書籍・雑誌

2021年08月19日

もう去年の11月からやっている三作目の小説が最近、滞っています。

12月には、三作目の小説が順調に進んでいます(女子高生は誰と出逢うのか) 

なんて日記も書きましたが、それも今は昔。途方に暮れている状態なのです。


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15歳の高1女子が23歳の同じく高1女子に出逢うのが肝で、出逢うことで二人が変化・成長していくビルドゥングス・ロマンであることは過去記事で書きました。

出逢うはずのない二人が出逢うことの化学反応を描こうとしていたんですが、書き始める前に大まかな構成を立てるときにちょいと「色気」が出てしまって、普通に二人が早いうちに出逢うようにすればよかったのに、映画でいえば『街角(桃色の店)』や『(ハル)』みたいに、すでに言葉のやりとりをしてお互いの人となりをだいたい知っている間柄の二人が最後に出逢う、みたいなことをやろうとして、出逢いがラストシーンじゃないんですが、三章仕立ての第三章で出逢って……みたいなのを考えてしまった。すると書き進めていくうちに、出会う前に二人が抱えている問題がどちらも解決してしまう流れになった。

もう出逢う必要がない……

15歳のほうも23歳のほうも、それぞれの周囲にいる人物との関係性の中に解決の萌芽がすでにあったということです。

何のこっちゃ。

じゃあ、二人が出逢わずに、それぞれを主人公にした別個の物語として改編しようかと思っているわけです。つまり二つの小説ができあがる。

それはそれでうまい手だと最初は思ったんですが、しかし、なぜ15歳の高1女子と23歳の高1女子が出逢う物語にしたかというと、その二人が出逢うシチュエーションを成立させるには、二人とも女性のほうがリアリティがあるということと、片方が高1じゃないと絶対成り立たないんですよね。高1じゃないとこの二人は永久に出逢わない。そのぎりぎりのシチュエーションに魅力があったわけです。

でも、出逢わないことにする、ぎりぎりのシチュエーションをなしにしてしまうと、15歳の高1女子のビルドゥングス・ロマンと23歳女子のビルドゥングス・ロマンの二つを書くことになるんですが、はてさて、そうなると、その二つは私にとって切実な問題なのだろうか、という壁にぶち当たるわけです。


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確かに、二人とも私が作ったキャラクターだから私の分身ではある。でも、もうとっくに中年になり、これから老年になっていく男の私にとって書くべきテーマなのか、となると、非常に心もとない気がする。

ただ、ここまで書いてきて少し閃きました。23歳女子のほうは、彼氏から見た彼女自身を描くといいのかもしれない。23歳のほうにかなり自分を投影させているのでね。でも高校生である必要はもうないし、そもそも女である必要もない。

じゃあ、30代、40代の男を主人公に? それでもいいが、23歳女子が抱えている問題は、やはり20代ならではの問題だし、実際、私が20代の頃に抱えていた問題とあまり変わらないし、20代のままのほうがいいように思う。性別はよくわからない。どっちでもいいような気もするけど、もっと大きな問題は、高校生をやめるなら職業は何にするのか、という問題。

15歳のほうは、こちらが絶対高1でないといけなかったんですが、抱えている問題が高校生ならではなので17歳くらいにして書き直すか、それとも、もう書かないか。自分にとって切実な問題を抱えているわけではないしね。

でも私は15歳女子のほうがキャラ的には好きなんですよね。この子自体が好きでもあるし、書いてて楽しい。23歳女子は切実な問題を抱えてはいるが、それほど好きではない。

うーん、帯に短し襷に長し。もうちょっと考えます。


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2021年08月16日

兄の薦めで、みうらじゅんとリリー・フランキーの対談本『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつうじゃないですか』を読みました。

特に「お!」と唸った言葉について感想をつらつらと綴ります。


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リリー
「副流煙が迷惑だ」みたいなことを言う人がいるけど、そんな迷惑を考えたらファミレスの隣で話しているくだらない話が耳に入るだけで、こっちだって相当迷惑してるんだって言いたいですよね。喫煙席と禁煙席じゃなく「面白くない話するヤツ席」を作ってほしい。

ハハハ。これは面白いというか、私は面白くない話も含めて他人の話に興味があるので別にそんな席がほしいとは思わないが、喫煙者ばかりを迫害するここ20年、30年くらいの政府のやり口には非喫煙者だけど憤りを感じているので、「我が意を得たり!」って感じだった。自分が受けた迷惑にだけ敏感で、自分が他人に与えているかもしれない迷惑には鈍感な人が増えてますね。


リリー
そもそも喧嘩までならないにしても、何かに対して怒りみたいなものを覚えなくなるという感覚が人としては一番死んだ状態だと思うんですよね。やっぱり何かを憎めないと何かを愛せないはずでしょ。それを乗り越えないとすべてを愛するなんてできないのに、「博愛」とかを聞きかじって何にも努力してない人ってすごく生ぬるいですよ。

これはビートたけしの「振り子理論」みたいなものですかね。それはともかくよくわかる言葉。愛情の裏返しが憎しみなんだから、憎しみをもってないことはその裏返しの愛情ももてていないことになる。
そういえば、ちょっと意味がそれるけど、前の職場で、「男の人でうわべばかり言う人ってすごく苦手。疲れる」と言ってた女性がいて、お世辞とか社交辞令をめったに言わない私(言うとしても冗談とわかる形でしか言わないんじゃないか)としてはこれまた「我が意を得たり!」な言葉だった。ただ、その人は異性のうわべが苦手だと言ってたが、私は同性のうわべばかりの奴が苦手です。なぜかは知らない。


