『俺の話は長い ~2025・春~』(前後編)

脚本:金子茂樹
出演:生田斗真、小池栄子、安田顕、清原果耶、原田美枝子、杉野遥亮、西村まさ彦
あるべき「引きこもりドラマ」とは
2020年に連続ドラマとして放送された、生田斗真が引きこもりのニートを演じる『俺の話は長い』が、『俺の話は長い ~2025・春~』(前後編)として帰ってきました。もちろん、脚本は金子茂樹さんです。
5年前のの連ドラを見ていた人がどれだけいるのかわかりませんが、続編ができるのだからそれなりにファンは多かったのでしょう。私は最終回以外はとても面白く見ました。
あの最終回は、それまでニートのくせに人一倍偉そうで口ばかり達者な生田斗真が、面接に赴くというハッピーエンドが描かれていました。
私は、もともと引きこもりを題材にした作品にいつも言うことですが、引きこもりが引きこもりを脱したからよかったね、という結末のつけ方はとても安易に感じられます。
だから、生田斗真が就職できたけれど、すぐ辞めたという今回の初期設定はいいと思います。でも結局、今度は実家に併設された、母親が営んでいたがいまは休業中の喫茶店『ポラリス』を継ぐと言い出して幕を閉じる。
私は喜ぶと同時にがっかりしました。
なぜ喜んだか。ニートがニートを卒業するハッピーエンドが嫌いなのに?
『ローリングガール』

去年、かなりの小規模公開だった韓国映画に『ローリングガール』というのがありました。生田斗真と同じく、引きこもりでニートの少女が主人公。で、その少女が、コロナ禍をきっかけに実家の生業であるキンパ店を継ぐことになる、というささやかなハッピーエンドでした。
手に職はつけたけど、まだ実家暮らし。いつでもお母さんに甘えられる。もともと開店休業状態だったのだから、辞めたければいつでも辞められる。
ニートは脱したけど、半分脱してない。いつでも戻れる可能性を残している。あの「ぬるさ」が絶妙でした。作者たちが主人公に寄り添っている感じがして好感をもちました。
翻って、『俺の話は長い』に話を戻すと、生田斗真がもともとやっていた喫茶店の仕事に戻る。が、その喫茶店は実家にあるということで、『ローリングガール』と同じだと最初は思ったんですが、ちょっと違うと思うのです。

原田美枝子が「ポラリス」ともども実家を売ろうとして、生田斗真がすんでのところで止めるのですが、あんなことをした以上は生田斗真は辞めたくなっても辞められませんよね。しかも彼が店を継ぐのはいまは亡き父親が渇望していたことだったと来ては、もう背水の陣です。
それぐらい逃げ場をなくしたほうがいいですって? それは違うと思う。
『雨の日の心理学』
いま、東畑開人という臨床心理士が書いた『雨の日の心理学』という本を読んでるんですが、いいことが書いてあります。
心を病んだ人には「ケア」と「セラピー」の二つがまず必要だと。「ケア」とは、まず何より「傷つけないこと」であり、そのうえでその人の「ニーズを満たすこと」である。さらに、「ケア」とは「依存を引き受けること」であり、「依存を引き受けること」とは「お世話すること」であるという。
具体的に言えば、仮病を使って休もうとしている子を叱らず休ませてあげることが「ケア」だというんですね。
それに対して、「セラピー」とは、「傷つきと向き合うこと」であり、「時にはガツンと言うこと」であり、「自立を促すこと」であると。
具体的に言えば、仮病を使って休んだ子に対し、「そろそろ学校行けば?」と言ったり、学校まで車で送っていってやったり、「なぜ学校に行きたくないの?」と聞いてやることだと。
ケアとセラピーの両輪があって初めて人の心は癒されるのであり、ケアを欠いたセラピーは「暴力」だと著者は言います。

