書籍・雑誌

2021年07月07日

村田沙耶香さんが3年前に刊行した『地球星人』が文庫になったので、再読してみました。自分でも驚くほど読み方が違うというか、解釈が違いました。(以下ネタバレあります)

3年前に書いた解釈を未読の方はまず↓こちら↓を先に読んでください。
『地球星人』考察(あのラストをどう解釈するか)

この記事をそっくり書き直すべきかとも思ったんですが、やめました。本の内容は変わりませんが、人間は生きている以上常に変化していきます。だから3年前の自分はこう読んだという記録として残しておきます。そして今回はこう読んだという記録として以下に今回の感想を記します。


伊賀崎殺しの犯人が誰かはどうでもいい
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上の記事では「奈月は伊賀崎を殺していない」とはっきり言ってますが、違いますね。奈月が殺したようにも読めるし、白いワゴン車で彼を追っていた変質者が殺したのかもしれないし、私が3年前の記事に書いたように、姉の貴世が殺したのかもしれない。どうとでも読めるというより、伊賀崎殺しが誰かというのはこの『地球星人』という小説にとってどうでもいいことだというのが私の新解釈の骨子です。

3年前と変わらないのは、伊賀崎が奈月にハレンチ行為を繰り返していたのは客観的事実だということ。そして、由宇と交わした結婚誓約書の最も大事な第3条「なにがあってもいきのびること」これを守るために奈月は自分がポハピピンポボピア星人だという妄想を作り上げたというのも3年前と変わりません。

ただ、3年前は、周囲の人たちがセックスのことを「仲良し」というありえない表現をするからこのシーンから、つまり第6章からすべて奈月の妄想かもしれない、と気づいていたのに、どのシーンからが奈月の妄想なのか判然としない、もしかしたら全編奈月の妄想かも、などという、いまから思えば匙を投げたような結論を書いていました。恥ずかしい。

3年前にも書きましたが、一人称というのはとても厄介です。主人公の語りなので、どこまでが客観的事実なのかどこから主人公の主観的事実、つまり妄想なのかよくわからない。そこに引きずられすぎました。そして伊賀崎殺しが誰かということにこだわすぎた。


第6章からすべてが妄想
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奈月が生き延びるために「自分はポハピピンポボピア星人で宇宙人の目がダウンロードされた」という妄想は、「仲良し」という言葉が出る第6章すべてでしょう。つまり伊賀崎の両親を殺してその肉を食べたり、母と貴世が来たら3人とも妊娠していたとか、結末まですべて奈月の妄想です。だから貴世が「伊賀崎殺しの犯人は奈月」だと彼の両親に暴露したのも奈月の妄想です。「私は黙っててやったのに」という貴世のセリフも妄想です。だから伊賀崎殺しの犯人が誰かは誰にもわからないのです。おそらく作者自身にも。

逆にいえば、第5章までは妄想ではない。魔女退治とか妄想として描写されている場面は別にして、他はすべて現実に起こったことだと思います。

第5章の最後で起こるのは、智臣が兄と近親相姦しないかともちかけ、父親からひどく殴られるところです。そして小学5年のときに由宇とセックスしたために東京へ連れ戻されたのと同様、奈月と智臣は秋級から東京へ強引に連れ戻され、尋問を受ける。異端審問という尋問を。

異端とは「工場」にとって異端ということです。工場によって作られ、工場という名の世間のために働き、子どもを産み育てるのが「普通」であるという「普通教」の信者たち(←これが「地球星人」です)は普通教の教義こそ唯一絶対の真理だと布教活動をする。そうやって子どもたちを洗脳し、「普通の大人」を作り上げていく。

奈月や彼の夫・智臣はそんな洗脳にあらがおうとして、性行為のない契約結婚をし、智臣は兄と近親相姦すると言い出す。奈月たちは「邪教」の信者だということで異端審問にかけられる。幼い頃は奈月と同じ邪教信者だった由宇までもが、「僕たちは間違えたんだ」と奈月にはっきり言います。昔は「自分は宇宙人だけど宇宙船がないから帰れない」と奈月と同じような夢想をしていた由宇が地球星人たちによって洗脳されてしまった。奈月の絶望は測り知れない。

