一週間前でしたか、安倍晋三を射殺した山上徹也を主役にして映画化するというニュースが駆け巡ったのは。

あのときは体調がよくなかったのであえて書きませんでしたが、今日になって「企画していたのはネットフリックスで、すでに製作中止になっている」とのニュースが出て、世論がまたまたかまびすしいことになっているので筆を執りました。

多くの人がこの企画の中止に賛意を示し、そもそも企画することが間違い、みたいなことを言っています。

曰く、

「人を殺すような奴は人じゃない。そんな奴を主役にした映画なんてありえない」
「山上は決して英雄じゃない」

というのがほとんどの人の論調です。でもこれは完全におかしいというのが私の論旨です。


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山上徹也は英雄じゃない。それはその通り。でも、ただの人殺しというのは違うと思うんですよ。別に山上にかぎらず、すべての殺人犯・凶悪犯において。

山上の場合は、背景として母親が統一教会にのめりこんだ「宗教二世」というのがあった。だから教会関係者を殺していいと言いたいわけではなく、要人を殺したから死刑にしておしまい、ではなく、もっと事件の裏の裏を知りたいと思うわけです。

その一助として、彼を主役にした映画(私はすでに『Revolution+1』という映画をすでに見ていますが)を企画するのはとてもいいことだと思うのです。

英雄だから映画にするのではない。彼を丸裸にするために映画にするわけでしょ。

それにネットフリックスということは「映画」ではなく「シリーズもの」だった可能性が高い。それだけお金と時間をかければ山上が抱えていた闇が明らかにされていたはずで、製作元がネットフリックスだと知ったいまだからこそ悔しい思いがします。


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かつて、『プライド/運命の瞬間』という、東条英機を主役にした映画が公開され物議を醸しました。

うちの親父などは、「東条英機を主役にするなんてまことにけしからん」とおかんむりでしたが、私は悪い人を主人公に据えることの何が悪いのかわからなかった。

それを言ったら、やくざ映画はどうなるんですか。みんな大好き『ゴッドファーザー』は?

みんな何か勘違いしていますが、あのマーロン・ブランドが演じたヴィトーという男は、マフィアの親分です。平気で人を傷つけたり殺したりする人物です。ところがそういう人がものすごく家族想いの一面もあるので、『ゴッドファーザー』という映画はいい人を描いた映画だと勘違いしている人がいる。でも、あれは悪人です。ヴィトー自身、「自分は薄汚れた悪人にすぎない」と思うからこそ、かわいい三男坊のマイケルにだけは自分の仕事を継がせたくなかったと言うのです。

脚本創作面からの話をすれば、人物を「良い/悪い」と分別することはご法度とされています。少なくとも私が行っていた映画の専門学校ではそう教えられました。

悪いからやっつけてやろう。そういう考え方では、世界の実相を捉えることができない、と。

いい奴にも悪いところや問題があるように、悪い奴にも「一片の真理」がある。再度『ゴッドファーザー』のヴィトーを例にとれば、前述したようにやたら家族想いなんですよね。あと貧しくて苦しんでいる人たちから毟り取るようなことは絶対にしない。むしろ助けてあげる。それがヴィトーの「一片の真理」です。

だから、山上という男にも「一片の真理」があるはずなのです。(殺したことがいいことだと言っているのではないことは、上記より明らかですね)その「一片の真理」を掬い取るのが芸術の役目だと思うのです。

その「一片の真理」を掬い取るために、ネットフリックス・オリジナルシリーズの合計7~8時間ぐらいの時間が必要であり、企画が進んでいたらしいので、製作中止は本当に残念です。

ところで、監督を務める予定だったという有名な監督って誰なんでしょう?(脚本家が誰かのほうが気になりますが)




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