連続ドラマ

2021年04月24日

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「君たちは特別なんだ。もっと迷惑をかけていい。いや、迷惑をかけなければならない」

という40年前の名言がいまだに新しい『男たちの旅路』最終話「車輪の一歩」。

この作品のテーマやメッセージ、鶴田浩二の口から語られる独自の思想の素晴らしさ、はたまた強固きわまりない脚本構成についてはいまさら私が語るまでもないと思うので何も言いません。

今回見直して考えたのは「人間にとって神とは何か」ということです。


神が人間を作ったのではなく……
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先日、職場の人との昼食でこんなことを言いました。

「歳をとればとるほど知的好奇心が強くなるけど、この世の事柄で一番興味があるのは今も昔も宗教ですね」

みな口あんぐりと意外な顔をして「どうして?」と訊いてきました。やはり「宗教」というとオウムなどの怪しげな新興宗教をイメージする人がいまだに多いんでしょう。

世界中のどの宗教でも「神がこの世を造った。神が人間を造った」ということになっていますが、あれは完全なウソですよね。

「人間が神を造った」んでしょう? でもその架空の存在であるはずの神が我々を造ったと逆さまの話になっている。でも、そういう逆さまの作り話を信じ込まないと我々人間は生きていけないみたいなんですね。でも、それはなぜなんだろう、というところに非常なる興味があるわけです。


ある官公庁で……
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以前、ある官公庁でデータ入力の仕事をしていたんですが、そこでの入力規則が笑えるものでした。

住所に「○○町1丁目1ー1」と書いてあれば「○○町 1-1-1」と入力しないといけないんですが、ここには3つもの入力規則があります。

①町名と次の数字との間には必ずスペースを入力する。
②数字はすべて半角で入力する。
③〇丁目の丁目はすべて省略し、数字のみ入力する。

笑えませんか? だって、仮に「○○町1-1-1」と入力したって郵便物は届くんですよ。なのにルール通りでないと訂正入力票というほとんど罰ゲームのような始末書を書かねばならなかった。自分たちが作った規則に自分たちが縛られている状態でした。誰もアホみたいな入力規則を疑っていなかった。


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これって神の言葉と同じですよね。神は人間が造ったのだから神の言葉も人間が造ったものです。自分たちが造った言葉に縛られている。神を信じないと生きていけない我々は、神の言葉を疑うことを知らない。


ルールを破れ
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他人様に迷惑をかけてはいけないという暗黙のルールを疑っていなかった鶴田浩二や斉藤洋介、斉藤とも子もまったく同じです。

鶴田浩二は斉藤洋介に言います。

「私はこれまで他人様に迷惑をかけてはいけないというルールを疑ったことは一度もなかった。ひょっとすると、この世で一番疑われていないルールかもしれない。しかしそれが君たちを縛っている」

ルールを破れ、破る勇気をもて、君たちは破っていいんだ、と鶴田浩二は持ち前の説得力で語りかけます。

神の言うことなど気にするなと。キリスト教徒なら聖書に書いてあることを、イスラム教徒ならコーランに書いてあることを破れというのです。破らなければいけないときがあると。

これはもちろん神を冒瀆する言葉でもなければ無神論者のたわごとでもありません。あの吉岡司令補がじっくり考えた末の「自分でも意外な結論」なのです。

鶴田浩二は自分たち健常者は他人様に迷惑をかけてはいけないといまでも頑なに信じている。そういう意味では彼はとても敬虔な信者です。でも、神の言葉を破っていい場合があるとも言っている。そしてそれが誰の目にも盲点だった。なぜなら誰もが敬虔な信者だったからです。

あの馬鹿げた入力規則について私は上司に言いました。「ルール通り入れなくても郵便物は届きますよね?」。

恥ずかしながら私は吉岡司令補ほどの説得力も人徳もなかったので誰も聞く耳をもってくれませんでしたが、しかし誰かが「ルールを破れ」と言わなくてはいけないときがある。

だから、この「車輪の一歩」は前話「影の領域」と対になっているとも言えますね。「影の領域」では梅宮辰夫が会社のためにと法を破りましたが、鶴田浩二は破っていい場合ではないと梅宮辰夫を異端審問にかけた。が、「車輪の一歩」では鶴田浩二が自分自身と周囲の全員を異端審問にかけている。