リリー
いわゆるDVみたいな意味のない暴力はダメだけど、殴られてもいいようなことをしたら、それは男でも女でも子どもでも殴られていいと思うんです。

これはもう本当にそうですよ。いまや親や教師が子どもに体罰を与えてはいけないんですって? そりゃ理不尽な暴力とか行きすぎたものはダメだけど、言ってもわからない奴には体で憶えさせないといけないと思う。
肉体的な痛みを感じる脳の部位と心の痛みを感じる部位は同じらしく、体罰を与えると心が傷つくらしい。しかし、心の痛みをある程度感じさせてやらないと他人にやさしくしたりできないと思うが……? 幼少の頃に肉体的な苦痛をまったく感じなかった人間は長じてから不幸になると聞いたことがある。


リリー
才能豊かな人が天才という考えは間違い。それは秀才。天才というのはもっとエネルギーのある人ですよ。人間としてどこか破綻して欠落してても、その人のもつエネルギーが圧倒的に強い人だと思う。
世の中に認められてる程度の人っていうのは、要は凡人が認める程度の人ですから。まだ秀才ですよ。天才というのは「終わってから評価を得る」じゃないけど、なかなか人にはわかりにくいものですよ。


だからエロスクラップ作りを30年以上作り続けているみうらじゅんは天才じゃないか、みたいな展開になるんですが、そう考えると、30年以上映画を熱心に見続けている私は天才的映画ファンなのだろうか。脚本家としては世間的な評価は得られなかったから秀才にすらなれなかったけど、映画を見る、ということにかけては天才なのかも。しかし、リリーさんは「天才は何かを作る人」とも定義している。私は映画を見て何を作っているだろうか。このブログ? 


みうら
そうやってノイローゼが癖になってくるといいんですよ。仏像も、もう好きかどうかもわかんない状態。でも見たいんです。で、飽きずに続けること以外に輝けるものがないと思っているから長生きしたいんです。

これはわかるなぁ。私も、もう結構前から「俺は本当に映画が好きなのか」と自問自答することが度々ある。でも見たい。これは何なのか。そもそもこのブログも本当に好きで書いてるのか? とかね。最初は爆発的な瞬発力で始めたものが、いつの間にか惰性だけでやってる気がしてくる。何でもそうか。結局、その「惰性」を愛することができるかどうか、ということなんですかね。 


リリー
金がないと人はバカになりますよ。電気もガスも水道も止められていたとき、昔の女に電話したら来てくれたんですよ。弁当を買って食べさせてくれたうえに、帰り際に2000円胸ポケットに入れてくれて「超ラッキー!」と、ヤレたはずなのにそこに思いが至らない。だから貧乏暮らしに戻りたくない。金がないのがいやなんじゃなくて、昔の女に2000円もらってガッツポーズする品性の卑しさがいや。

そこまで金に困ったことがないからわからないが、そういうものかもしれない。


リリー
2008年暮れの年越し派遣村。東京の派遣村で飯もらえなくて名古屋の派遣村まで歩いて飯もらった人がいるけど、そのガッツがあれば必ず働くところがあるはずだし、その頑張りを他に使えばすごい仕事ができるはずでしょ。同じ理由でパチンコ屋に朝から並べる人とか朝から競馬に行ける人って就職したほうが絶対儲かると思うんですよ。

これは違うと思った。
よく、オレオレ詐欺とか巧妙な手口で金を盗む人たちについて「その頭の良さを普通の仕事とかで活かせばいいのに」という人がいるけど、違いますよね。犯罪に手を染めるような人はネガティブなことにしか頭が回らないんですよ。いわゆる悪知恵しかもっていない。知恵があれば人を騙したりしない。パチンコ屋に朝から並べる人が会社勤めしても遅刻ばかりのような気がする。


リリー
高校生の頃は自殺とか考えたなぁ。考えなきゃバカと思われるんじゃないかって。でも、いくら自分らしさとか個性とかいっても結局、周りの人がいて環境があって自分が成立しているからね。
みうら
他人の存在って反射じゃないですか。だからまったく独りで無人島にいる人ってどこまで人間らしい生活を維持できるのかなって思うんですよ。

何でもかんでも下ネタ(エロス)に還元してしまう二人がタナトスについて語っている。でもそのタナトスは見栄で考えていただけだった。
これと同じ意味のやり取りはこの本ではすごく多い。自分というのは自分だけで成り立っているのではなく、他者との関係性で成り立っている、というお話。だから自分探しなんかやめな、なんてこの二人は言わないけど、そういえば、みうらじゅんは「自分なくし」というのを提唱しているらしい。『自分なくしの旅』という本を読んでみよう。


リリー
若い人がこの本を読んですぐに意味がわからなくてもいいと思いますよ。いずれわかるから。だってほんとか映画ってそのときにすべてがわかるものってたいしたものじゃないし。
みうら
あとでじわじわ効いてくるもんだよね。

ビジネス書と言われるものって即効性ばかりが期待されてますよね。タイトルを見ればわかる。でも、即効性のあるものはすぐ効くけど、その効力は長続きしない。内田樹先生も「すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる」と言っている。
この本を読んで「何の役に立つのか」なんて無粋なことを言う人はたくさんいそうだけど、別に役に立たなくてもいいんじゃないですか。みうらじゅんが言ってるように、というか、世間的によく言うように、「人生なんて死ぬまでの暇つぶし」なのだから。


しかし、振り返ってみると私の心の琴線に触れた言葉ってリリーさんばかりだったんですね。こういうのは読むだけではわからない。書き出して初めてわかる。だからこのブログは続けていこうと思う。








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