書籍・雑誌

2021年03月01日

蓮實重彦の新著『見るレッスン 映画史特別講義』(光文社新書)を読みました。そして蓮實が映画における「脚本」というものへの決定的な誤りを犯していると感じました。


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「死ぬまで表層批評宣言!」
「見るレッスン」と銘打ちながら、あの映画はいい、あの監督はすごい、あの映画はだめ、あのショットはだめとただ単に好き嫌いを言い募っているだけの本でした。どこが「見るレッスン」やねん、と。

しかも、『スピオーネ』を見ずにフリッツ・ラングを語るなとか、最近ツイッター界隈で「痛い連中」と揶揄されている人たちと同じスノッブな感じも相変わらずだな、と思いました。

そして蓮實が昔から言っている「物語より画面だ」「心理より運動だ」という「映っているものがすべて」という表層批評的な物言いにはいいかげんうんざりしました。

蓮實が若い頃は物語やテーマばかりを読む批評が幅を利かせていてそのアンチテーゼとして表層批評宣言をした気持ちはよくわかるし、私だって若い頃は例えば『映像の詩学』とか『監督 小津安二郎』などの名著で勉強させていただいた口ですがね。でも、もう蓮實重彦的な映画批評は決定的に古いと思う。

「物語より画面だ、ショットだ」じゃなくて、「物語もショットも」だと思うんですよね。両方大事。どちらかがより大事なんてありえない。運動も大事だし人物の心理の動きだって同じくらい大事。ジョン・フォードも大事だしウィリアム・ワイラーも大事。すべてにおいて二者択一の問題にしてしまうこのお爺さんは老害を振りまいているとしか思えませんでした。


「脚本がわからない」
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この本の最後のほうで蓮實は、

「わたくしは、シナリオというものが映画にとっていかなる存在であるかということがいまだによくわかりません」

と語っています。よくわからないのに「映画を見るときに脚本家というものにほとんど興味がない」と平気で言っている。つまり映画の価値を語るにあたって脚本など度外視したいということなのでしょう。

それはそれでひとつの見識でしょうが、私は蓮實重彦という男は決定的な間違いを犯していると思う。彼はおそらく「脚本を文学の一分野だと勘違いしている」のです。


脚本は文字で書かれなくてもいい
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脚本は普通は言語によって書かれます。しかし言語によって書かれねばならないなどという決まりはありません。脚本原理主義者の荒井晴彦さんなら「そうに決まっている」と言うでしょうが、しかし、実のところそんな決まりはないのです。

なぜ決まりがないのに誰も彼も言語で書くかというと、人間は言語を介したほうが「幻想」を共有しやすいからです。プロデューサー、脚本家、監督、俳優、カメラマン、美術監督、照明技師、録音技師、編集マン、etc. 映画に関わるすべての人が、いま自分たちが作ろうとしている映画がどういうものか、その青写真を描くのに言語で書いたほうがわかりやすい。それだけの話です。

監督がカメラマンと打ち合わせをするときは絵コンテを描きますよね。カメラマンと幻想を共有する場合は言語より絵のほうがわかりやすい。

だから脚本家がファーストシーンからラストシーンまで絵コンテを描いたっていいと思うんですよ。言語で「柱」「ト書き」「セリフ」の3つから成るいわゆる「脚本」というものを書かねばならないなどという決まりはないのです。監督とカメラマンの二人で絵コンテだけ描いたものを「脚本」として全スタッフが幻想を共有してもぜんぜんかまわない。

でも、蓮實重彦はおそらく「脚本は言語によって書かれねばならない」と思い込んでいる。

ジョン・フォードがプロデューサーから時間が押してると急かされたとき、脚本の数ページを破り捨てて撮影したエピソードが本書で紹介されていますが、もしその映画の脚本が全編絵コンテ(そこにはセリフという言語があるにはありますが)で、フォードがその絵コンテの数枚を破って捨てたとしたら、蓮實はそのエピソードを称揚したでしょうか。「ゴダールがそれを模倣した」と鬼の首を取ったような物言いで紹介したでしょうか。

