『オールド・オーク』(2023、イギリス・フランス・ベルギー)

脚本:ポール・ラヴァティ
監督:ケン・ローチ
出演:デイブ・ターナー、エブラ・マリ、クレア・ロッジャーソン、トレバー・フォックス
昔のケン・ローチはよかった。
といっている人がどれだけいるのか知りませんが、私は昔のケン・ローチ派です。特に一番最近の『わたしは、ダニエル・ブレイク』と『家族を想うとき』が気に入らなかったのでね。(参照記事⇒『家族を想うとき』感想(書いてはいけないタイプの脚本))
社会に対する問題意識や怒りといったものは創作には欠かせませんが、怒りのあまり目が涙で曇ってるんじゃないかと危惧していたのです。曇った目には正確な事象を捉えることは不可能です。だから「パトリシア・ハイスミスのような冷徹な目で」と願望したんですがね。
結論から申せば、今回のケン・ローチの目は涙で曇ったりしていなかった。でも、昔のケン・ローチはよかった。この気持ちは新作『オールド・オーク』を見ても変わりませんでした。
今度の怒りの矛先は

開巻早々いきなり出てくる、シリア人排斥派の男をはじめとした、現代社会を分断させている、日本で言えばネトウヨみたいな人たち。酒場オールド・オークの主にして映画の主人公TJはシリア難民やムスリムにもやさしいのですが、彼の友だちはみんな何のかんのといって「俺たちはあいつら(シリア人)にたくさんのものを奪われている」という被害者意識に凝り固まっている。
ここで大事なのは、ヤラというシリア難民のカメラを壊したまま平気で悪態をつくだけの男みたいに、イギリス人=悪、シリア人とその仲間TJ=善、という単純な図式にしているわけではないことです。「善と悪の対立」ではなく「善と善の対立」になっている。こういう作劇がドラマを深めるのだとある高名な脚本家から教えられました。
どうしても前作『家族を想うとき』がそんなような映画だったので危惧していたのですが、さすがはケン・ローチ、前作の穴を修正してきました。
TJの友人の一人は言います。
「俺がこの店の奥の間を使わせてほしいといってもお前は使わせてくれず恥をかかされた。なのになぜあいつらには簡単に使わせるのか」
そう言われたTJは返答できません。友人の言い分は正しいからです。TJは胸の内で「もっと困っている人がいるんだから」と思っているでしょうが、それも正しい。リベラルもネトウヨもどちらも「正しい」ことを言っている。どちらの言い分にも理がある。だから解決が難しい。
解決が難しいのに、この映画ではささやかな「解決」が描かれます。私が納得いかなかったのはここなんですよ。
是枝裕和=山田太一

脚本家の山田太一さんが亡くなったとき、『クローズアップ現代』で特集が組まれ、山田シナリオに影響を受けまくったらしい是枝裕和監督がスタジオに呼ばれました。
「是枝さんが山田さんの作品から学んだことって何ですか?」
「安直な解決を書かないことですね」
もう20年も前、私が『大義のパスポート』というシナリオを書いたとき、それこそもうめちゃくちゃ安直な解決をでっちあげてしまって、友人たちから責められましたが、『オールド・オーク』のラストってそれと同じじゃないですかね?
差別的言動の数々が描かれ、犬殺しが描かれ、友人たちとの不和が描かれ、ついには店の水道と電気が意図的に壊される。しかもその犯人のうちの一人がTJの友人だった。決定的な決裂です。
なのに、その友人をはじめ、間違った言動をしていた人たちがこぞってヤラの家まで花束をもちより、謝罪する。
あまりに結論を急ぎすぎじゃないでしょうか。これが遺作と公言しているケン・ローチが「希望」を見出したかったのは理解できます。
しかし、ヤラが言うように「希望は苦しみ」なんですよね。とってつけたような希望なんて、ヤラのような毎日が生きるか死ぬかみたいな人生を強要されている人たちにとっては害悪以外の何物でもないと思うんです。
厳しいことを言うようですが、途中までかなりいいと思っていただけに、あの結末には白けました。
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監督:ケン・ローチ
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昔のケン・ローチはよかった。
といっている人がどれだけいるのか知りませんが、私は昔のケン・ローチ派です。特に一番最近の『わたしは、ダニエル・ブレイク』と『家族を想うとき』が気に入らなかったのでね。(参照記事⇒『家族を想うとき』感想(書いてはいけないタイプの脚本))
社会に対する問題意識や怒りといったものは創作には欠かせませんが、怒りのあまり目が涙で曇ってるんじゃないかと危惧していたのです。曇った目には正確な事象を捉えることは不可能です。だから「パトリシア・ハイスミスのような冷徹な目で」と願望したんですがね。
結論から申せば、今回のケン・ローチの目は涙で曇ったりしていなかった。でも、昔のケン・ローチはよかった。この気持ちは新作『オールド・オーク』を見ても変わりませんでした。
今度の怒りの矛先は