『俺の話は長い』の生田斗真に必要なのは、まずケアなのです。小池栄子がそろそろ働けと叱り飛ばし、清原果耶が叔父さんを軽蔑しているのは、この家族が「セラピー」しかしていない証拠です。
確かに、原田美枝子や安田顕、杉野遥亮などは彼に対してやさしい。ケアをしているように見える。でも、同時に、小池栄子や清原果耶は彼に対して最初からずっと厳しいですよね。
つまり、生田斗真はケアとセラピーを同時に受けているのです。それじゃダメなんだと『雨の日の心理学』の東畑開人さんは言います。
まずケアが先で、それからセラピーなんだと。
小池栄子の言うことは正しい。しかし、その正しさが生田斗真を深く傷つけている。
彼があんなに攻撃的な物言いをするのは、小池栄子をはじめとした家族が彼に対して攻撃的だからです。そのことにはもっと自覚的であるべきだし、そういう物語をこそ見たいと思う。
このままでは、結局また5年後に、『俺の話は長い ~2030・夏~』が生まれてしまうのではないでしょうか。
引きこもりのエネルギー
ちょっと前に、インベカヲリ☆という作家の『未整理な人類』という面白本を読んだんですけど、引きこもりについてこんな記述がありました。
「3・11では、家が洪水に遭って水没しているのに自室から出なかった引きこもりがいたという。第三次世界大戦がはじまるといわれているけれど、日本には引きこもりという強い味方がいる」
「日本に無気力な若者が大量にあふれれば、ただそれだけでボイコットになる。彼らは社会活動をしているともいえる。動かないけどアクティビストだ」
何があっても自室から出ない引きこもりたちは世界戦争から人類を救うかもしれない、という視点。とても新しい。
『俺の話は長い』は、職に就くか就かないかという二者択一の檻の中で堂々巡りをしているだけのように感じます。
『未整理な人類』のような、引きこもりやニートへ世間が注ぐ視線に、ほんの少し補助線を引いてやれば二者択一の檻から出られるように思うんです。それこそが「ケア」ではないか。
もう何度もいろんな記事で言っているように、「引きこもりが引きこもりを脱してめでたしめでたし」というドラマ=劇は、もう完全に古いと思います。『俺の話は長い』は2020年でも2025年でも、「引きこもりは自室から出て働かねばならない」という社会通念の前で負けていると断じます。
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脚本:金子茂樹
出演:生田斗真、小池栄子、安田顕、清原果耶、原田美枝子、杉野遥亮、西村まさ彦
あるべき「引きこもりドラマ」とは
2020年に連続ドラマとして放送された、生田斗真が引きこもりのニートを演じる『俺の話は長い』が、『俺の話は長い ~2025・春~』(前後編)として帰ってきました。もちろん、脚本は金子茂樹さんです。
5年前のの連ドラを見ていた人がどれだけいるのかわかりませんが、続編ができるのだからそれなりにファンは多かったのでしょう。私は最終回以外はとても面白く見ました。
あの最終回は、それまでニートのくせに人一倍偉そうで口ばかり達者な生田斗真が、面接に赴くというハッピーエンドが描かれていました。
私は、もともと引きこもりを題材にした作品にいつも言うことですが、引きこもりが引きこもりを脱したからよかったね、という結末のつけ方はとても安易に感じられます。
だから、生田斗真が就職できたけれど、すぐ辞めたという今回の初期設定はいいと思います。でも結局、今度は実家に併設された、母親が営んでいたがいまは休業中の喫茶店『ポラリス』を継ぐと言い出して幕を閉じる。
私は喜ぶと同時にがっかりしました。
なぜ喜んだか。ニートがニートを卒業するハッピーエンドが嫌いなのに?
『ローリングガール』

去年、かなりの小規模公開だった韓国映画に『ローリングガール』というのがありました。生田斗真と同じく、引きこもりでニートの少女が主人公。で、その少女が、コロナ禍をきっかけに実家の生業であるキンパ店を継ぐことになる、というささやかなハッピーエンドでした。
手に職はつけたけど、まだ実家暮らし。いつでもお母さんに甘えられる。もともと開店休業状態だったのだから、辞めたければいつでも辞められる。
ニートは脱したけど、半分脱してない。いつでも戻れる可能性を残している。あの「ぬるさ」が絶妙でした。作者たちが主人公に寄り添っている感じがして好感をもちました。
翻って、『俺の話は長い』に話を戻すと、生田斗真がもともとやっていた喫茶店の仕事に戻る。が、その喫茶店は実家にあるということで、『ローリングガール』と同じだと最初は思ったんですが、ちょっと違うと思うのです。

