年10月18日

昨日おとといあたりからツイッターで「#努めて客観的に見て世界一面白い映画」というハッシュタグが流行っています。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
『七人の侍』
『ダイ・ハード』
『ゴジラ』
『アンタッチャブル』
『ルパン三世 カリオストロの城』

といった最大公約数的に面白い映画のツイートが多くのリツイートやいいねを得ていました。

私も時流に乗って考えてみました。

かつて、甥っ子がまだ幼稚園児だった頃、「面白い洋画が見たい」というので、ジャッキー・チェンなら話の内容がわからなくても動きが面白いので楽しめるだろうと『スパルタンX』を見せたらキャッキャキャッキャと喜んでいました。

だからジャッキーから選ぶことにしよう。で、「客観的に面白い」ということは脚本がよくできていないと無理だろうから、ジャッキー映画の中で一番脚本が練れている映画を選びました。

そのツイートが↓こちら↓


で、そのあとにフォロワーさんの以下のツイートを目にしました。


とても恥ずかしくなりました。その通りだと思ったからです。

でも、一日たってつらつら考えていると、本当にそうだろうか? という思いに囚われました。

いや、そりゃ私だって先に挙げた最大公約数的に面白いとされる映画が「世界一面白い映画」だなんて大反対なんですよ。それが私の主観。

でも、そこにこそこのハッシュタグの意味があるんじゃないかと思いました。

こんなツイートがありました。


私も『龍拳』を挙げるときに同じことを考えました。ミュージカル嫌いは増える一方だから『バンド・ワゴン』や『イースター・パレード』は挙げられない。ホラー嫌いも多いから『悪魔のいけにえ』なんてもってのほか。コメディもシリアスに比べて軽く見られる傾向があるから(作るのは一番難しいにもかかわらず!)『シリアル・ママ』もダメだな、とかね。

結局、「努めて客観的に見て世界一面白い映画」を考えるとき、自分の主観と世間的な価値観とのずれを考えざるをえないわけです。

当然のことながら、ずれてるからダメなわけでもずれてるから偉いわけでもありません。


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かつて黒沢清監督は、

「映画館は自分と世間がどれだけずれてるかを確認する場だと思っています。自分はとても可笑しいと思っているのに周りは誰も笑っていなかったり、つまらないと思っていたら周りはみんな泣いていたり。私はそうやって自分の価値観だけがすべてでないことを学びました」

と言っていました。

だから「#努めて客観的に見て世界一面白い映画」というハッシュタグは「ネット上の映画館」なんじゃないかと思った次第。

あのハッシュタグで「話題のツイート」を見ると、上位はほんとつまらないものばかりですが、それもまた自分と世間とのずれや葛藤を知るにはもってこいの場だと思いました。

そういえば現在公開中の『スパイの妻』も自分の価値観と世間的価値観との葛藤が描かれていましたっけ。







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2020年10月13日

泣く子も黙る名作中の名作『フレンチ・コネクション』。

私は『クリエイティヴ脚本術』という本で、ユング心理学を援用した比較神話学で脚本の書き方を学んだ人間なので、映画を見るときもそういう観点から見ることがあるのですが、この『フレンチ・コネクション』はそういう意味でも類まれな面白さをもった映画だと思います。

ユング心理学そのものを学んだわけじゃないので頓珍漢なことを言っているかもしれませんが、平たく言うと、「身体」「心理」「感情」、そしてもうひとつ「霊」というところから人間や世界を考えるわけですが、私は「霊」に関してはその手の映画じゃないかぎりは無視しています。

「身体の物語」
「心理の物語」
「感情の物語」

この3つの側面からこの映画を眺めてみると・・・

①身体の物語
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何といってもこの映画はカーチェイスが有名です。麻薬密輸グループを撲滅せんと躍起になる主人公ジーン・ハックマンが相棒のロイ・シャイダーと協力して組織の頭目フェルナンド・レイを逮捕しようと奮闘するのが物語のあらましです。

カーチェイス以外にも、中盤に素晴らしい尾行のシーンがあったり、この映画は身体の物語、つまり「アクション映画」として出色の出来栄えです。


②心理の物語
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問題解決のための謎を解くのが「心理の物語」だそうで、俗っぽい言葉で言うと「サスペンス」とか「ミステリ」ということになります。
この映画では、密輸グループが車をやり取りしていることを突き止めたジーン・ハックマンがいったい車のどこに麻薬を隠しているのか、それを突き止めるのが「心理の物語」です。


③感情の物語
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だいたい映画における感情はほとんどが恋愛として描かれますが、同性同士の友情物語の場合もあります。
この映画における「感情の物語」はちょっと特殊で、ソニー・グロッソが演じる財務省の役人とジーン・ハックマンとの確執がそれに当たります。ソニー・グロッソはかつて懇意だった刑事がジーン・ハックマンのせいで死に追いやられたと恨んでおり、二人は何かにつけて諍いを起こします。


