「映画は映画館で見るべきもの」と主張する人たちがいます。

有名どころではスピルバーグとかトム・クルーズとか。もう亡くなったけど、ウド・キアーの唯一のツイートも「映画はネットフリックスなどで配信されるべきではない。映画館の暗闇で見るべし」という内容のものだったとか。

私もかつてはそうでした。(参照記事⇒やはり映画は映画館で見たほうがいいと思う理由

かつては、ということは、いまはそうではないということです。


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3年前に罹患した病気のせいで体力を殺がれ、なかなか劇場に行きにくい体になってしまったというのもあります。貧乏だというのももちろん理由のうちです。

しかし、それにもまして映画館から足が遠のいている最大の理由は、「別に配信でもいいんじゃない?」と思うからです。

上の参照記事では、「映画館は己がどれだけ他人と違う価値観をもっているかを思い知らされる場所だ」という主張をしていますが、それはいまでも有効な考え方だとは思うものの、私が考えを変えるに至るうえで決定的だったのは、ある人の次のようなツイートです。

「自分は映画館に年に2,3回しか行けないけど、映画が好きだと胸を張って言える」

このツイートをした人はすごく映画に詳しいので、年に2,3回というのはめちゃ意外でしたけど、そういうもんなんだろうと思った。このツイートを読んで、私は、「映画館は映画館で見るべき」という考え方はただの「抑圧」じゃないかと思いました。

映画館で映画を見ない奴、配信で見るような輩は映画ファンにあらず。

シネフィルおじさんじゃないけど、1000本見てないような奴、『○○(タイトル)』を見てない奴は映画ファンとは言えないというのもただの抑圧だろうし、映画を配信やDVDでばかり見る奴は映画への愛が足りない、みたいな。

いや、私も昔はそう思ってんたんですよ。だから、もう30年前、ベルトルッチの『1900年』がリバイバルされたときの特別料金が確か2500円で(いまならもっと高いだろうが)そのお金を払って名作を見た映画専門学校の友人が、その直後にVHSが発売されて「ビデオで見ればよかった」と言っていたのを見て「何という不届き者か」と腹立たしい思いになった。

映画専門学校といえば、自主製作でいろいろ撮ったり録ったり繋いだり切ったりしたが、「フィルムで撮らないと映画愛が足りない」みたいなイデオロギーが支配的でした。

あれと同じだと思うんですよ。配信で見るばかりはだめ、映画館へ行かなきゃというのは。


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いまでは映画館に月に2,3本しか行けなくなってしまいましたが、そのぶん配信で補えばいいじゃない。そりゃ家のテレビで見たら大画面大音響はないけど、代わりにマナーにうるさい人、「エンドロールまで見ない人は映画愛が足りない」(これも抑圧でありただのイデオロギー)という人もいない。

じゃあ、基本的に家で見てたまに劇場体験を愉しめばいいのではないか、というのが、いまの私の考え方。これも「抑圧」? そうかなぁ。

映画館は危機的状況に瀕しており、映画館を救うためにもチケットを買おうポップコーン買おうみたいな論調があるけど、先に言ったように私は金がないし、あったとしても、映画館を救うために生きているわけではない。そんなの一年に一度も映画館へ行かない人からすれば「当たり前」なことでしょう。

だから申し訳ないが映画館を救うためにチケットを買うことはできない。それじゃあジリ貧? 確かに近くの名画座はまた値上げしたそうな。またかという感じというか、つぶれてしまうのでは? と心配になるが、それも仕方のないことではなかろうか。

かつて、リュミエール兄弟がシネマトグラフを発明したとき、大スクリーンに映像を投射する仕掛けだったのがいまに残っているのだけれど、エジソンが発明した「映画」(キネトスコープでしたっけ?)はのぞき穴の中を覗いて自分でフィルムを巻いて見る仕掛けだった。

のぞき穴をテレビにかえればいまの配信で映画を見る形じゃないですか。独りで見て独りで愉しむというところはまったく一緒。

シネマトグラフはいずれ淘汰される。そのあとは100何十年かぶりにキネトスコープが復権するのでは? 

少なくとも「映画は映画館で」というイデオロギーもまた淘汰されることは確実だということです。


新編 われわれはなぜ映画館にいるのか
小林 信彦
キネマ旬報社
2013-03-30


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