「由宇の姿はどんどん遠ざかっていった」という第5章の最後の一文は奈月の「最期」だったはずです。

小学生の頃、本当なら邪教信者として由宇と心中するはずだったのに、大人たちに引き離されて東京へ連れ戻されてしまう。あのとき死ねていたら奈月にとって最上の幸せだったのかもしれない。そうじゃないと断言できる人は「工場」によって洗脳されている人です。あなたはもしかしたら「地球星人」かもしれない。

しかし子どもの頃死ねなかった奈月は、大人になってから殺されます。ポハピピンポボピア星人としての「死」です。だから、地球星人に殺されるくらいなら「自分が地球星人になりたい、洗脳されたい」なんて言葉も飛び出すんでしょうね。

おそらく、第6章のトンデモ世界を妄想している奈月は願望通り地球星人として洗脳されていると思います。地球星人の目を無理やりダウンロードさせられている。でもそれには耐えられないから「宇宙人の目がダウンロードされた」という妄想を生み出し、無上の幸せを感じているのでしょう。

3年前の記事では映画『トータル・リコール』(1990年のほう)と同じく、すべてが奈月の妄想だったのかも、と書きましたが、『トータル・リコール』ではなく『未来世紀ブラジル』と同じ構造になっていると感じました。

『未来世紀ブラジル』では最後、洗脳されそうになった主人公をテロリストであるデ・ニーロが助けに来ますが、あそこからラストまですべて主人公の妄想ですよね。それと同じでしょう。最悪の事態が到来し、洗脳されてしまうが、妄想の世界で主人公は無上の幸せを感じる。


セックスにおける善悪の彼岸
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著者の村田沙耶香さんがこの『地球星人』で最も疑義を呈しているのが、性行為というものが「正常」だったり「異常」だったりするのはなぜか、ということです。

大人になったら恋愛してセックスするのは普通である。
ましてや夫婦ならなおさらである。セックスしない夫婦なんてありえない。それは夫婦ではない。

と地球星人たちは言うのですが、小学5年生がセックスするのは親族全員が阿鼻叫喚となるくらいの異常事態らしい。

そこはかろうじてわかるとしても、大人が子どもを性の対象にすることには寛容なのは少しも理解できません。奈月は伊賀崎に犯されます。犯されるといっても「口」が、です。イチモツを口に入れられ射精される。しかもごっくんしろと強要される。この一事によって奈月は「口」を壊されます。

第6章の妄想で人肉食が描かれます。奈月にとって憎むべき地球星人を殺して食べる。その直前、奈月の「口」が激しい食欲をもつ。「口」を壊されて以来、こんなに激しい食欲をもつのは初めてだったと彼女は言い、実際に食べて「味がする!」と驚喜する。

伊賀崎に壊された「口」は味を感じることさえなくなっていた。それぐらいの異常行為を、地球星人たちは少しも異常だとは思わない。母親に言っても相手にされない。あんなにいい先生なのに、と取り合ってくれない。高校生になってから「この人なら」と思える人に告白しても「あんたにも隙があったんじゃない?」「あんただってその先生が好きだったから家まで行ったんでしょ」と奈月に非があったかのように言われてしまう。

異常なのは伊賀崎のほうなのに奈月が異常だといわれる。処女じゃない女を「中古」という男は「普通」の側に属し、それをおかしいと思う奈月のほうが「異常」と見なされる。おかしいではないか! という作者の怒り。

そして、それだけが原因ではないだろうけれど、性行為なしの契約結婚に奈月が踏み切るのは伊賀崎に犯されたからです。奈月がいまもこだわっているからです。しかしそれはやはり「いつまでもこだわらないといけないこと」のはずであって、それを忘れて「私だって何度も痴漢されたけど普通に恋愛してるよ」と平然と言ってのける級友のほうが異常なのに、なぜか地球星人の間では級友のほうが「普通」で奈月のほうが「異常」とされる。

