政治思想

2020年12月09日

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今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日ですが、毎年12月といえばNHKのBSプレミアムで忠臣蔵映画が2本とか3本とか放送されるのに何で1本もないんだろう」と不思議だったんです。

が、このたび内田樹先生の『街場の天皇論』を読んで合点がいきました。


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先日、今上天皇の退位の日が再来年の4月30日に決定しました。
去年の夏に、退位のご意向という「お言葉」を発せられてから政府は有識者会議を開いていつにするか模索していたようですが、約1年半かけてようやく決まったんですね。

『街場の天皇論』には非常に面白い記述が出てきます。

『忠臣蔵』は映画だけでもさまざまなバリエーションがあって、もとは『仮名手本忠臣蔵』という歌舞伎ですし、普通の芝居でも忠臣蔵はたくさんあります。テレビドラマもある。

バージョンによってそれぞれ物語全体のある部分をカットしたりキャラクターを変えたりしているそうです。堀部安兵衛の性格がぜんぜん違ったり、もとはといえば『仮名手本忠臣蔵』には安兵衛は出てこないらしい。知らなかった!

で、どこをカットするかはもちろん、それぞれの作者たちに任されているわけですが、「松の廊下」をカットしているものもあれば「赤穂城明け渡し」をカットしていたり、信じられないことにクライマックスというべき「討ち入り」をカットしているものさえあるらしいです。これも目からウロコ。それじゃあ『忠臣蔵』じゃないじゃん! と一瞬思いますが、忠臣蔵を忠臣蔵たらしめているのは別の場面らしいのです。

どんなバージョンでも絶対にカットされない場面というのがあって、それは何と「大石内蔵助が京都の茶屋で遊興に耽るシーン」なんだそうです。

そういえば、中学の時分に学校で見に行った先代・片岡仁左衛門の『仮名手本忠臣蔵』はまさにこの京都で遊興に耽る内蔵助を描いた一場でした。

何でこんな本筋と関係ないところを、と不満に思ってほとんど寝てしまいましたが、実は『忠臣蔵』の要だったんですね。30年目の真実。

なぜカットされないかというと、この遊興の場面というのは、討ち入りの意志があることを吉良家や幕府に知られないように、内蔵助が「敵を欺くにはまず味方から」ということで遊び呆けて、確か部下の浪士たちから叱責される場面もあったんじゃないかしら。寝ながらたまにチラチラ見ていた舞台上では確かそんな場面が演じられていたような……?

内田先生の卓見を引用しますと、

「『忠臣蔵』というのは不安のドラマなのである。大石という仇討プロジェクトの総指揮者であり、資源と情報を独占して浪士たちの生殺与奪の権を握っている人物が本当のところ何を考えているのか、まったくわからない」

「本当に討ち入りはあるのかという同志たちの猜疑心、討ち入りはいつなのかと怯える吉良家、切腹という公式の裁定に対してテロリズムに訴えられる幕府の不安、血なまぐさいスペクタクルを期待している大衆の苛立ち」

「このような『いったいどっちなのか、やるとしたらいつなのか』という不安がぎりぎりのどころまで高められたうえで『いざ!』と大石が号令をかけるとき、この過度に引き延ばされた非決定状態は劇的な形で解決される」

「全権を握っている人間が何を考えているかわからないとき、日本人は終わりのない不安のうちに様々な解釈を試みる。そのときに日本人の知性的・身体的なセンサーは最大化し、想像力はその限界まで突き進む。中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するよう日本人の集団が力動的に構成されている

中心が虚であるとき……
全権を握っている人間が何を考えているかわからないとき……

もうおわかりですよね。

日本の中心に位置するのはこの人以外にありえません。



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そして、この人の「生前退位の意向」なるものが「本当は何を考えているかわからない」という状態を生み出したのは、我々一人一人もその渦に巻き込まれたのだからわかりますよね。「いったいあのお言葉の真意はどこにあるのか」と侃侃諤諤の議論が展開されました。

