小説

2021年01月09日

前回までの記事
小説を書き始めました、三作目(女子高生の胸キュン?)
三作目の小説が順調に進んでいます(女子高生は誰と出逢うのか)


順調に進んでいると言っていた小説の三作目。このところ止まっていました。

というのも、一人称で書くべきか三人称で書くべきか、少しもわからなくなってきたからです。

私はもともと脚本家を目指していたので、映画は三人称しかありえないから三人称でしか書いたことがありませんでした。でもいつか小説を書くことがあったらそのときは永遠の憧れである一人称で書こうと思っていたんです。

それがまぁ良くも悪くも実現したのが3年前の人生初の小説で、あれは二人称でしたが、本質的には一人称でした。そして昨年、二作目の小説は普通の一人称で。

だから今回のアイデアを思いついたときも一人称で書くのかなぁ、という漠然とした思いしかなく、つまり一人称で書くべきだという確固たる信念がなかったんですよね。

こないだ感想を書いた桐野夏生さんの『日没』は一人称でしたが、あれは、いきなり拉致監禁された主人公が自分がどうなるかわからない、周りの言っていることが本当かどうか皆目わからない、という世界を描いているので、一人称が最適でしょう。

他人が書いた作品の「一人称で書いた理由」「三人称で書かれた理由」はわかるんですが、自分が書こうと思っている題材にふさわしいのがどちらかとなると、これがまったくわからない。

職場の同僚さんにそれを言うと、

「それはまだアイデアが膨らんでいないからではないか」

と言われました。昔の私なら激昂していたでしょうね。その人は「私は書いたことがないけど」と前置きしていましたが、「書いたこともないくせに」と怒りの言葉を投げかけていたことでしょう。

自分は書ける人間である。という優等生意識があったのでした。書いたことにない人間、書けないと悲鳴を上げる人間を見下していました。

しかし、東京のある高名な脚本家にその鼻っ柱を折られたのがもう7年近く前。

「もっと謙虚にならなきゃ」

そう言われてそれでも天狗意識が抜けきらなかった私は都落ちを余儀なくされましたが、いまはもうそのような不届き千万な態度はあまり出ません。あまり、ということは、少しはあるということですけど。

でも「アイデアが膨らんでいないからではないか」という意見に対し、「いやいや、アイデアが膨らんできたからわからなくなったんだよ」と思いこそすれ、まったくこいつは書いたこともないくせに! という傲慢な気持ちは少しも湧き上がってきませんでした。あ、そういう見方もあるのか、と。

しかし、帰宅してよくよく考えるに、やはりアイデアが膨らんでいないとは露とも思えず、やはり、アイデアというか、主人公しか明確でなかったのに、周囲のいろんなキャラクターが膨らんできたから、主人公の目線だけで書く一人称ではなく、全員を客観的に描く三人称のほうが適当なのではないか、と思い始めたわけです。

その同僚さんはこうも言いました。

「とりあえずどちらかで書いてみて、ダメなら別の方法でやるとか」

うーん、そういう見切り発車はよけい時間がかかるからダメなのだよ。と思いこそすれ、わかっちゃいない! と腹を立てることはなくなりました。

太宰治の『女生徒』に対する憧れもあって、若い女性の一人称で書きたい気持ちは最初からあるんですが、作者の欲望など作品にとってはどうでもいいことで、ただ題材にふさわしい文体は何か、という観点で考えないといけないわけですけど、答えが見つからない。

と思っていたら、当初一人称で書くならこの書き出しで、と思っていた一文をはるかにしのぐ書き出しを思いついてしまったのでした。

先日、パトリシア・ハイスミスの『ヴェネツィアで消えた男』を読んだとき、解説で「私は状況や人物の説明より、具体的な行動から書き始めるのが好きだ」というハイスミスの言葉が紹介されていて、その瞬間に「見えた」のでした。ハイスミスは主人公ほかキャラクターを徹底して冷徹に見つめる三人称の文体でしか書いたことないはずですが、私はやはり一人称への憧れからか、主人公の目線で主人公の行動を描く書き出しがひらめいた。