由宇にはこのような経験がなかったのでしょう。だから地球星人に洗脳されてしまった。

智臣が洗脳されなかったのは仕事が長続きしないからでしょうね。現代資本主義社会では「労働」は至上のものとされ、会社組織になじめない人間はそれだけで落伍者と見なされる。本書では深入りしないけれど、おそらく智臣は周囲からダメな奴という烙印を押され続けてきたのでしょう。だからたぶん同窓会なんて行ったこともない。誰も自分を理解してくれないという孤独。私と同じです。

地球星人になりきれない人間はポハピピンポボピア星人になった幻想に生きるしかない。そうやって奈月は「いきのびる」ことにした。

私が映画や小説など物語が好きなのは、おそらくそういうことでしょう。そういう人たちのために映画や文学がある。そういう人たちのためにこの『地球星人』はある。

3年後に再読したらどんな感想をもつでしょうか。いまから楽しみです。


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地球星人(新潮文庫)
村田沙耶香
新潮社
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2021年06月12日

竹倉史人という人類学者が著した『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(晶文社)を読みました。あの養老孟司先生が絶賛していると聞いて興味津々だったんですが、それも大納得。すこぶる面白かった。


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土偶は女性をかたどっている?
昔学校で習ったときも、そしていまも、教科書には「土偶は女性、主に妊娠女性をかたどっている」と書かれていて、私もそれを信じ込んでいましたが、著者は「どうしても女性に見えない。そもそも人間にすら見えない」と疑問をもち、考古学が専門ではないのに研究に打ち込んだと。でもその道の専門家じゃないから先入観や固定観念を打ち破ることができたんですよね。あとがきに「考古学者のなかには私の研究成果が世に出ないように画策する人まで現れた」とありますが、新しい挑戦者にはえてして世間というものはそういうものなのでしょう。醜いことこの上ない。

土偶が女性の性徴を有していることは著者も認めます。

しかしながら、ここがとても大事です。

「土偶が女性の性徴を有していること」と「土偶が女性をかたどって作られている」ことは同値ではない。

確かに。二つは必要充分条件ではない。


土偶は植物をかたどっている!
では、土偶は何をかたどっているのか。それは「植物」だというから仰天するではありませんか。だって、植物ですよ。明治に土偶研究が始まってから100年以上「女性」だと思われていたのに人間でないどころか動物ですらない植物を直観したというのはほとんど天才です。

いや、天才というのは間違っている。著者はただ単に「素直」なのです。


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土偶といえば誰もがイメージするのがこの遮光器土偶。

北方民族が装着していたというゴーグルに似ているからその名前がつけられたそうですが、さすがにそれを信じている学者はいまはいないとか。でも、名前にだけその名残が残っている。

でも、これ、普通に見たら人間の形に見えますよね。私は「女性をかたどっている」と習ったからそうだと思い込んでいましたが、少なくとも女性には見えない。妊娠女性なんてもっと見えない。

著者は言います。

遮光器土偶は「見た目の類似は当てにならない」というトラウマを生んだ。しかし土偶の正体を探るにあたって、イコノロジーにはリスクはあるが不要ではない。我々が採るべき道はイコノロジーの排除でなく、イコノロジーの補強である。

著者はこの土偶に何とサトイモを直観したというんですね。

遮光器土偶とサトイモ、どこが似ているのか。

驚くべき画像があります。

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上の土偶画像と見比べみてください。四肢の部分をサトイモの画像に差し替えているんですが、ほぼ完全に一致しています。目からウロコとはまさにこのこと。

遮光器土偶の乳首に当たる部分はサトイモの芽だそうです。第二次性徴を迎えた少女の胸が膨らむことを「芽生え」と称する(←これ、知らなかった)。英語でもbreasts budというとか。『市民ケーン』バラの蕾rose budのbudですね。

遮光器土偶は土中に貯蔵するサトイモを守護する役割を担っていた。もともと遮光器土偶は真っ赤に塗られていたそうです。血液と同じ色。いまでも還暦の年に赤いちゃんちゃんこを着ますもんね。あれは生命力を回復する意味をもつ。縄文人は遮光器土偶に莫大な生命力をもたせて細菌などの魔力からサトイモを守ろうとしたのだろう、と著者は言います。

しかも遮光器土偶は自立しない。立てて置いておくことができない。だから礼拝や鑑賞の対象ではなかったことは明らか。背面が平らに造形されていて、しばしば後頭部に磨滅痕が見られることから、サトイモと一緒に土中に寝かせて埋められたのだろう、と。でもなぜサトイモと一緒に埋めるの?