④逆転!
この映画は、ジーン・ハックマンとロイ・シャイダーが自分たちで見つけたヤマを解決できるか否か、つまりフェルナンド・レイを逮捕できるかどうかの物語であり、そのために尾行やカーチェイスを経てラストの銃撃戦に至ります。

麻薬の隠し場所を見つけ「心理の物語」は解決しました。「感情の物語」は最初からほとんど味付け程度の意味しかもっていません。だから「身体の物語」にさえケリをつけてしまえばいい。

が、ここで驚くべきことが起こります。

ジーン・ハックマンが「フェルナンド・レイがいた!」とばかりに発砲したら、命中はしたもののその男は何とソニー・グロッソであり、即死していました。それに気づいたロイ・シャイダーは意気消沈してしまいます。でもジーン・ハックマンは少しも驚くことも慌てることもなくフェルナンド・レイを追い求めるところで物語は幕を閉じます。

フェルナンド・レイを射殺していれば「身体の物語」に首尾よく終止符を打てました。それがこの映画の眼目だったはずです。なのに、フェルナンド・レイは逃げ延びてしまうため「身体の物語」は終わりません。(だから「身体の物語」に終止符を打つべく続編が作られます)

しかし、なぜでしょうか?


⑤自己言及
フェルナンド・レイを射殺してしまえばすべて丸く収まったはずですが、しかしそれだと「目的のためには手段を選ばない刑事」に対する批判的な目がなくなってしまいます。

同年に作られた『ダーティハリー』も目的のためには手段を選ばない刑事を描いていましたが、『フレンチ・コネクション』の作者たちは、当時流行り出したそういう刑事ものへのアンチテーゼを打ち出そうとした、というのが私の見立てです。おそらく無意識に。

「身体の物語」に終止符が打たれるはずが、アッと驚く逆転によって、味付け程度だったはずの「感情の物語」が一気に前面に出てきます。

はたして、ジーン・ハックマンは本当にソニー・グロッソとフェルナンド・レイを間違えたのか、それともソニー・グロッソだと確信してどさくさまぎれにわざと撃ち殺したのか。

真相は誰にもわかりません。しかし、それまでのジーン・ハックマンの言動から察するに「わざと」の可能性は大いにあります。ロイ・シャイダーの「もしや」という疑惑の目にも注目したい。(あの疑惑の目も「感情の物語」ですね。一枚岩だった二人の間に初めて感情的な亀裂が入る)

凶悪犯が急増した70年代初頭に「はたして目的のためには手段を選ばない刑事」は許される存在なのかと、この映画は観客に問うてきます。おそらく、ソニー・グロッソが懇意にしていた刑事はジーン・ハックマンの「俺は法の執行者なのだ」という傲慢で身勝手な性格のせいで死んだのでしょう。

そして、ラストシーンに至って、ジーン・ハックマンはそれを責めたてるソニー・グロッソをも、もしかしたらわざと殺したかもしれない。いったい何が正義なのか。正義を標榜しすぎるから悪がより凶悪になるんじゃないのかというメッセージも読み取れます。

だから、この『フレンチ・コネクション』は「刑事映画を批評する刑事映画」なのです。ヌーヴェルヴァーグのように直截的なやり方ではなく、もっとスマートなやり方で作られた「自己言及映画」と言えるでしょう。


⑥伏線
ところで、ラストの疑惑の一発の銃弾には伏線がありますよね?

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フェルナンド・レイの手下に狙撃されそうになったジーン・ハックマンが彼を執念深く追いつめて射殺するシーン。あの有名なカーチェイスの直後です。

このエピソードは、ジーン・ハックマンと狙撃犯との「身体の物語」です。撃たれそうになったジーン・ハックマンが、逆に狙撃犯を撃ち殺してこのエピソードは終わります。

が、このエピソードには「心理の物語」もあります。それは、列車に乗った狙撃犯をどうやって追うか、というサスペンスです。ジーン・ハックマンは迷うことなく一般市民の車を強奪して狙撃犯を追います。

「心理の物語」としての解決にはなっていますが、「一般市民から車を強奪する=犯人逮捕のためには手段を選ばない」という主人公の行動=キャラクターが、映画全体の「感情の物語」を読み解くカギになっているところも素晴らしい。


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アーネスト・タイディマンの脚本、しびれます。


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2020年10月04日

長谷川和彦監督の衝撃的デビュー作『青春の殺人者』をチャンネルNECOにて再見しました。


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無花果をめぐる物語
水谷豊演じる主人公は、スナックを与えてくれた両親と対立しています。スナックの経営をやっている恋人の原田美枝子をめぐって。原田美枝子は右耳が聞こえないのですが、彼女が語るその理由は、裏庭だったかどこかの無花果の実を食べて母親から思いきり叩かれたからだ、と。

