映画はかつてブルーカラーのものでした。
百姓、漁師、猟師、工員、機関士、車掌、港湾労働者、看護婦、刑事、兵隊、やくざ、娼婦、etc.
でも、いまは映画でもテレビドラマでも、そしておそらく小説でも、フィクションに出てくる人物はホワイトカラーばかりです。プレゼンだの納期だの、そんなことばかり言っている。
私は、それはなぜかということをずっと考えてきました。
サイレント映画

バスター・キートンの映画を見れば一目でわかりますが、サイレント映画では「動き」が何よりもものを言い、「言葉」はできるだけ少ないほうが価値が高かった、という背景があるので、難しい顔をしてオフィスで座っている人を描くのではなく、機関車と並走する機関士とか、花嫁に追いかけられる御曹司とかが描かれました。チャップリンもそうだし、彼らを模範としたジャッキー・チェンもそう。
しかし、いつからかブルーカラーの主人公が減り、ホワイトカラーが幅を利かせるようになりました。
ひとつには、この国では肉体労働より頭脳労働のほうが給料もいいし社会的な地位も高くなったから、というのが挙げられましょう。みんながみんなホワイトカラーになりたがる。
ロマンポルノ

しかしながら、「映画史」という流れのなかでは、もう少し違う視点が必要なように思います。
それは日活ロマンポルノです。その第1作『団地妻 昼下りの情事』を見直してみました。
驚いたことに、ここで描かれるのは、ブルーカラーの妻とホワイトカラーの夫の対立、もっといえば、ホワイトカラーがブルーカラーを軽蔑する様子であり、いまの社会のおかしいところが如実に反映されているのでした。
主人公の人妻・白川和子は、夫・浜口竜哉との情事に不満を抱えており、それを隣人の悪女に利用されて娼婦になります。そして、外国人接待で女性をあたがおうと考えた浜口竜哉が白川和子を雇ってしまう、そこからの破滅で幕を閉じます。
この映画の浜口竜哉は明らかに仕事をしておりません。書類を見るか電話するか上司に叱られるかしかしていない。あとは取引先に女をあてがうだけ。それがホワイトカラーの現実だよ、と製作者たちが言っているようです。『アメリカン・サイコ』の主人公とその周辺の人物たちも明らかに仕事してませんでしたが、それと同じでしょう。ブルシット・ジョブというやつですね。
そんな「何もしていないホワイトカラー」が、自分が雇ったブルーカラーが妻だったというだけで、俺こそ正義だとばかり怒りの鉄槌を下します。どっちもどっちだというのに。
セックスは肉体の営みです。娼婦ともなればそれが「労働」となります。
後ろ指さされる仕事かもしれないけれど、でも「世界最古の職業」と言われるように、なくてはならない仕事なのです。夫が下半身接待で娼婦を雇おうとしたのも「なくてはならない仕事」だからです。妻=娼婦はエッセンシャルワーカーなのです。逆に夫は何も仕事をしてないのだからエッセンシャルワーカーではありません。労働者ですらないかもしれない。それは言いすぎか。(笑)
この『団地妻 昼下りの情事』は、明らかにブルーカラー=エッセンシャルワーカーを礼賛し、ホワイトカラー=ブルシット・ワーカーを侮蔑しています。まだしも押し売りのほうが会社員より人間臭くてましだよ、みたいな描き方をしています。
ブルーカラー=エッセンシャルワーカー=なくてはならない職業
ホワイトカラー=非エッセンシャルワーカー=ブルシット・ワーカー
であるならば、そのブルーカラーが映画の世界から排除され、ブルシット・ワーカーばかりが画面にひしめいているのは、由々しき事態と言えるでしょう。
しかしながら、私はブルーカラーとしてもホワイトカラーとしても働いてきましたが、ホワイトカラーの人たちはブルーカラーを明らかに馬鹿にしています。工場勤めよりオフィスワークのほうが尊いと思っている。
『団地妻 昼下りの情事』は主役であるエッセンシャルワーカー=白川和子を礼賛する映画です。最後は彼女が天罰を受けるかのように自動車事故で死にますが、あれは「ロマンポルノ第1作」ということで、セックスにうつつを抜かしていると不幸になるよというメッセージを打ち出さないと当局から目をつけられてしまう、とか、そういう配慮がなされたからでしょう。
では、なぜ映画史でロマンポルノがブルーカラー映画の起点となったのか。
それはやはり、ブルシット・ワーカー=浜口竜哉が「男」だからでしょう。いくら女やその最古の職業・娼婦を礼賛しても、男社会の当時では(いまでも)女に注目せず男に注目したのでしょう。

団地に住んでいる会社員でも描き方次第では映画になるぞ!
と考えた映画人がたくさんいたと思われます。
そして、いまでは映画よりテレビドラマで顕著ですが、女性のホワイトカラー登場人物がとても多い。そして、娼婦のような汚れ役は流行らない時代となってしまいました。(その代わり、「男娼」を描く映画は昔に比べれば増えましたね)
この国はいまだに男社会であり、ブルシット・ワーカーを珍重するけったいな国のようです。
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『女教師』の神話的構造
『天使のはらわた 赤い教室』は内部告発の映画である
『花と蛇』神々しい悪魔=谷ナオミ
『妻たちの性体験 夫の眼の前で、今……』(客体から主体へと逆襲する女)
『昼下りの情事 すすり泣き』感想(蟻地獄から抜けられない女の哀しい性)
『白い指の戯れ』感想(ギフトを受けた者への讃歌)
『新・団地妻 ブルーフィルムの女』感想(女を所有物としか見ない男たちの群れ)
『セーラー服色情飼育』を見て『悪魔のいけにえ』を想起する
百姓、漁師、猟師、工員、機関士、車掌、港湾労働者、看護婦、刑事、兵隊、やくざ、娼婦、etc.
でも、いまは映画でもテレビドラマでも、そしておそらく小説でも、フィクションに出てくる人物はホワイトカラーばかりです。プレゼンだの納期だの、そんなことばかり言っている。
私は、それはなぜかということをずっと考えてきました。
サイレント映画

