ふと思い出したことがあったので、備忘録的に書き残します。


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あれは30年以上前の冬。映画の専門学校で一年が過ぎようとしていたとき、卒業製作をどういうふうに作るのか、飲み屋で議論になりました。

・班分けをどうするのか
・物語は誰が決めるのか

などなど。

班分けはプロデューサーコースで似た考え方の持ち主同士が結びついて、彼らが監督コースや脚本家コースの面々から目ぼしい者を選んでいくという形でした。私は録音と編集だったので関係ないですが。

問題は物語というか、プロットをどうするか、でした。

プロデューサーが勝手に決めるのか、それとも広く募集して多くの票を集めたプロットに決めるのか。

後者は問題ありとされました。なぜなら、票を多く集めて決定したプロットを書いた人の独裁になるから、と。

私はおかしいと思いましたね。

そんなの、自分が書いたプロットを守っているだけです。もっと果敢に攻めなければならない。と思った私は、ちょうどその頃、友人が撮った自主製作映画の編集に臨みました。

で、私自身が出演していたシーンで、私が長く映っていたカットをほぼすべてオミットしました。監督の友人は「あの決断をしたときのおまえを抱きしめたかった」と言いましたが、それって自分が映っているカットは採用するのが当たり前ということでしょう? 編集マンの私の独裁によって自分が映ったカットを採用する、と。

それっておかしくないですか? だって、それってやっぱり自分を守っているだけだから。守るべきは作品であって自分ではないはず。

みんな胸の内に「独裁したい」という気持ちがあるからこそ、採用されたプロットを書いた人間の独裁になってしまうというと、全員が押し黙ってしまっていたわけですね。

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くだんの友人には、それから10年近くたって、またも自主製作映画のシナリオを頼まれましたが、私は断りました。

なぜなら、彼が「すべて俺の言うとおりにしてほしい」と言ったからです。

誰かの言うとおりに書くのなら、ただの「代筆」です。最初から自分で書けばよろしい。私が書く以上は私の色を出したい。でもそれはだめだという。お話になりません。

撮影現場で働いていたとき、ワンカットごとにレンズを換えるカメラマンがいました。監督と事前にどの程度まで打ち合わせできていたのか知りませんが、あれはほとんど独断でしょう。

監督はそういう我の強いスタッフたちと渡り合っていかねばならない。それがおまえにできるのか、と問うと、「おまえのせいで自主製作できない」と泣き言を言っていました。自分で書け。

映画で独裁なんてできないし、やっても失敗に終わるだけです。







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