天皇には、安倍某がやろうとしている改憲を少しでも引き延ばそうという意図がある、という内田先生と同じ見解を私ももっていますし、「ただもうしんどくなっただけなんじゃないの?」という解釈だって成り立ちます。(違うと思うけど)

しかしながら、この国を大日本帝国へ戻そうとしている安倍政権は、「天皇」という神輿を利用して全権掌握しようとしているのだから、『仁義なき戦い』のように「ただの神輿のくせに」みたいなことは言えません。そんなことを言ったら神輿を担ぐ資格を剥奪されてしまいます。だから1年半もかけて退位の日程を決めないといけなかった。

だから、中心という虚が何を考えているのか、と日本中が騒いだあの頃を安倍某は思い出したくないのでしょう。

神輿に意思などあってはならないと考える安倍某は意思を表明した天皇にかなり苛立ったと言われていますが、大本営と化したNHKはそこのところを忖度し、忠臣蔵映画を放映しないんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

(しかし、忠臣蔵のクライマックスが大石が「いざ!」と討ち入り決行を宣言する場面だったとは。だから討ち入りそのものはカットしても成り立つんですね。そこでもう問題のすべてが解決してしまっているから。なるほど)


街場の天皇論
内田 樹
東洋経済新報社
2017-10-06





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2020年07月24日

雨宮処凛さんの編著による『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)を読みました。

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2016年に起きた相模原市にある障害者施設「津久井やまゆり園」で19人もの障害者が殺された事件。

犯人は植松聖という、何とその施設の元職員。いったいなぜ??? とはてなマークと憤りが渦巻いてもう4年になります。

雨宮処凛さんが実際の障害者や精神科医と対談したこの本は、決して植松をモンスターとして社会から排除しようとはせず、逆に社会から排除されたのはなぜか、排除されたように思いこんだのはなぜか、その深層にグローバリズムの視点から斬り込んでいきます。


世界経済活性化のために
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植松の犯行の動機は、当時ニュースでもさんざん言われてましたが、

「障害者をもつ親のために」というものでした。障害者の子どもをもった人の負担を減らしてあげたのだと。そして、障害者は何の役にも立たないから殺してもいいのだと。

また、彼はこうも言いました。

「世界経済活性化のため」「日本国の借金をこれ以上増やさないため」

つまり、「生産性」のない人間を亡きものにし、「生産性」をもつ人間だけで経済を回せば日本の借金は減り世界経済が活性化すると。

2004年のイラク人質事件で「自己責任」という言葉が罷り通るようになりました。「おまえたちのせいで税金が使われた」という声があがりました。


神聖なる「税金」
税金といえば、生活保護費は税金から出ていますが、何といま「生活保護を受けるくらいなら自殺する」「税金の世話になってまで生きていようと思わない」と平気で言う人間が増えているとか。

何か「税金」というものを「自分たちのもの」と思いすぎですよね。そりゃ私たちが払った血税なんですけど、それはやはり社会的弱者から優先的に使われねばならないのに、「自分たちの金が使われた」という感覚に陥るというのは解せない。それならまず、自分たちから税という形で収奪している国家を糾弾せねばならないはずなのに、それはせず、逆に為政者の望みそうなことを勝手に推測して実行する「忖度する悪漢」が跋扈している。その最たるものが植松ではないか。ハンナ・アーレントはアイヒマンのことを「凡庸な悪」と総括したが、もしアーレントが植松を観察したらどのように総括するだろうか。

税金の話に戻すと、私もできれば自分の食い扶持は自分で稼いでいきたいと思うけれど、病気になったり障害を負ったらそれができなくなるわけですよね。それでも税金の世話になりたくないというのは想像力の欠如か、あるいは、我々現代日本人が幼少の頃から内面化させられている「他人に迷惑をかけてはいけない」というほとんど「信仰」に近いものが根底にあるからでしょう。

「他人に迷惑をかけるな」と同時に日本人が刷り込まれている価値観に「社会の役に立て」というものがあります。「数学を勉強して何の役に立つのか」と平気で言う子どもが増えているのもそのせいでしょう。