バスター・キートンの映画を見れば一目でわかりますが、サイレント映画では「動き」が何よりもものを言い、「言葉」はできるだけ少ないほうが価値が高かった、という背景があるので、難しい顔をしてオフィスで座っている人を描くのではなく、機関車と並走する機関士とか、花嫁に追いかけられる御曹司とかが描かれました。チャップリンもそうだし、彼らを模範としたジャッキー・チェンもそう。
しかし、いつからかブルーカラーの主人公が減り、ホワイトカラーが幅を利かせるようになりました。
ひとつには、この国では肉体労働より頭脳労働のほうが給料もいいし社会的な地位も高くなったから、というのが挙げられましょう。みんながみんなホワイトカラーになりたがる。
ロマンポルノ

しかしながら、「映画史」という流れのなかでは、もう少し違う視点が必要なように思います。
それは日活ロマンポルノです。その第1作『団地妻 昼下りの情事』を見直してみました。
驚いたことに、ここで描かれるのは、ブルーカラーの妻とホワイトカラーの夫の対立、もっといえば、ホワイトカラーがブルーカラーを軽蔑する様子であり、いまの社会のおかしいところが如実に反映されているのでした。
主人公の人妻・白川和子は、夫・浜口竜哉との情事に不満を抱えており、それを隣人の悪女に利用されて娼婦になります。そして、外国人接待で女性をあたがおうと考えた浜口竜哉が白川和子を雇ってしまう、そこからの破滅で幕を閉じます。
この映画の浜口竜哉は明らかに仕事をしておりません。書類を見るか電話するか上司に叱られるかしかしていない。あとは取引先に女をあてがうだけ。それがホワイトカラーの現実だよ、と製作者たちが言っているようです。『アメリカン・サイコ』の主人公とその周辺の人物たちも明らかに仕事してませんでしたが、それと同じでしょう。ブルシット・ジョブというやつですね。
そんな「何もしていないホワイトカラー」が、自分が雇ったブルーカラーが妻だったというだけで、俺こそ正義だとばかり怒りの鉄槌を下します。どっちもどっちだというのに。
セックスは肉体の営みです。娼婦ともなればそれが「労働」となります。
後ろ指さされる仕事かもしれないけれど、でも「世界最古の職業」と言われるように、なくてはならない仕事なのです。夫が下半身接待で娼婦を雇おうとしたのも「なくてはならない仕事」だからです。妻=娼婦はエッセンシャルワーカーなのです。逆に夫は何も仕事をしてないのだからエッセンシャルワーカーではありません。労働者ですらないかもしれない。それは言いすぎか。(笑)
この『団地妻 昼下りの情事』は、明らかにブルーカラー=エッセンシャルワーカーを礼賛し、ホワイトカラー=ブルシット・ワーカーを侮蔑しています。まだしも押し売りのほうが会社員より人間臭くてましだよ、みたいな描き方をしています。
ブルーカラー=エッセンシャルワーカー=なくてはならない職業
ホワイトカラー=非エッセンシャルワーカー=ブルシット・ワーカー
であるならば、そのブルーカラーが映画の世界から排除され、ブルシット・ワーカーばかりが画面にひしめいているのは、由々しき事態と言えるでしょう。
しかしながら、私はブルーカラーとしてもホワイトカラーとしても働いてきましたが、ホワイトカラーの人たちはブルーカラーを明らかに馬鹿にしています。工場勤めよりオフィスワークのほうが尊いと思っている。
『団地妻 昼下りの情事』は主役であるエッセンシャルワーカー=白川和子を礼賛する映画です。最後は彼女が天罰を受けるかのように自動車事故で死にますが、あれは「ロマンポルノ第1作」ということで、セックスにうつつを抜かしていると不幸になるよというメッセージを打ち出さないと当局から目をつけられてしまう、とか、そういう配慮がなされたからでしょう。
では、なぜ映画史でロマンポルノがブルーカラー映画の起点となったのか。
それはやはり、ブルシット・ワーカー=浜口竜哉が「男」だからでしょう。いくら女やその最古の職業・娼婦を礼賛しても、男社会の当時では(いまでも)女に注目せず男に注目したのでしょう。

団地に住んでいる会社員でも描き方次第では映画になるぞ!
と考えた映画人がたくさんいたと思われます。
そして、いまでは映画よりテレビドラマで顕著ですが、女性のホワイトカラー登場人物がとても多い。そして、娼婦のような汚れ役は流行らない時代となってしまいました。(その代わり、「男娼」を描く映画は昔に比べれば増えましたね)
この国はいまだに男社会であり、ブルシット・ワーカーを珍重するけったいな国のようです。
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