テレビ

2021年04月22日

『怪奇大作戦』考察シリーズ第3弾。今回は考察というよりスゴイスゴイと言い募るだけですが。

第9話「散歩する首」を俎上に載せます。


物語のあらまし
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峰村という名の男が、あるトリックを使って山中で浮遊する女の首を見せて、バイクや車に乗っている人を殺していく。

その狙いは「死体を生き返らせること。死人を永遠に生かせること」。

峰村はかつてある研究所で働いていて、そのときは「良質な米や野菜を恐るべきスピードで栽培するガスの研究をしていた。そのガスをさらに強力にするのに必要だったのがジキタリスという植物で、強い強心性があるため上司からやめるよう強く言われ、恨み言を言って辞めていった。

志は農業のためというまっとうなものだったのに、どこでどう間違ったのかマッドサイエンティストに成り下がった峰村は、死人を生き返らせるために殺人を犯し、死体にガスを吸わせて生き返らせようとしていたところをSRIの岸田森たちに取り押さえられる。

所長は珍しく激昂して峰村に言います。

「医学者でもないおまえが人間の生と死に立ち入ろうとした。恐ろしいことだ」

これだけだと何の変哲もない話ですが、大事なのは、二組目の殺される男女。もともと男が女を殺そうとしていて、女がその恨みから死んで硬直しているはずなのに突如起き上がって「こいつが殺した」とばかりに男を指差すんですね。それを見て峰村は自分の実験が成功したと思って狂ったように笑う。という皮肉な結末が秀逸なのです。

いや、皮肉ではないのかもしれない。女の恨みで、というのは我々常識人の思い込みで、実は峰村の実験が本当に成功したのかもしれない。


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所長が言う「生き物の生と死」のはざまの「闇」を浮かび上がらせて物語は幕を閉じます。やはり、このシリーズは一筋縄ではいきません。

物語にひそむ作り手たちの「思想」も素晴らしいし、物語全体の構成もうまいの一言なんですが、私が一番唸ったのは、殺される二組目の男女が登場してから散歩する首を見て転落するまでのほんの1分ほどのシークエンスです。

採録してみます。役名は劇中に出てきませんので、仮に男をアキラ、女をヨウコとしておきます。


恐るべき速さ!
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〇街なかを走る車(夜)
  アキラが運転し、ヨウコは助手席。
ヨウコ「あなたから誘ってくれるなんて何年ぶりかしら。ねえ、聞いてるの?」
アキラ「うん」
  ヨウコ、じっと前を見つめる。
ヨウコの声「あの女と結婚しようたってそうはさせないわ。私はあなたの秘密を知ってるのよ」
アキラの声「俺が会社の金を使い込んでることをこいつは知ってる。俺があの女と結婚することを知ったらこいつは黙っていないだろう」
ヨウコの声「どうして今夜私を誘ったんだろう」
  ヨウコ、ハッとなる。
ヨウコの声「何かあるわ、きっと」

〇山中(夜)
  走る車。
  いきなり飛び出してくる別の若い男女。
  急ブレーキ。
アキラ「(窓から顔を出して)危ないじゃないか!」
若い女「お願いします! ホテルまで乗せて」
若い男「お願いします!」
アキラ「ダメだ。この車はホテルまで行かない」
若い女「じゃ途中まででも。クタクタなの」
アキラ「悪いけど先を急ぐんだよ」
  ヨウコ、そんな男をじっと見つめる。
ヨウコの声「私を殺すつもりだわ、この人」


このあと首を見て、車は転落。アキラ以外は死亡するのですが、これ、すごくないですか⁉

男と女がかつて肉体関係にあり、秘密を分かち合うほど愛し合っていた。しかしもっといい女(かつ、おそらくもっと金持ちの女)の出現で男は豹変し、女に別れ話をもちかけたが女は承知しなかった。

という背景が手に取るようにわかるし、それは当たり前としても、そのあとの「どうして私を誘ったんだろう。何かあるわ、きっと」という心の声が素晴らしい。そして若い男女をどうしても乗せない男を見て「私を殺す気だわ、この人」という恐るべき展開の速さ!

