『お探し物は図書室まで』(青山美智子、2020)

鈴木保奈美の『あの本、読みました?』で取り上げられていたので読んでみました。(以下ネタバレあり)
いいな、と思うところと、これはちょっと、と思うところといろいろな感情にまみれました。
五編の短編から成る連作集なんですが、共通するのが、主人公が仕事や人生に悩みをもっていて、その状態で同じ区民センターみたいなところの中にある図書室に行くと、小町さゆりというベテラン司書がいて、主人公の何でもない言葉の端々から、いまこの人はどんな境涯にあって、どんな本を読めば処方箋になるかを考えて、頼んだ本より1冊多く、「よけいな本」を貸してくれる。
その「よけいな本」がまさに主人公を癒してくれたり、新たな指針となってくれたりする(内田樹先生が言う「おせっかい」ですね)。屋台の親父に人生を教えられるみたいなシーンが映画やテレビドラマにありますが、あの屋台の親父を「司書」にしたみたいな感じでしょうか。
一章「朋香 二十一歳 婦人服販売員」はちょっとげんなりしました。
いや、朋香が小町さゆりに『ぐりとぐら』を貸してもらって、「仕事は協力してやっていけばいい」という当たり前だが大切なことに気づく結末などは好きなんです。
あまり感心しないのは、朋香の地元の友人の沙耶という女性の存在。電話やメールでやりとりするだけで、登場しません。私は村田沙耶香さんのような「沙耶」とか「沙耶香」とかの名前が好きなので、どんな女性なんだろうと期待してたから、最後まで登場しないのでがっかり拍子抜けでした。
沙耶が、何だか作者に都合のいい人物に思えます。愛情をもっているんだったら登場させてあげてほしい。それに、登場しなかったら、本当にこの沙耶が存在しているのかどうか怪しくなってきます。AIだったりしてね。
二章「諒 三十五歳 家具メーカー経理部」
やりたくない仕事をしている主人公は、最強司書・小町さゆりのもとへ行き、「いつか雑貨屋をやりたいんです。アンティークの」というと、小町さゆりは「いつか」とそこだけ復唱する。
この「いつか」というのは魔物で、絶対言っちゃいけないし、思ってもいけない言葉なんですよね。
高校時代の友人にもいました。「いつかミステリの本を書きたい」と言っていた奴。「いつか○○したい」というのは小町さゆりが言うとおり、「いつかって言っている間は夢は終わらない。美しい夢のままずっと続く」
そうなんですよ。「いつか○○したい」と言っていると、いつまでたっても○○できないんです。私は最初の映画専門学校へ行く前、すでにシナリオを書いてましたよ。見よう見まねで。いまじゃとても読み返せる代物じゃなかったでしょうが、それでも映画を作りたかったから落書きから始めた。
そう、落書きが大事。子どもの頃、絵を描きたいと思ったらまず落書きから始めましたよね。「絵の描き方」みたいな本を読んだり、それこそ「いつか絵を描きたい」と言ったりしなかった。まず落書きから始めた。
高校時代の友人はあれから落書きを始めたのかどうか知りませんが、結局最後まで書いた作品はないようです。かく言う私も「いつか源氏物語を読みたい」と言ってましたが、『あの本、読みました?」で最適な読み方を指南していただき、本腰を入れて読むことにしました。「いつか」はもうやめる。
四章 「浩弥 三十歳 ニート」
うーん、だからこういうのはねぇ。無職の人間が有職になる。ニートがニートを脱却する。あまりにつまらない。『俺の話は長い』や『0.5の男』と一緒。いつも言っているように、「あなたは何の役にも立っていない。でも、そんなあなたが大切なのだ」という視点に立脚しないと、ニートに対する本当の愛情は描けないと思うんですよね。職に就けたからめでたしめでたし、ではね。
でも、この小説の場合、主人公自身がニートであることに後ろめたさを憶えており、脱却したいと考えているからこれでいいのか、ともちらっと考えたけど、やっぱり無職が有職になるという安易さが許せない。
五章「正雄 六十五歳 定年退職」
この「定年退職」という言葉に作者の思想が現れていると思います。
だって、「定年退職」ということは「無職」ですよね。「ニート」と何が違うの? 定年まで働いたというだけで現在地は無職でしょう?