開巻早々いきなり出てくる、シリア人排斥派の男をはじめとした、現代社会を分断させている、日本で言えばネトウヨみたいな人たち。酒場オールド・オークの主にして映画の主人公TJはシリア難民やムスリムにもやさしいのですが、彼の友だちはみんな何のかんのといって「俺たちはあいつら(シリア人)にたくさんのものを奪われている」という被害者意識に凝り固まっている。
ここで大事なのは、ヤラというシリア難民のカメラを壊したまま平気で悪態をつくだけの男みたいに、イギリス人=悪、シリア人とその仲間TJ=善、という単純な図式にしているわけではないことです。「善と悪の対立」ではなく「善と善の対立」になっている。こういう作劇がドラマを深めるのだとある高名な脚本家から教えられました。
どうしても前作『家族を想うとき』がそんなような映画だったので危惧していたのですが、さすがはケン・ローチ、前作の穴を修正してきました。
TJの友人の一人は言います。
「俺がこの店の奥の間を使わせてほしいといってもお前は使わせてくれず恥をかかされた。なのになぜあいつらには簡単に使わせるのか」
そう言われたTJは返答できません。友人の言い分は正しいからです。TJは胸の内で「もっと困っている人がいるんだから」と思っているでしょうが、それも正しい。リベラルもネトウヨもどちらも「正しい」ことを言っている。どちらの言い分にも理がある。だから解決が難しい。
解決が難しいのに、この映画ではささやかな「解決」が描かれます。私が納得いかなかったのはここなんですよ。
是枝裕和=山田太一

脚本家の山田太一さんが亡くなったとき、『クローズアップ現代』で特集が組まれ、山田シナリオに影響を受けまくったらしい是枝裕和監督がスタジオに呼ばれました。
「是枝さんが山田さんの作品から学んだことって何ですか?」
「安直な解決を書かないことですね」
もう20年も前、私が『大義のパスポート』というシナリオを書いたとき、それこそもうめちゃくちゃ安直な解決をでっちあげてしまって、友人たちから責められましたが、『オールド・オーク』のラストってそれと同じじゃないですかね?
差別的言動の数々が描かれ、犬殺しが描かれ、友人たちとの不和が描かれ、ついには店の水道と電気が意図的に壊される。しかもその犯人のうちの一人がTJの友人だった。決定的な決裂です。
なのに、その友人をはじめ、間違った言動をしていた人たちがこぞってヤラの家まで花束をもちより、謝罪する。
あまりに結論を急ぎすぎじゃないでしょうか。これが遺作と公言しているケン・ローチが「希望」を見出したかったのは理解できます。
しかし、ヤラが言うように「希望は苦しみ」なんですよね。とってつけたような希望なんて、ヤラのような毎日が生きるか死ぬかみたいな人生を強要されている人たちにとっては害悪以外の何物でもないと思うんです。
厳しいことを言うようですが、途中までかなりいいと思っていただけに、あの結末には白けました。
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