黒沢清監督の言う「映画の原理」ですね。「世界の原理」なら誰でもそんなにすぐ気づくわけではないし、もうちょっとはっきりした理由がないとおかしいんじゃないか、と考えたくなるのも「世界の原理」。「映画の原理」ではそんなことお構いなしに話を前に進めることだけを考える。

こういう技を私は結局会得することができなかったので舌を巻きました。何という速さ。自作シナリオの冒頭の展開の遅さに、ある高名な脚本家は「遅いんだよ、とにかくおまえのシナリオは遅いんだ」と叱られましたが、おそらく私は「世界の原理」に囚われすぎていたんだと思う。もっと「映画の原理」、平たく言えば「ご都合主義」を使うべきだった。

しかしご都合主義というのはつまるところ「作り手にとって都合がいい」ということであり、諸刃の剣なんですよね。先に採録した2シーンがどうして「ダメなご都合主義」ではなく「称賛さるべきご都合主義」なのか、どうして「映画の原理」の高らかな勝利宣言となってしまうのか、私にはうまく説明できません。

そして「映画の原理」が勝利して話を前へ前へとどんどん進めていった結果、「生と死のはざまの闇」という「世界の原理」が浮かび上がってくる。

脚本を書いた若槻文三さんへのかぎりない敬慕の念を記して筆を擱きます。


関連記事
考察①第3話「白い顔」(驚喜するもの=戦慄するもの)
考察②第7話「青い血の女」(愛情と憎しみ、神と悪魔)
 
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2021年03月28日

『怪奇大作戦』考察の第2弾は第7話の「青い血の女」。

製作当時(1968年)すでに「独居老人」とか「現代の姥捨て山」とかそういうのが問題になっていたんですね。50年以上前にすでに核家族化が始まっていたことは知識としてしか知らなかったので驚きました。


物語のあらまし
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SRIの三沢(勝呂誉)の旧友の周りで殺人事件が起こり、どうもその旧友の父親(浜村純)が関与しているらしいことがわかる。浜村純は愛情をたっぷり注いで手塩にかけて育てた息子がいまでは自分をないがしろにし、妻と二人で仲睦まじく暮らしていることを理由に息子を憎んでいる。

三沢も襲われるが、犯人が逃げたと思われるガラス窓はほんの小さな子どもくらいしか通れないほどの穴が開いているだけ。どうやら実行犯は浜村純の人形らしいのだが、人形が自分で人殺しなどするはずがない。

操っているのは浜村純かと思ったら、実は彼が現在愛情を注いでいる女。

しかし、その女の正体も……


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人形だった!

浜村純の殺意を察知して人形仲間に殺人をやらせていたというすごいオチ。しかし、彼女もまた屋上から身を投げて自殺する。「自分もいつかはお爺さんを捨てて出ていく。だから……」と言って。


愛情とその裏返しの憎しみ
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つまり、すべては浜村純の「過剰な愛情」が原因だったというわけです。

いくら愛情を注いでもいつかは子どもは親のもとから巣立つ。それを親は祝福せねばならないのに、自分を捨てたと逆恨みする。おそらく、あの息子はそんな父親がうっとうしかったのでしょう。私も同じ境涯だからよくわかります。

ずっと以前、毎日新聞の万能川柳の年間大賞に、

「深いのは どっちだろうか 愛と憎」

というのが選ばれました。浜村純も愛情が深すぎて息子を憎んでいる。殺したいほど。もう愛しているのか憎んでいるのかどっちなのかわからない。いや、どっちもなんでしょう。

そして、息子と同じ思いをあの「青い血の女」も感じていたのでしょう。過剰な愛情が疎ましい。でも浜村純のことは好きである。だから彼を捨て、自分への殺意を抱く前に自分のほうが死んでしまえばいい。

人形が考えるにはあまりに切なすぎる思いですが、わかる気がする。


神と悪魔の関係に似る
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キリスト教の世界観では、悪魔は神が作ったそうです。そうしないと都合が悪いですよね。神がこの世のすべてを創造したことになっているのだから。

でも、善なる神がなぜ悪魔を作ったのか、という疑問が湧きます。

そのために考え出されたのが「堕天使」という概念です。

神の怒りを買った天使が地獄に落とされ、悪魔となってよみがえった、と。


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子どものために注いでいた愛情が憎しみに変わるのと似ていますよね。いや、キリスト教の理屈っぽい考え方より、親の過剰な愛情が子どもを苦しめ親を捨てさせる。捨てられた親は子どもを憎む。

という愛情が憎しみに反転するこのドラマを見るほうが「善が悪を生むのだ」というこの世の真理に容易に到達できると思うのは私だけではありますまい。

そして、架空の存在である人形は親を思えばこそ自死した。しかし現代の姥捨てではそのような美談はありません。悪魔も自殺したりしません。神を殺そうと狙っている。あんな親なんか死んでしまえばいいと願う子どものように。

「あれ(青い血の女)は何だったんだ?」という感想がネット上にはあるようですが、あれは現代の姥捨てにおける美談はファンタジーでしかありえない、という作者たちの諦観の象徴だと思います。


関連記事
考察①第3話「白い顔」(驚喜するもの=戦慄するもの)
 考察③第9話「散歩する首」(恐るべき速さ!)






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