土偶は植物霊祭祀の道具だった
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(ハート形土偶はオニグルミをかたどって作られたとか)

森の恵みによって生命を維持していた縄文人は、一方的に森からの恵みを受け取ることを良しとしなかった。秋に祭祀の場を設け、そこへ精霊たちへ供物をささげ、盛大な儀礼をおこなってきた。(遮光器土偶はサトイモが腐らないようにという願いがこめられていますが、ほとんどの土偶は「感謝」の気持ちがこめられていたそう)

この発見に至るにはフレイザーの名著『金枝篇』の援けがあったからこそのようですが、私は15年ほど前に読んだけど「王殺し」のことしか憶えておらず、植物霊祭祀についての記述は完全に忘れてしまった。(近いうちに再読しよう)

著者が「この土偶はこの植物をかたどっている」と主張するのは下の画像のように様々です。

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あれ? 変ですね。植物霊祭祀のはずなのに貝があるのはなぜ?

何と、ハマグリとは「浜栗」つまり「山の栗」に対して「海の栗」と縄文人は考えていたらしいんですね。

昔の友人とのやり取りを思い出しました。「蟹(カニ)」や「蝦(エビ)」って虫じゃないのに「虫」という字が含まれている。おかしい。

と考えるのは現代科学によって虫ではないと我々が知っているからであって、漢字ができた頃の古代の人々はカニやエビを虫の一種だと考えていたということ。当時の人々の目で見つめてみることが大事。


縄文のビーナスは妊娠した女性?
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国宝に指定されている「縄文のビーナス」も妊娠女性をかたどっていると長年言われてきました。そして著者もその通りだという。これはどういうことでしょうか。

妊娠女性は妊娠女性でも、トチノミの精霊の妊娠像だというんですね。

稲が実って膨らんでいく事象を、人間の女性が妊娠して腹が膨らんでいく事象を同じものとして捉えるアナロジー(類推)が大事だと著者は言います。

ちなみに、稲妻という言葉。古代、男女を問わず「配偶者」のことを「妻」といったそうです。稲妻の妻は男性。稲妻とは「稲の夫」という意味。夏に落雷が多い年は稲がよく実るという民間伝承から「雷が稲を妊娠させる」という観念が生まれたとか。目からウロコ。


私たちは生かされている
すごい本でしたが、著者がこのような発見を可能にできたのは、縄文人と同じように、森や海で作物を採って食べたからだそうです。

縄文人が何をかたどって土偶を作ったのか。何を願って土偶を作ったのか。そういうことは「蟹」や「蝦」という漢字と同じで、古代人と同じ目で物事を見つめないかぎりわからない。

だから、著者は当たり前のことをして、そこから素直に類推して、素直に考えて結論に至った、というそれだけのこと。

しかしながら、「それだけのこと」が現代人にはできなくなっている。科学に汚染された我々現代人には、古代の人々がどのように世界を見つめていたのかがわからなくなっている。

雨が降るといやだなと思う。週末くらい晴れてくれよと思う。

でも、ほんの100年、200年前まで、雨が降るかどうかは生きるか死ぬかの問題だった。降りすぎてもいけない。適度に晴れて適度に降るのが大事。そのような天の恩恵を受けて生きていた人々は、せめてもの感謝の印として土偶を作った。

私たちは生かされている。天への畏敬の念からおそらく宗教は生まれたのでしょう。

宗教というだけで「科学的でない」と非難する現代人は、古代人がもっていた素直な心を失ってしまった。古代人には見えていたものが見えなくなってしまった。

この本を読んで「私たちは生かされている」という感謝の気持ちを新たにしました。







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