原田美枝子が「ポラリス」ともども実家を売ろうとして、生田斗真がすんでのところで止めるのですが、あんなことをした以上は生田斗真は辞めたくなっても辞められませんよね。しかも彼が店を継ぐのはいまは亡き父親が渇望していたことだったと来ては、もう背水の陣です。
それぐらい逃げ場をなくしたほうがいいですって? それは違うと思う。
『雨の日の心理学』
いま、東畑開人という臨床心理士が書いた『雨の日の心理学』という本を読んでるんですが、いいことが書いてあります。
心を病んだ人には「ケア」と「セラピー」の二つがまず必要だと。「ケア」とは、まず何より「傷つけないこと」であり、そのうえでその人の「ニーズを満たすこと」である。さらに、「ケア」とは「依存を引き受けること」であり、「依存を引き受けること」とは「お世話すること」であるという。
具体的に言えば、仮病を使って休もうとしている子を叱らず休ませてあげることが「ケア」だというんですね。
それに対して、「セラピー」とは、「傷つきと向き合うこと」であり、「時にはガツンと言うこと」であり、「自立を促すこと」であると。
具体的に言えば、仮病を使って休んだ子に対し、「そろそろ学校行けば?」と言ったり、学校まで車で送っていってやったり、「なぜ学校に行きたくないの?」と聞いてやることだと。
ケアとセラピーの両輪があって初めて人の心は癒されるのであり、ケアを欠いたセラピーは「暴力」だと著者は言います。

『俺の話は長い』の生田斗真に必要なのは、まずケアなのです。小池栄子がそろそろ働けと叱り飛ばし、清原果耶が叔父さんを軽蔑しているのは、この家族が「セラピー」しかしていない証拠です。
確かに、原田美枝子や安田顕、杉野遥亮などは彼に対してやさしい。ケアをしているように見える。でも、同時に、小池栄子や清原果耶は彼に対して最初からずっと厳しいですよね。
つまり、生田斗真はケアとセラピーを同時に受けているのです。それじゃダメなんだと『雨の日の心理学』の東畑開人さんは言います。
まずケアが先で、それからセラピーなんだと。
小池栄子の言うことは正しい。しかし、その正しさが生田斗真を深く傷つけている。
彼があんなに攻撃的な物言いをするのは、小池栄子をはじめとした家族が彼に対して攻撃的だからです。そのことにはもっと自覚的であるべきだし、そういう物語をこそ見たいと思う。
このままでは、結局また5年後に、『俺の話は長い ~2030・夏~』が生まれてしまうのではないでしょうか。
引きこもりのエネルギー
ちょっと前に、インベカヲリ☆という作家の『未整理な人類』という面白本を読んだんですけど、引きこもりについてこんな記述がありました。
「3・11では、家が洪水に遭って水没しているのに自室から出なかった引きこもりがいたという。第三次世界大戦がはじまるといわれているけれど、日本には引きこもりという強い味方がいる」
「日本に無気力な若者が大量にあふれれば、ただそれだけでボイコットになる。彼らは社会活動をしているともいえる。動かないけどアクティビストだ」
何があっても自室から出ない引きこもりたちは世界戦争から人類を救うかもしれない、という視点。とても新しい。
『俺の話は長い』は、職に就くか就かないかという二者択一の檻の中で堂々巡りをしているだけのように感じます。
『未整理な人類』のような、引きこもりやニートへ世間が注ぐ視線に、ほんの少し補助線を引いてやれば二者択一の檻から出られるように思うんです。それこそが「ケア」ではないか。
もう何度もいろんな記事で言っているように、「引きこもりが引きこもりを脱してめでたしめでたし」というドラマ=劇は、もう完全に古いと思います。『俺の話は長い』は2020年でも2025年でも、「引きこもりは自室から出て働かねばならない」という社会通念の前で負けていると断じます。
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