何か、またツイッターで映画にまつわる論争が行われていたそうで。
思い出される「シネフィルおじさん」

何でも、ある人たちがエンドクレジットが終わったら話し始めて、注意した。で、その注意された人たちが、「映画の本編上映時間」ってどこからどこまでなの? とツイッターで質問したらしい。
ある人は、「予告編が終わって配給会社などのロゴが出てからエンドクレジットが終わるまで。これはひと通りしかない」と言っていて、うーん、何か、言ってることは正しいけど、そのものの言い方が私には不快でした。
まず、エンドクレジットで話していた人たちはその振る舞いが確かによろしくない。まだ余韻に浸っている人もいるわけだから。おそらく、その振る舞いの悪さが意見を言う人のエネルギーにガソリンぶっかけてるんだと思いますが、上映時間にはエンドクレジットも含まれるから静かにせえや、みたいな、逆に正しいほうがやくざみたいな物言いになっていたように思います。
中には、「上映時間は予告編が終わってからエンドクレジットまでだと思うけど」と正論を述べながら、「でもクレジットで帰る人がいてゴソゴソされても気にしない」と冷静な言葉をつぶやいていた人もいました。
でも、他は感情的な人が多く、もはや「上映時間がどこからどこまでか」という議論が、「エンドクレジットまで見てこそ映画ファン」という別の主題へ変奏してしまっていました。
ここまで考えて思ったのが「シネフィルおじさん」でした。
いましたよね、シネフィルおじさん。3年前に。そのときは↓こんな記事↓を書きました。
シネフィルおじさんの心性について(過去の自分と重なってしまう)
映画ファンというものはエンドクレジットの最後まで見る者である。よって、クレジットの最後まで見ない者は映画ファンとはみなさない。と昨日のツイッターでの人たちはたまにしか映画館に行かない人たちを、まるでシネフィルおじさんのごとく排撃したのでした。
こういうのほんといやです。肌の色や性別や国籍で排撃するのとどう違うというのでしょう? 単に法に触れないからというだけの話では?
こういう言説が増えると、映画館が映画マニアだけの巣窟になって長い目で見れば映画の寿命を短くしていると感じます。
嫌いな映画

私には嫌いな映画というものがあります。
例えばルイ・マルの『鬼火』とか、例えば『ダーティハリー2』とか、例えば「十二人の怒れる男」とか。
昨日から今日にかけて、「#嫌いな映画10本あげると人柄がばれる」とかいうハッシュタグがあるそうですが、ある人はそのツイートについて、「嫌いな映画を挙げる」なんてそれこそその人の人柄がばれる、と言っていて、「この映画は嫌い」と言ってはいけないそうなんです。それが「マナー」らしい。
しかし、その同じ人が、こんなツイートもしていました。
「この世に嫌いな映画なんかない。好きな映画とどうでもいい映画があるだけだ」
こんなのは、それこそ「それってあなたの感想ですよね」で済ませたい気になりますが、ちょっと引っかかりませんか。映画を嫌いと言うのがだめなのに、どうでもいいと言うのはOKというのはおかしいと思います。どうでもいいのほうがよっぽど映画に対して失礼だと思いますがね。
ま、私には嫌いな映画もどうでもいい映画もあるけれど、もちろん好きな映画もたくさんあります。
それは、例えば「私、『鬼火』って映画が人生で一番好きで……」と言うきれいな女性がいたとしても、やっぱり『鬼火』なんか好きになれんのです。
それぐらい譲れないものです。それは、かの人にとっての好きな映画も譲れない、揺るぎないものなんでしょう。
それなら、自分の映画を誰かが嫌いな映画に挙げていたとしても、別にいいじゃないですか。笑ってすませれば。
どうも、近頃の社会は、「笑ってすませる」ことのできない大人がとても多くなったように感じるのは私だけでしょうか?
思い出される「シネフィルおじさん」

何でも、ある人たちがエンドクレジットが終わったら話し始めて、注意した。で、その注意された人たちが、「映画の本編上映時間」ってどこからどこまでなの? とツイッターで質問したらしい。
ある人は、「予告編が終わって配給会社などのロゴが出てからエンドクレジットが終わるまで。これはひと通りしかない」と言っていて、うーん、何か、言ってることは正しいけど、そのものの言い方が私には不快でした。
まず、エンドクレジットで話していた人たちはその振る舞いが確かによろしくない。まだ余韻に浸っている人もいるわけだから。おそらく、その振る舞いの悪さが意見を言う人のエネルギーにガソリンぶっかけてるんだと思いますが、上映時間にはエンドクレジットも含まれるから静かにせえや、みたいな、逆に正しいほうがやくざみたいな物言いになっていたように思います。
中には、「上映時間は予告編が終わってからエンドクレジットまでだと思うけど」と正論を述べながら、「でもクレジットで帰る人がいてゴソゴソされても気にしない」と冷静な言葉をつぶやいていた人もいました。
でも、他は感情的な人が多く、もはや「上映時間がどこからどこまでか」という議論が、「エンドクレジットまで見てこそ映画ファン」という別の主題へ変奏してしまっていました。
ここまで考えて思ったのが「シネフィルおじさん」でした。
いましたよね、シネフィルおじさん。3年前に。そのときは↓こんな記事↓を書きました。
シネフィルおじさんの心性について(過去の自分と重なってしまう)
映画ファンというものはエンドクレジットの最後まで見る者である。よって、クレジットの最後まで見ない者は映画ファンとはみなさない。と昨日のツイッターでの人たちはたまにしか映画館に行かない人たちを、まるでシネフィルおじさんのごとく排撃したのでした。
こういうのほんといやです。肌の色や性別や国籍で排撃するのとどう違うというのでしょう? 単に法に触れないからというだけの話では?
こういう言説が増えると、映画館が映画マニアだけの巣窟になって長い目で見れば映画の寿命を短くしていると感じます。
嫌いな映画

私には嫌いな映画というものがあります。
例えばルイ・マルの『鬼火』とか、例えば『ダーティハリー2』とか、例えば「十二人の怒れる男」とか。
昨日から今日にかけて、「#嫌いな映画10本あげると人柄がばれる」とかいうハッシュタグがあるそうですが、ある人はそのツイートについて、「嫌いな映画を挙げる」なんてそれこそその人の人柄がばれる、と言っていて、「この映画は嫌い」と言ってはいけないそうなんです。それが「マナー」らしい。
しかし、その同じ人が、こんなツイートもしていました。
「この世に嫌いな映画なんかない。好きな映画とどうでもいい映画があるだけだ」
こんなのは、それこそ「それってあなたの感想ですよね」で済ませたい気になりますが、ちょっと引っかかりませんか。映画を嫌いと言うのがだめなのに、どうでもいいと言うのはOKというのはおかしいと思います。どうでもいいのほうがよっぽど映画に対して失礼だと思いますがね。
ま、私には嫌いな映画もどうでもいい映画もあるけれど、もちろん好きな映画もたくさんあります。
それは、例えば「私、『鬼火』って映画が人生で一番好きで……」と言うきれいな女性がいたとしても、やっぱり『鬼火』なんか好きになれんのです。
それぐらい譲れないものです。それは、かの人にとっての好きな映画も譲れない、揺るぎないものなんでしょう。
それなら、自分の映画を誰かが嫌いな映画に挙げていたとしても、別にいいじゃないですか。笑ってすませれば。
どうも、近頃の社会は、「笑ってすませる」ことのできない大人がとても多くなったように感じるのは私だけでしょうか?

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