水谷豊はそれを鵜呑みにしているのですが、父親は「考えてもみろ。鼓膜が破れるほどぶっ叩くなんてのはよっぽどのことだぞ。あの女のことだ。母親の男を咥えこんだのを見られて殴られたんだろう。性悪なんだよ。おまえもそろそろ目を覚ませ」

なんてことを言われて、カッとなった主人公はまず父親を刺し殺します。そこへ母親が帰ってくるのですが、咎めるどころか「あたし、こうなることを望んでいたような気がするの」なんてことを言って、父親は女と蒸発したことにして二人でどこか知らないところへ行って静かに暮らそうともちかけます。

何だかんだの行き違いの末に主人公は母親まで殺してしまい、両親を亡きものにした男のウロウロは頂点に達します。

そこで再度、無花果が出てきます。出てくるといっても、確かに原田美枝子が食べる小道具として出てはきますが、それはあくまでも彼女の嘘の映像として、主人公が愚かにも信じてしまった妄想として、幻影として、です。

確かに父親の言うとおり、無花果の話は作り話だった。それは原田美枝子の母親を演じる白川和子にも確認したし(「あれは無花果ではなくヤツデだった」)何より原田美枝子が継父に犯されていただけでなく、自分から咥えこんでいたことも告白します。

すべては両親の言うとおりだった。後悔先に立たず。

とはいえ、彼は原田美枝子の嘘がもっと前に判明していたら別れていたのでしょうか?

違いますよね。嘘は嘘として「それぐらいのこと」とか何とか言って両親に反抗して仲を深めていたに違いありません。


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それに、原田美枝子は両親の言うとおりのあばずれなのはそうなんでしょうが、結構主人公のことを心配し、彼のために行動する場面が結構あります。そんなに悪い女じゃない。いや、むしろいい女でしょう。

何が言いたいかというと、両親を殺すより原田美枝子を殺すことで地獄のどん底に叩き落とされる主人公のほうがよりドラマチックだっただろうということ。

しかしながら中上健次の原作『蛇淫』は実際に起こった殺人事件をモチーフにしているので、そこは動かせなかったのでしょうね。何しろプロデューサーは『復讐するは我にあり』の今村昌平監督であり、実録物からはずれることは許されなかったと推察します。


長谷川和彦監督の狙い
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長谷川和彦監督はこの監督デビュー作の前にすでに脚本家としてデビューしていました。

なのに自分で書かず、脚本を田村孟さんに依頼しています。これは自身の判断だったのか、今村さんの判断なのかはわかりません。それに『蛇淫』を読んだことがないので、どこまで原作に即しているのかもわからないし、実際の事件にもそんなに詳しくないのでどこまで現実に即しているのかもわかりません。もちろん、そんなものが評価の対象にならないのは百も承知です。

問題は、書ける監督である長谷川和彦監督が、他人に依頼したのはなぜかということ。

かつて私も長谷川さんに師事しました。師事というのはおこがましいのですが、それでも教えを受けたことには違いなく、専門学校で直接指導してくださった先生方や先日亡くなった桂千穂さん、何度も自作シナリオを読んで感想を送ってくださった小滝光郎さんなどとともに、長谷川さんも師匠の一人には違いない。

さて、その長谷川監督から私がどういう教えを受けたかというと、、、

「君のシナリオでは主人公がウロウロする様が描かれていない。もっと主人公のウロウロを客観的に突き放して書けば人間の可笑しみや哀しみが出るはずなんだ」

だから、『蛇淫』をどう脚色するとか、主人公がウロウロする原因の無花果にどういう意味があるかとか、誰を殺すとか、そういうことはほとんど些末なことだったんじゃないか。

現実の犯人が両親を殺した、それなら親殺しでいいじゃないか。女を殺してたのならそれでいい。とにかく俺は主人公のウロウロを撮りたいんだ。

長谷川さんがほんとにそう思ったかどうかは定かではありませんが、できあがった映画の水谷豊のウロウロぶりは半端ではありません。ここまで主人公がうろうろする様を克明に丹念に追っていった映画はそうないんじゃないでしょうか。映画全編が主人公のウロウロなのです。

両親を殺すのにもあれやこれやがあって、死体の始末をしようにも二人分の始末は大変で、スナックに戻って女を抱こうとしたら旧友が訪ねてきて水を差され、首尾よく死体を始末するも無花果の件で途方に暮れてしまい、警察官にすべてを告白するも信用してもらえず、スナックに放火してついに永遠にうろうろすることが暗示されて映画は幕を閉じます。

実際の犯人は捕まったようですが、映画では生き地獄を味わわされるかのごとく捕まえてすらくれません。どこまでもおまえはウロウロせよ、ウロウロしなければ主人公の資格はないよ。

という長谷川和彦監督のサングラスの奥の冷徹な目が言っているかのようでした。次作『太陽を盗んだ男』でも主人公は最後までウロウロしてましたっけ。

見事な傑作です。もうそろそろ新作見たいんですがね。どうでしょうか。



青春の殺人者
桃井かおり
2013-11-26





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