現在のところ永野芽郁の最後の出演作である『かくかくしかじか』を見ました。マンガ家・東村アキコの自伝的作品とのこと。監督があの快作『地獄の花園』の関和亮監督ということで期待していたんですが、これが期待を上回る大傑作でした。(以下ネタバレあり)
『かくかくしかじか』(2025、日本)

原作:東村アキコ
脚本:東村アキコ&伊達さん
出演:永野芽郁、大泉洋、見上愛、畑芽育、神尾楓珠、津田健次郎、MEGUMI、大森南朋
難病?

この映画の物語をたった一言で言うなら、
「マンガ家志望の女の子が夢を叶えるお話」
となるのでしょうが、映画を見てない人からしたら「そんな映画のどこが面白いの?」ということになりそうです。何の障害もなさそうだから。
実際、障害はないんですよね。美大を出たけど就職はできず、無理やり入れられた父親の会社のコールセンターが地獄でそこから逃げるためにマンガを描いたらいきなり三席の入選。充分才能も実力もある。だから、永野芽郁の前にあるのはあるのは障害じゃなくて「難病」なんです。
難病??? と思う向きもあるかもしれませんが、もう少しだけお付き合いください。
主人公の永野芽郁は、幼いころに「将来はマンガ家になる」と決めたんですが、いっこうに書く気配がない。最終的に恩師と言える存在になる大泉洋の絵画教室に入ると何とかデッサンなどは描けるけれど、漫画は描けない。
その後数年たっても、コールセンターから逃げるためにマンガを描き始めるまで、美大に行ってるときもまったく漫画は描かない。いくら電話で大泉洋から「描け」としつこく言われても描く気配がない。
それでも、たまに宮崎に帰って大泉洋の教室に行くとデッサンが描ける。
描きたいけど描けない、机に向かうことすらできないという意味で「難病もの」なのかなと思いました。
病気

難病、つまり病気はキャラクターじゃないと私はこのブログで再三再四言ってきました。他にも「癖」なんかもキャラクター=性格ではないと言い続けてきました。
生きづらさを描いた映画という触れ込みの映画が昨今増えていますが、そういうのってたいてい、主人公が病人とか障害者なんですよね。『夜明けのすべて』がそうだったし、他にもたくさんあります。発達障害とかパニック障害とか自閉症スペクトラム障害とか。
生きづらさを抱えた人なんてほぼ全員なわけで、それをとりわけ病人・障害者にスポットを当てて取り上げるのは、なんか違うんじゃないかなぁと思っていたわけです。私自身が病人でありながら。
生きづらさ

生きづらさというのは、病気で体が思うように動かないとかそういうことではなく、大泉洋のようなスパルタ教師がいないと描けない、あるいはもっと言えば、どうしても大泉洋というキャラクターをもてあまして傷つけてしまったんじゃないか、自分の対応はバカだったんじゃないかと思い悩んだり、晴れてマンガ家としてデビューして初めて「最初からマンガ家になりたかったんよ」と告白したり、それまでは言いたくても言えなかったり、という、そういう「心の葛藤」を「生きづらさ」と言うんじゃないでしょうか。
大泉洋が「描け、描け」としつこく言うのに辟易していたけど、あれは愛情だったんだと彼が死んでから気づくときの永野芽郁の涙は非常に美しい。
先生の愛情に少しも応えてあげられなかった、という悔恨とともにそれからの人生を生きていかねばならない永野芽郁のつらさ。それが生きづらさではないのか、と。病気を設定したりするのではなく。
難病ものに見えるけど主人公の心も体も健康であるとき、それは本当の「生きづらさ」を描いた映画なのかもしれません。
『かくかくしかじか』(2025、日本)

原作:東村アキコ
脚本:東村アキコ&伊達さん
出演:永野芽郁、大泉洋、見上愛、畑芽育、神尾楓珠、津田健次郎、MEGUMI、大森南朋
難病?

この映画の物語をたった一言で言うなら、
「マンガ家志望の女の子が夢を叶えるお話」
となるのでしょうが、映画を見てない人からしたら「そんな映画のどこが面白いの?」ということになりそうです。何の障害もなさそうだから。
実際、障害はないんですよね。美大を出たけど就職はできず、無理やり入れられた父親の会社のコールセンターが地獄でそこから逃げるためにマンガを描いたらいきなり三席の入選。充分才能も実力もある。だから、永野芽郁の前にあるのはあるのは障害じゃなくて「難病」なんです。
難病??? と思う向きもあるかもしれませんが、もう少しだけお付き合いください。
主人公の永野芽郁は、幼いころに「将来はマンガ家になる」と決めたんですが、いっこうに書く気配がない。最終的に恩師と言える存在になる大泉洋の絵画教室に入ると何とかデッサンなどは描けるけれど、漫画は描けない。
その後数年たっても、コールセンターから逃げるためにマンガを描き始めるまで、美大に行ってるときもまったく漫画は描かない。いくら電話で大泉洋から「描け」としつこく言われても描く気配がない。
それでも、たまに宮崎に帰って大泉洋の教室に行くとデッサンが描ける。
描きたいけど描けない、机に向かうことすらできないという意味で「難病もの」なのかなと思いました。
病気

難病、つまり病気はキャラクターじゃないと私はこのブログで再三再四言ってきました。他にも「癖」なんかもキャラクター=性格ではないと言い続けてきました。
生きづらさを描いた映画という触れ込みの映画が昨今増えていますが、そういうのってたいてい、主人公が病人とか障害者なんですよね。『夜明けのすべて』がそうだったし、他にもたくさんあります。発達障害とかパニック障害とか自閉症スペクトラム障害とか。
生きづらさを抱えた人なんてほぼ全員なわけで、それをとりわけ病人・障害者にスポットを当てて取り上げるのは、なんか違うんじゃないかなぁと思っていたわけです。私自身が病人でありながら。
生きづらさ

生きづらさというのは、病気で体が思うように動かないとかそういうことではなく、大泉洋のようなスパルタ教師がいないと描けない、あるいはもっと言えば、どうしても大泉洋というキャラクターをもてあまして傷つけてしまったんじゃないか、自分の対応はバカだったんじゃないかと思い悩んだり、晴れてマンガ家としてデビューして初めて「最初からマンガ家になりたかったんよ」と告白したり、それまでは言いたくても言えなかったり、という、そういう「心の葛藤」を「生きづらさ」と言うんじゃないでしょうか。
大泉洋が「描け、描け」としつこく言うのに辟易していたけど、あれは愛情だったんだと彼が死んでから気づくときの永野芽郁の涙は非常に美しい。
先生の愛情に少しも応えてあげられなかった、という悔恨とともにそれからの人生を生きていかねばならない永野芽郁のつらさ。それが生きづらさではないのか、と。病気を設定したりするのではなく。
難病ものに見えるけど主人公の心も体も健康であるとき、それは本当の「生きづらさ」を描いた映画なのかもしれません。

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