おそらく、植松や植松に共感する人たちは、社会の役に立つ人間は税金を納めることのできる者のことで、納めた者にだけ還元されないとおかしいと考えているのでしょう。俺たちが納めた税金をなぜ納められない人間が横取りするのか、ということだと思う。

そこから一歩か二歩進めれば、役に立たない障害者は殺してもいい、となる。そこまで行かずとも、役に立たない障害者を税金で食わせてやるのは無駄遣いという間違った思想につながっていく。(しかし、彼自身がいまは税金で生かされているという事実をどう考えているのだろうか?

この社会が数十年かけて生み出したのが植松聖というモンスターだというのがこの本の論旨ですが、上述の日本だけの事情だけでなく、先述のとおり、グローバリズムの視点を盛り込んでいるところが素晴らしい。


トランプ
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植松はトランプが大統領になったことに感激したという。

「あれだけ本音をどんどんいう人間はかっこいい」と思ったそうな。下品なだけなのに。


本音と本心は違う
しかしながら、「本音」と「本心」は違う、という話がこの本には出てきます。

「本音と本心は違う。「ぶっちゃけ……」と本音を語っているつもりが、どこかからのコピペであることが多い。その人自身の体験にしか裏付けられていない特別な話なのに共感せざるをえない、それが本心」

だそうですが、ヘイトスピーチなんかも自身の体験に少しも裏づけられていませんよね。2年ほど前に駅前でヘイトスピーチを実際に見ました。というか、ヘイトスピーチをやめましょうという演説に対し、「ヘイトの定義を言ってみろ!」などと罵詈雑言を浴びせていました。

「ヘイトの定義を言ってみろ!」というのは、おそらくネットとか誰か他人の言葉をそのまま口にしてるだけなんでしょうね。それを口にすれば相手が押し黙るのを「成果」として知っている。本人は勝ったつもりなんだろうけど、こちらの心には何も響いてこない。


障害者自身の内なる優生思想
ヘイトといえば、障害者自身が自らの障害をヘイトするようなことがあるらしい。

自分と同じ障害をもつ異性を好きになれない。自分の身体を醜いと思う。

植松自身も整形手術を繰り返したり犯行前に正装した自撮り写真をツイッターにアップしていたそうな。自分が嫌いだ、自分を肯定できないという感情に依存している、それはセルフネグレクト、もしくはセルフヘイトと言っていい、と本書で語られています。

「あなたはもしかすると、自分は役に立たない人間だと思っていたのではないですか」

と面会した人は訊いたそうな。

植松は教師になることに挫折し、しかも自分のせいで教職を追われることになった父親に対し申し訳なく思っているという。でも障害者を大量殺害したことで「役に立てた」と本気で思っている。

私がこの本で一番興味深いと思ったのは、ナチスの優生思想に共感を示す植松に対し「殴ってでもそこから救い出そうとした友人がいた」ということです。

殴ってでも、というのは本当の友人ですよね。生涯の親友になれたかもしれない。でも彼の言葉は植松には届かなかった。

「植松は自分の声すら聞き取ることができなかったんじゃないか」という一節がありましたが、激しく同感!


悦楽人・植松聖
「外にいたときの楽しみは?」と訊かれた植松は、

「おいしいものを食べること、大麻を吸うこと、そしてセックス」

と答えたそうな。もう死ぬまでその三つは無理だね、というと、それでいいと思っていると答えたとか。三大快楽を捨ててでも世界経済活性化のために、日本経済救済のために大量殺人を犯したというのだから、やはりこんな奴はモンスターとしてさっさと処刑すべきではないか、と思ってしまう。

でもそれは早計なんですよね。我々みんなが自らのうちに巣食う「内なる植松」の声に耳をすませなければ。


誰でも「障害者」になりうる
これは誰でもいつ何時、事故に遭遇して障害を負うかわからないという意味ではなく、「障害」というものの定義から来ます。引用してみましょう。