本当にその書き出しでいいのかどうか。本当に一人称で書いていいのかどうか。三人称のほうがよくないか。

という疑問はあるものの、もうその書き出ししかありえない感じになってきたので、とりあえずその書き出しで書いてみようと思います。ダメならそのときは三人称で書き直すということで。

というわけで、同僚さんの言葉に従った形になったのでした。素人の意見はだから侮れない。少しは謙虚になれたでしょうか。


創作の極意と掟 (講談社文庫)
筒井 康隆
講談社
2017-07-14




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2021年01月06日

桐野夏生さんの新作『日没』を読みました。桐野さんの作品を読むのは『ナニカアル』以来だと思うので、もう10年以上ぶりになるんですね。毎日新聞の書評欄「今年の三冊」で複数の票を集めていたとかで読んでみました。


nitibotu

効果的な一人称
マッツ夢井という作家のもとに、「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」(通称ブンリン)というところから召喚状が来るところから物語は幕を開けます。

ただならぬ気配を読み取ったマッツ夢井は指定されたところへ赴きますが、もとは結核のサナトリウムだったところに連れていかれ、「更生」に励んでほしいと言われる。いや、正確には更生するまで出られないと告げられます。

マッツの作品は興味本位でレイプを扱ったり変態性欲を書いたりしているので読者から通報があった。それでブンリンが動いたと。前年にそういう法律ができた、コンプライアンスを徹底してもらいたいと言われるのだけど、新聞を読まないいまどきの作家であるマッツ夢井にはそれが本当かどうかわからない。

ここらへん、一人称で書かれている効果が如実に出てますよね。国家公務員と称するブンリン側が本当のことを言っているのか、それとも一部の狂信的な人間たちが私刑を行っているのか、マッツ夢井にも我々読者にもわからない。

主人公が知っている情報量と読者が知っている情報量が常にイコールで結ばれています。一人称で書く最大の利点はこういうところですよね。


「正しい小説」とは何か
最後のほうでマッツ夢井は転向するから拘束衣だけは勘弁してほしいと言います。ここらへんのマッツの感情の変化がよくわかりませんでした。転向するというわりには反抗的だし、反抗的なわりには拘束衣と聞いただけで転向すると懇願して土下座も厭わないマッツの目まぐるしい心の変化についていけなかった。しかし、追いつめられた人間の感情ってあんなふうに起伏の激しいものなのかもしれません。

あそこのシーンで大事なのは、「あなたが書いているのは良い小説ですか、悪い小説ですか」という院長・多田の言葉ですね。

ブンリンにとって、作品はコンテンツ(ほんといやな言葉)であり、コンテンツには良いか悪いかしかない。あるいは正しいか正しくないか。普通なら「面白いか面白くないか」でしょう? それを権力者は良いか悪いか、正しいか正しくないかという価値基準で測ろうとする。

マッツ夢井は「あなたの良い小説の定義は?」と訊かれ「自分に正直な小説です」と答える。「読者の側には立っていないということですね」との誘導尋問に「その通り」と居直る。「私たちは自分の書きたいことしか考えていません。それが読者の心を打つかどうかなんて関係ない。まずは自分が書くことに心を打たれないと」という正論を述べます。

ここはマッツ夢井というより桐野夏生という作家の本音なんでしょうね。「まず書いている自分が心を打たれるべきだ。それが他人の心を打つかどうかなんてわからない」と。

確かにそうですね。自分が面白いと思えないものを他人が面白がるはずがないし、とはいえ、自分が面白いと思っても他人も面白がるとはかぎらない。そこに乖離が生じたら売れないし食っていけない。

「たまたま私の場合は、自分が面白がったものが世間の大勢が面白がってくれただけ。運がよかった」という桐野さんの謙虚な言葉にも読めます。


読者におもねってはいけない
マッツ夢井は「母のカレーライス」という駄文を書きますが、ブンリン側は「正しいことが書かれている。もっとこういうのを書いてほしい」と喜びます。