埼玉県で、エスカレーターでの歩行を禁じる条例ができました。「エスカレーターの片側を空けなくてはいけない」というのもひとつの宗教でしたから、これも「神の言葉を疑え」「新しい神の言葉を造ろう」という動きですね。いままでの自分たち自身を異端審問にかけたわけです。

神が人間を造ったということになってはいるけど、ときどきは「ほんとは人間が神を造った」という事実を思い出す契機として「車輪の一歩」をこれからも見続けたいと思います。

しかし、それほどややこしい「神」という存在がなぜ人間には必要なのか。ますますわからなくなってきました。


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2021年03月26日

ついに最終回を迎えた『おじさまと猫』。以前書いた感想では「ある危惧がある」と書きましたが、杞憂に終わってくれましたね。


前回までの記事
『おじさまと猫』に怒り心頭!(去勢・避妊手術について思うこと)
『おじさまと猫』にボロ泣き!(浜田信也という素晴らしい役者さん)


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ある危惧というのは、草刈正雄が心の傷のためにピアニストとして舞台に立てないということでした。正確には、再び舞台に立てるかどうかが問題になっていることでした。

もしかすると、ふくまるによって心を癒された草刈正雄がピアニストとして復活するエンディングが描かれるのではないか。

それでいいじゃないか。という声が聞こえてきそうですが、私はそれは一番やってはいけないことだと思います。

なぜなら、それはナチスの優生思想と同じだからです。

ふくまるのおかげで立ち直れた。それは美談のようでいて、ふくまるを人間が幸せになるための「手段」としてしか捉えていません。

カントの有名な定言命法に、

「汝の他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」

というのがあります。

ふくまるを手段としてのみならず同時に目的として扱わなければ『おじさまと猫』はナチスと同じ汚れた作品に堕してしまいます。

なぜなら、手段として扱えば、それは人間の役に立つペットだけがペットであるということになってしまうからです。何の役にも立たない障害者を片っ端から虐殺していたナチスと何も変わらない。


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確かに、主人公・草刈正雄はピアニストとして復活しました。

でもそれはふくまるではなく周囲の人間のおかげですよね。そりゃふくまるがもたらした縁ではありますが、それでもふくまるが草刈正雄を救ったわけでは少しもありません。

逆に、前回描かれたのは飼い主をとことん心配させる厄介者としてのふくまるでした。


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行方不明になり、みんなで探してやっとのことで見つかったときは死にかけで、何とか復活しましたが、ふくまるは人間の役に立ってないどころか迷惑と心配ばかりかけています。ここが素晴らしい。

前回感想を書いた第9話で、ふくまるが流れ星に「パパさんへの願い」をかけるシーンがありました。あれはないほうがよかったかな、と思います。とことん自分勝手で手のかかる存在として描いてほしかった。だって犬や猫なんて自分のことしか考えていませんよ。うちの犬を見ていればわかります。

だから升毅の言う「ペットは飼い主の荷物を背負ってくれるんだ」というのにも同意できません。そんなのは人間の勝手な幻想です。

大事なのは、この幻想をおそらく草刈正雄はもっていないことです。迷惑ばかりかけて、心配ばかりかけて、とにかく手がかかってしょうがないけど、でもふくまるに出逢えてよかった、とおそらく思っている。

役に立つからいとおしいのではない。何の役にも立たないけどいとおしい。

思えば、ふくまるは「人間の役に立つために生み出された猫」でした。ペットショップで売られている犬や猫はブリーダーを儲けさせるために産まれ、そして売られます。

が、ふくまるは売れ残っていた。役に立たない猫は殺される運命。そこを草刈正雄が拾ったのです。もしかするとあれは草刈正雄だから可能だった邂逅なのかもしれません。

ピアニストとして役立たずになった男と、ブリーダーの儲けに役立たなかった猫だからこその出逢い。


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役になんか立たなくていい。そばにいてくれればいい。

心が洗われる素晴らしい作品をどうもありがとうございました。










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