していないはずです。画面がすべて、ショットがすべてだという人間が、そのショットをどう撮るかの土台として作った絵コンテをないがしろにする行為を許容するはずがない。だから蓮實の頭の中には「脚本=文字で書かれた物語」という等式があるはずなのです。

何かの本で「文学ごときが映画ほど高級であるはずがない」みたいなことを言ってましたが、文学的な匂いのする「脚本」というものを貶めることが表層批評家である自分の責務だと勘違いしているのだと思います。


「脚本⇆映画」という混沌
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脚本と完成した映画の関係を考えるときに大事なのは、黒沢清監督の、

「編集というのは脚本を完成させる作業だと思っています」

という言葉だと思います。

映画『アカルイミライ』の冒頭はオダギリジョーがゲームセンターでシューティングゲームか何かをしている場面ですが、もともとの脚本のファーストシーンは違います。脚本で中盤ぐらいのシーンを頭にもってきているのです。そうやって脚本が完成する。

蓮實は完成した脚本があって、それをもとに撮影した映画があると思っている。「脚本→映画」という不可逆の流れしか頭にない。

でも、本当は脚本をとりあえずは完成させて(プリ・プロダクション)それをもとに撮影(プロダクション)しますが、時間が押したりして途中をカットせざるをえなくなったりして、そのたびに脚本は変化します。そして編集(ポスト・プロダクション)においても場面を入れ替える必要が出てきたりして、そこでも脚本は変化します。

つまり、実際の映画作りは「脚本→映画」という一方的な流れではなく、「脚本⇆映画」という混沌としたものなのです。

文字で書かれようがそうでなかろうが、「脚本⇆映画」という混沌は変わりません。脚本と映画は表裏一体なものなのです。

何十年も映画を見てきて、そんな基本的なこともわかっていないことに苛立ちました。









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2021年02月26日

ツイッターで相互フォロー関係のこだまさんの新著『いまだ、おしまいの地』をようやく読むことができました。(以下いろいろネタバレあります)


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デビュー作『夫のちんぽが入らない』から愛読していますが、今回も「物書きになるために生まれてきたとしか思えない」家族環境や生活の細部に嫉妬しながらも、帯の惹句にあるように「ちょうどいい。」ぬる燗のような柔らかい表現の数々に舌鼓を打ちました。


驚愕の家庭環境
「物書きになるために生まれてきたとしか思えない家庭環境」というのは、例えば一人称が「俺」の祖母。こんな人、普通いませんよね。

祖母の一人称は一貫して「俺」だ。

という何でもない一文でキャラが立ってしまう。こんな人は少なくとも私の周りにはいない。

その祖母が認知症になったのがきっかけで「確変」に入ってしまう。小学校で出待ちして子どもたちにお手玉を上げたり、早朝の校門前であいさつ運動を始めたり。

私たち家族には「奇行」でも、学校側からは「善行」と思われたらしい。お手玉も「強要」ではなく「奉仕」と捉えられた。世の中わからない。

この何でもない文章も名人芸ですよね。祖母の奇行に対して文字通り「奇異」の目で見ているこだまさんがおり、でも、同時に愛情をもって接している「やさしい」こだまさんも感じられ、そしてさらにすべてを「俯瞰」で見ているこだまさんがいる。人や物事へのまなざしだけで天下一品の文章が書ける。

文章がうまく描けないと悩んでいる人には一度こだまさんの本を読むことをお薦めします。(マジで。素直に書けばいいだけなんだとわかるから)

話を戻すと、ハワイ旅行に当選するまでのいきさつがすさまじい。こんなフィクションみたいなことは私の人生では一回もない。やはりこだまさんは「もっている」人なのだと思う。

東京の専門学校のある高名な脚本家の先生が、

「作家とは経験です」

と言っていたけれど、こだまさんは幼少の頃から珍奇なことを見聞きしてきたわけで、そしていまも最果ての地でいろんな経験をしているわけで、私など及びもつかないなぁ、と思ってしまうのです。