「障害とは、社会と個人の間のミスマッチが生み出すもの。社会構造の急速な変化によって定義上『障害者』にカテゴライズされる人が増えているのではないか。身体上は健常者でも社会モデル的には障害者と呼べるのではないか」

私もこの歳で非正規雇用者だし、社会的にはかなり弱者だと思う。(でも幸福感に包まれていますがね。幸せはカネでは買えんのだよ。おほほ)

でも現在は社会モデル的という意味でも「障害者」ではないと思うけど、この先、社会構造のさらなる変化で「障害者」になる可能性は充分ある。

が、この「社会モデル上の障害者」が何を意味するかは難しい。

まさか役に立たない人、税金を納める人のことじゃないでしょう? それでは植松と同根になってしまう。

おそらくここでいう新たな障害者とは植松自身のことを言っているような気がします。

別の人はこう言います。

「植松個人の成育歴や精神状態を調べると同時に、グローバルな現象の一端として考える必要がある。そのときのキーワードは「剥奪感」と「孤独」。単に雇用や権利だけの問題ではなく、自分が生きる意味とか自分が自分である根拠みたいなものまで失われているという剥奪感」

かつて酒鬼薔薇聖斗と自称した少年は犯行声明に「透明な存在の私」みたいなことを書いた。あれと似たようなものかな。

自分が自分である根拠を失う、という感覚が私にはわからない。

わからないといえば、私は自殺未遂者だけれど、中1のとき誰かが自殺したというニュースを見て、親に「自殺する人の気持ちが少しもわからない」と言った記憶がある。それから数年もたたないうちに自殺願望を有するようになるのだけど、友人たちは「死にたい」という気持ちがわからないという。そのとき、私はどうしようもない「孤独感」に苛まれる。

だから、社会構造の変化によって私自身が植松のような大量殺人犯になる可能性はある。

でも、その可能性はかぎりなく低いとも思う。

なぜなら、先述したように「社会的弱者には違いないが幸福感に包まれている」から。

私は自分自身が好きなのである。自分を肯定しているのである。自分が自分である根拠をもっているのである。


笑顔
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結局、「笑顔でいること」「いつも朗らかでいること」が大事なのではあるまいか。

楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ。とは心理学の常識らしいですが、何があっても笑顔を絶やさずにいれば、自分が自分である根拠を見失わずにすむし、孤独感にさいなまれることもない。

結論はいたって単純でつまらないものになりましたが、「不寛容」の対義語は「寛容」、そしてそれは「笑顔を忘れない」ことだと思います。笑顔でいれば「世界経済活性化のために」なんてパラノイア的なことは決して考えないでしょうから。








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2019年05月03日

平成から令和へ移行するとき、いい機会だからと赤坂憲雄さんの『象徴天皇という物語』という本を読んでいました。別に天皇の退位・即位とは関係なく、職場で「あ、これって天皇制だな」と思う出来事があったからです。その日の帰り、本屋に寄るとこの本を見つけたので購入しました。

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はっきり言って、この本は私にはあまりに難しくてついていけませんでした。著者自身が「この頃の私が書く本はすべてわかりにくい」とあとがきに書いていますが、それならわかりやすく書き直してから文庫にしてよ! と思うものの、この本がきっかけである文章を読み直せたのだから良しとしましょう。この本で最初に引用される、坂口安吾の『堕落論』です。


天皇を利用する国民
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ずっと前に読んでから一度読み返しただけなので完全に忘れてましたが、安吾は敗戦に際して書いたこの随想の中で、「天皇制」を激しく攻撃しています。

「藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何がゆえに彼ら自身が最高の主権を握らなかったか。それは、彼らが自ら主権を握るよりも天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまず真っ先にその号令に服従してみせることによって号令がさらによく行き渡ることを心得ていた」

「藤原氏の昔から、最も天皇を冒瀆する者が最も天皇を崇拝していた。彼らは真に骨の髄から天皇を盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒瀆のかぎりを尽くしていた」