しかし作家は国家権力はおろか、一般読者にすらおもねってはいけないと桐野さんは信じているのでしょうね。私もそう。まずは自分が面白いと思えるかが大事。自分だけが面白いと思っているだけかもしれない駄文を書く自由、出版する自由を奪われたら、読者におもねったことしか書けないし、いま実際にネット空間ではそうなってきています。

ツイッター界隈では世間一般の常識と違うことを書きこむとすぐに炎上するし、炎上させようと有名人の投稿を待っている人がいる。炎上が怖くて最初から「こういうことを書くのはよそう」と無意識に自己検閲している人も少なくないと思います。

かくいう私も少しはそういう「心のブレーキ」をかけているかもしれない。

でも、それはやっぱりだめなことだと思う。そのようなブレーキは作家の矜持を自ら捨て去ることに等しい。


綺麗事だけじゃないよ
世間はきれいごとが大好きですが、その傾向は年を追うごとに強くなっています。夫婦や家族の問題でしかない不倫があそこまで世間の耳目を集めるのは、きれいごとを重んじる人たちがどんどん増加していることの何よりの証左でしょう。

「ありとあらゆる人の苦しみを描くのが小説なんだから、綺麗事だけじゃないよ」

とマッツ夢井は、いや、桐野夏生は言います。

きれいごとを描く小説や映画があってもいい。でも、それだけじゃつまらない。

正しいだけが人生じゃない。

面白ければいいじゃないか、とヒッチコックは言った。


日没
桐野 夏生
岩波書店
2020-09-30




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2020年12月20日

ちょいと前に三作目の小説に着手したと書きましたが、仕事を最優先にしているため(何せ最近は体調不良で休むことが多かったので)三日に一回くらいしかノートに向かっていませんが、それでもなかなか順調に進んでいます。


前回の記事
小説を書き始めました、三作目(女子高生の胸キュン?) 


こないだ、職場で前作を読んでくれた人に、実は先月の終わりごろから新しい作品に着手したのだ、でへへ、なんて話をしたら、「何系?」と聞かれたので、「胸キュン系」と答えたら、ケタケタケタと笑われてしまいました。おまえに書けるんかい、お手並み拝見しようじゃないのさ、みたいな感じで「楽しみにしております!」と言われた。くそぉ、バカにしやがって!!

でもね、「胸キュン」と聞いて普通の人が思い浮かべるのとはちょいと違うんですよね。まぁ胸キュンは胸キュンなんですけど。

蓮實重彦がかつて、

「映画とはつまるところ人と人が出逢うことだ」

と言っていました。

ロッキーはアポロと出逢う。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主人公は若き日の自分の両親と出逢う。
『ローマの休日』ではオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックが出逢うし、『サイコ』ではノーマン・ベイツとジャネット・リーとの出逢いがすべての始まりでした。

え、『ロッキー』はロッキーとエイドリアンとの出逢いじゃないの? という声が聞こえてきそうですが、エイドリアンとはすでに出逢っているところから話が始まるし、あの物語は「ロッキーがアポロとの死闘を通して自分は負け犬じゃないと証明する」のが主眼ですから、やはりアポロとの出逢いが主軸でしょう。

話がそれましたが、映画とは、物語とは人と人が出逢うこと。

じゃあ、誰が誰に出逢うのか。主人公が女子高生なのは決まっていますが、出逢う相手は誰なのか。

実は、出逢う相手のほうも女子高生なんですね。

え、それじゃあレズの話? とかって思われそうですが、まったく違います。

16歳の女子高生と24歳の女子高生が出逢う物語なのです。それ以上は企業秘密。

でも考えているうちに、少しずつそれてきた感あり。このままそれさせて違う方向へ行ったほうがいいのか。それとも軌道修正したほうがいいのか。最初の勝負どころに差し掛かっています。

続きの記事
三作目の小説、その後(素人の意見に……)

創作の極意と掟 (講談社文庫)
筒井 康隆
講談社
2017-07-14







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