それを三十歳で無職なら「ニート」、定年退職後ならそうは書かない。言っておきますが、これは少しも間違っておらず、正しいです。でも、その正しさがニートの人々を深く傷つけていることには、もう少し自覚的であったほうがいいと思う。「若いのに」「働けるのに」という言葉がいくつもいくつもこの手の思想の裏に隠れている。そのような「凶器がひそむ言葉」に傷ついたからニートになったんだから、同じこと言っても症状が悪化するだけです。
あと、正しいといえば、こんな記述。
「わたしが生まれた日と、ここに立っている今日、そしてこれから来るたくさんの明日。
どの日だって一日の大切さになんの違いもない」
これは圧倒的に正しい。が、そうであるがゆえに、非常に胡散臭い。
私たちは、このような「正論」を駆逐していくために生きているのではなかったか。
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いいな、と思うところと、これはちょっと、と思うところといろいろな感情にまみれました。
五編の短編から成る連作集なんですが、共通するのが、主人公が仕事や人生に悩みをもっていて、その状態で同じ区民センターみたいなところの中にある図書室に行くと、小町さゆりというベテラン司書がいて、主人公の何でもない言葉の端々から、いまこの人はどんな境涯にあって、どんな本を読めば処方箋になるかを考えて、頼んだ本より1冊多く、「よけいな本」を貸してくれる。
その「よけいな本」がまさに主人公を癒してくれたり、新たな指針となってくれたりする(内田樹先生が言う「おせっかい」ですね)。屋台の親父に人生を教えられるみたいなシーンが映画やテレビドラマにありますが、あの屋台の親父を「司書」にしたみたいな感じでしょうか。
一章「朋香 二十一歳 婦人服販売員」はちょっとげんなりしました。
いや、朋香が小町さゆりに『ぐりとぐら』を貸してもらって、「仕事は協力してやっていけばいい」という当たり前だが大切なことに気づく結末などは好きなんです。
あまり感心しないのは、朋香の地元の友人の沙耶という女性の存在。電話やメールでやりとりするだけで、登場しません。私は村田沙耶香さんのような「沙耶」とか「沙耶香」とかの名前が好きなので、どんな女性なんだろうと期待してたから、最後まで登場しないのでがっかり拍子抜けでした。
沙耶が、何だか作者に都合のいい人物に思えます。愛情をもっているんだったら登場させてあげてほしい。それに、登場しなかったら、本当にこの沙耶が存在しているのかどうか怪しくなってきます。AIだったりしてね。
二章「諒 三十五歳 家具メーカー経理部」
やりたくない仕事をしている主人公は、最強司書・小町さゆりのもとへ行き、「いつか雑貨屋をやりたいんです。アンティークの」というと、小町さゆりは「いつか」とそこだけ復唱する。
この「いつか」というのは魔物で、絶対言っちゃいけないし、思ってもいけない言葉なんですよね。
高校時代の友人にもいました。「いつかミステリの本を書きたい」と言っていた奴。「いつか○○したい」というのは小町さゆりが言うとおり、「いつかって言っている間は夢は終わらない。美しい夢のままずっと続く」
そうなんですよ。「いつか○○したい」と言っていると、いつまでたっても○○できないんです。私は最初の映画専門学校へ行く前、すでにシナリオを書いてましたよ。見よう見まねで。いまじゃとても読み返せる代物じゃなかったでしょうが、それでも映画を作りたかったから落書きから始めた。
そう、落書きが大事。子どもの頃、絵を描きたいと思ったらまず落書きから始めましたよね。「絵の描き方」みたいな本を読んだり、それこそ「いつか絵を描きたい」と言ったりしなかった。まず落書きから始めた。
高校時代の友人はあれから落書きを始めたのかどうか知りませんが、結局最後まで書いた作品はないようです。かく言う私も「いつか源氏物語を読みたい」と言ってましたが、『あの本、読みました?」で最適な読み方を指南していただき、本腰を入れて読むことにしました。「いつか」はもうやめる。
四章 「浩弥 三十歳 ニート」
うーん、だからこういうのはねぇ。無職の人間が有職になる。ニートがニートを脱却する。あまりにつまらない。『俺の話は長い』や『0.5の男』と一緒。いつも言っているように、「あなたは何の役にも立っていない。でも、そんなあなたが大切なのだ」という視点に立脚しないと、ニートに対する本当の愛情は描けないと思うんですよね。職に就けたからめでたしめでたし、ではね。
でも、この小説の場合、主人公自身がニートであることに後ろめたさを憶えており、脱却したいと考えているからこれでいいのか、ともちらっと考えたけど、やっぱり無職が有職になるという安易さが許せない。
五章「正雄 六十五歳 定年退職」
この「定年退職」という言葉に作者の思想が現れていると思います。
だって、「定年退職」ということは「無職」ですよね。「ニート」と何が違うの? 定年まで働いたというだけで現在地は無職でしょう?
それを三十歳で無職なら「ニート」、定年退職後ならそうは書かない。言っておきますが、これは少しも間違っておらず、正しいです。でも、その正しさがニートの人々を深く傷つけていることには、もう少し自覚的であったほうがいいと思う。「若いのに」「働けるのに」という言葉がいくつもいくつもこの手の思想の裏に隠れている。そのような「凶器がひそむ言葉」に傷ついたからニートになったんだから、同じこと言っても症状が悪化するだけです。
あと、正しいといえば、こんな記述。
「わたしが生まれた日と、ここに立っている今日、そしてこれから来るたくさんの明日。
どの日だって一日の大切さになんの違いもない」
これは圧倒的に正しい。が、そうであるがゆえに、非常に胡散臭い。
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