そして安吾の舌鋒はそのまま日本国民に襲い掛かります。

「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、他ならぬ陛下の命令だから忍びがたいけれど忍んで負けよう、という。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
 われら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ち向かい、土人形のごとくバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまた情けない歴史的大欺瞞ではないか」


天皇制という政治形態がどういうものかは日本人なら誰でも知っていましょう。時の権力者はみな天皇を「玉」として担ぎ上げ、自らの権力を正当化してきました。

しかし安吾は、それは権力者だけが天皇を利用してきたのではなく、我々国民もそうだったのだと看破していました。


職場の天皇
いまの職場にも「天皇」がいます。何の力もなく、ただのお飾りにすぎないという意味もあるけれど、「利用される玉」として。

その人物を仮にZ氏としましょう。そしてZ氏が使い物にならないからと会社が新たに雇ったのがY氏。Y氏は立場としては私たちより上だけれど一番の後輩。だからまずみんながやっていることを憶えないといけないのに憶えようとせず、会社から仕事のやり方を変えるよう指示を受けているとかで、ずっと以前からのやり方を変えようとする。実際、先週やり方が変わりました。なぜ入ってきたばかりの輩が、しかも仕事を憶えようともせず、憶えてないのだからこれまでのやり方の良し悪しもわからない輩が出しゃばるのか! と休憩時間は愚痴合戦で、そこにY氏が入ってきてまたもビッグマウスぶりを発揮するので、我慢ならなくなった私は、

「まず仕事を憶えるところから始めたらどうですか。仕事を憶えようともしない人間が変えようとしたって誰もついてきませんよ」と言いました。すると、Y氏は、

「私はZ氏の了解を取ってやり方を変えただけだ」

と言いました。なるほどね、Z氏という後ろ盾を利用して権勢をふるおうというわけか。まさに藤原氏や将軍家と同じですね。

そこからさらに言い合いがあったんですけど、Y氏はZ氏だけでなく「会社」という後ろ盾も利用する。何かほんとに日本の政治家みたい。

だって、

会社-Z氏-Y氏
アメリカ-天皇-政府


この二つは構造的にまったく同じじゃないですか。天皇という隠れ蓑だけでは足りなくなるとアメリカをもちだしてくる。


私の心の中の天皇制
というわけで『象徴天皇という物語』という本を読んでみたんですが、そこから安吾の『堕落論』『続堕落論』を読んでみると、これは厄介な問題だなと思ったんです。

だって、Y氏だって会社では力をもった人ですけど、会社を出たら安吾が攻撃した一般大衆と同じ名もなき人。安吾は、冒瀆しながら同時に崇拝するというアクロバットなやり方をやめて、厭なものは厭といい、好きなものを好きといおう。それは「堕落」には違いないけれど、そういう堕落からしか日本の再生はありえない。天皇制がある以上、日本の再生はありえないと論をまとめるんですが、悲しい哉、安吾の主張もむなしく、天皇制は平成から令和となった現代にも息づいています。

それは当然のことながら、この人たちが存在するという意味ではありません。


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日本国憲法に書かれた象徴天皇という意味ではなく、天皇制という思想が深く日本人の心に内面化されているということ。

天皇制とは権力の二重構造を利用した「正当化」「責任逃れ」のカラクリのことです。Y氏を批判する私の心にもおそらくそのような、言葉の真の意味で堕落した心性が巣食っているはずなのです。

まず、そういうところを自覚するところから始めないと、天皇制を存続するにしても廃止するにしてもいずれの議論も無意味に帰す気がします。もし天皇制を廃止したとして、私たち日本人はそのような状態に耐えられるのか。耐えがたきを耐えられたのは天皇の命令があったからなんですがね。

日本国憲法には「天皇は日本国の象徴=シンボル」と書かれています。が、おそらく本当は「天皇が日本国の象徴」なのではなく「天皇制が日本国民の象徴」なのだと思います。(つづく)


続きの記事
職場の面白い人と弟子がほしいと思う件


堕落論 (280円文庫)
坂口安吾
角川春樹事務所
2011-04-15





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