メルヘンを追って
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(こだまさんは覆面作家です。まだばれてないというからすごい)

この『いまだ、おしまいの地』は全部で20編のエッセイから成るんですが、一番印象的だったのが「メルヘンを追って」という一編。

人の言うことを鵜呑みにしてばかりのこだまさんは誰でも詐欺だとわかるダイレクトメッセージに反応してしまい、計44万円を騙し取られた、と。

でも、こだまさんの辞書には「騙される」という言葉がないようで、少しもメルヘンというハンドルネームの男を恨んでいない。それどころか、周りの人たちが骨を折ってくれてお金は全部返ってくるんですが、どっちみち自分の手を離れたお金だからと慈善団体に寄付してしまう。

寄付するきっかけができてよかった。

この気持ち、わかるようでわからない気もするし、わからないようでわかる気もする。

あれは京都にいたときだから1994年ごろですが、ニュースステーションで「最後の晩餐」というコーナーがありました。司会の久米宏が各界の著名人と晩餐を食しながら対談するんですが、脚本家の倉本聰が招かれたとき、こんなことを言っていました。

「何かをもらう、というのはとてもありがたいしうれしいことなんだけれど、何かを誰かに与えるという行為をしないと人間は生きていけないんじゃんないか」

と言っていたのがいまでも印象に残っています。

こだまさんも寄付のきっかけを与えてくれたメルヘンに感謝の意を示す。寄付は私もしてますが、最初はなかなかハードルが高いですからね。

こだまさんはだから「わざと騙されたんじゃないか」というのが私の見立てです。ご本人は否定するでしょうが、私が言っている「わざと」というのはもちろん「無意識に」という意味ですよ。

誰かに何かを与えないと生きていけない。そのきっかけを欲していたときにメルヘンと出逢った。そういうことではないかと。

しかし、そこまでなら私にも同じようなことがあったと思う。(ないか?)

こだまさんの真に非凡なところは、メルヘンの実家に乗り込んだとき、彼の母親の何気ない一言を聞いてメルヘンとその家族の幸せを願っているところ。もしかしたら「メルヘンはかつては幸せだった。でもいまは……」という意味かもしれませんが、私には著者が彼の幸せを願っているように感じられました。

そのような太っ腹は、私には、ない。

しかし、脚本家の荒井晴彦さんが「かすり傷を重症と思うかどうかだよ」と言っていたし、くだんの高名な脚本家の先生も「ユーミンみたいに1回の失恋で100曲書くんだよ。1回の失恋で1曲しか書けなかったら100曲書こうと思ったら100回失恋しなきゃならない。そんなの無理でしょう」と言っていた。

つまり、私の周りにはキャラの立つ人がたくさんいたし、いまもいるのかもしれない。私がそれに気づいていないだけか。「フィクションみたいなこと」もたくさんあったのかもしれないけど、それに気づく感受性をもち合わせていなかっただけか。もしかしたらそれを「才能」というのかもしれません。


名前をつけてもらう
まったく別の意味で印象的だったのは、旦那さんの奇行が「パニック障害」によるものであり、著者本人の病気が「自己免疫由来の鬱」と名前をつけてもらった途端に安心できた、というエピソード。

私も精神科に通いはじめたころ、自分の病名が「神経症」と知ったとき何となく体が軽くなった気がしたもんです。

実家の犬も自分の名前をつけてもらったと知った頃はとてもうれしそうだった(名前を呼ばれると文字通り跳んできたのがまるで昨日のことのよう)。どんな物事でも「名前がついていない」のが非常につらい。

私は皮膚病も患っているけれど、「脂漏性炎症」という病名はあるが、カビが原因まではわかっていても、具体的にどういう名前のカビが原因なのかはわからず、いまだに特効薬の開発には至っていない。

名前がわかる。名前をつける。それはとても決定的なこと。

そんなことも気づかせてくれた『いまだ、おしまいの地』は非常にお薦めの一冊です。ぜひ。


いまだ、おしまいの地
こだま
太田出版
2020-09-02





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