アカデミー賞で最多ノミネートを受けた後に、主演者の醜聞によってキャンセルされてしまった『エミリア・ペレス』、見てきました。(以下ネタバレあり)
『エミリア・ペレス』(2024、フランス)

原作:ボリス・ラゾン
脚本:ジャック・オーディアール
脚本協力:レア・ミシウス、ニコラ・リヴェッキ&トマ・ビデガン
監督:ジャック・オーディアール
出演:カルラ・ソフィア・ガスコン、ゾーイ・サルダナ、セレーナ・ゴメス、エドガー・ラミレス
メキシコの麻薬王の男マニタスはトランスジェンダーで性自認は女。彼は弁護士のリタを雇って性別適合手術をしてくれる口の堅い医者を探させる。無事に手術がすみ、4年後、ロンドンにいるリタのもとに、かつての麻薬王がエミリア・ペレスという名の女として現れる……
というのが物語のあらましですが、いろいろ疑問点がありました。
疑問点

①まず、そもそも論として、この『エミリア・ペレス』はミュージカル映画にする必要があったのか。
②後半、エミリアと元妻ジェシーの葛藤が軸になるのなら、前半のうちに愛しあう場面とか喧嘩する場面とか、エミリア(マニタス)とジェシーの葛藤を少なくともワンシーンは描いておく必要があったのではないか。
③終盤、銃撃戦の地にリタが赴くけど、いくら「もう40で恋愛もしてない、仕事もうまく行かない」からといって拳銃を手にして行くだろうか。彼女は弁護士で基本的に賢いのだから、そんな自滅行為をするわけがないと思うが……?

④↑このシーン↑、ミュージカルシーンなのだけど、この現実の部屋の場面と、どこかよくわからない暗闇の場所でバックダンサーと一緒にセレーナ・ゴメスが歌い狂うシーンがあったが、なぜあのホテル(だったか?)の部屋でバックダンサーたちと踊らないのだろうか? なぜ場所が二つあるみたいな描き方をするのか。
拡大再生産か縮小再生産か

繰り返しますが、この映画はミュージカルです。でも、ミュージカルというジャンルはもう完全に廃れてしまったと言っていいほど、目にする機会はめったになくなりました。
私は往年のハリウッド・ミュージカルの大ファンで、スターならフレッド・アステアとジーン・ケリー、監督ならマーク・サンドリッチ、ヴィンセント・ミネリ、スタンリー・ドーネンなどが好み。ベタで恐縮ですが。
ミュージカルが廃れた原因は、「リアリズムを珍重する映画ファンが増えた」から。私も昔はこのジャンルを嫌っていたからわかります。「なぜ普通にしゃべっているのにいきなり歌い出すのか」というやつでしょ?
だから最近のミュージカルは『ラ・ラ・ランド』みたいに、夢や幻想のシーンでだけ歌って踊り、それ以外の現実のシーンでは歌わない。「このシーンは幻想だから歌ってるんですよー」というエクスキューズが必要なのがいまという時代。
私はいつからか突然歌い出すミュージカルが好きになり、好きというより大好きになった。なぜかは知らないけど。ともかく、私みたいな根っからのミュージカルファンはこの『エミリア・ペレス』みたいにいきなり歌い出しても平気だけど、そうではない観客も大勢いる。
『ラ・ラ・ランド』みたいなやり方は、とてもうまいと思うし、多くの観客を勝ち取った。同じやり方でやればさらに大ヒット映画を積み重ねることができる。拡大再生産だ。(製作会社はどこもミュージカルというだけで及び腰なので、実際にはミュージカル映画を連打して市場規模拡大ということにはならないが、路線としては拡大再生産)
『エミリア・ペレス』はその逆を行っている。ただでさえトランスジェンダーの人が性別を転換するというだけで保守層は見ないでしょう。さらにミュージカルとなればもっと客は減る。この路線で行くなら、トランスジェンダーとかのポリティカル・コレクトネスは措いておいても、ミュージカル映画としては縮小再生産の路線ということになる。(これまたミュージカルというだけでいまは作品の連打がないので「再生産」にはならないけど、路線としては縮小再生産)
ミュージカルをやるなら本気でやるべし

縮小再生産路線のミュージカルを『エミリア・ペレス』は選んだ。ここを押さえておかないと、やれトランスジェンダーだとか何とか政治的なことばかり言っても意味ないような気がする。
縮小再生産路線のミュージカルとは、確認のために言っておくと、「普通にしゃべっていたのにいきなり歌い出す」昔ながらのミュージカルということ。
ミュージカル嫌いを門前払いして市場規模を縮小していくわけ縮小再生産路線と言っているのだけど、そういう映画が大好きな、私みたいな根っからのミュージカルファンはまだ棲息している。絶滅したはずのミュージカル映画を愛する人向けのミュージカルなわけでしょ、この『エミリア・ペレス』は。
だから↓このシーン↓なのである。

先述した、セレーナ・ゴメスが歌い狂うシーン。別の時空間と行き来して歌い狂うのだけど、やはりこの部屋だけで踊ってほしい。
そんな空間がない? 狭すぎる?
ならば、『恋愛準決勝戦』のアステアのように、壁や天井でタップを踏めばいいのである。パクリだって? パクればよろしい。偉大な映画はパクりに始まる。大いにパクればいいだけの話である。
そんなことより、「部屋が狭いから別の時空間を用意しました」的な演出が私は大嫌いなのだ。
縮小再生産路線のミュージカルとは、往年のハリウッドミュージカルのことである。それを再現する気概がないなら最初からやるなと言いたい。
縮小再生産といっても、いまはミュージカル映画を連打することは難しいから、実際は再生産にならないと先に言ったが、このようなやる気の感じられないミュージカル演出を見せられると、この映画1本だけでミュージカル嫌いをそれこそ拡大再生産してしまうのではないかと(つまりそれは「大縮小再生産」に他ならない)そちらのほうが心配になってしまう。

オスカー2部門にとどまった理由は主演女優の醜聞だけじゃないと思う。本気じゃないミュージカルシーンを見せられたら、そりゃ「この映画はミュージカルである必要があったのか」なんて疑問も湧き上がるってなもんですよ。

『エミリア・ペレス』(2024、フランス)

原作:ボリス・ラゾン
脚本:ジャック・オーディアール
脚本協力:レア・ミシウス、ニコラ・リヴェッキ&トマ・ビデガン
監督:ジャック・オーディアール
出演:カルラ・ソフィア・ガスコン、ゾーイ・サルダナ、セレーナ・ゴメス、エドガー・ラミレス
メキシコの麻薬王の男マニタスはトランスジェンダーで性自認は女。彼は弁護士のリタを雇って性別適合手術をしてくれる口の堅い医者を探させる。無事に手術がすみ、4年後、ロンドンにいるリタのもとに、かつての麻薬王がエミリア・ペレスという名の女として現れる……
というのが物語のあらましですが、いろいろ疑問点がありました。
疑問点

①まず、そもそも論として、この『エミリア・ペレス』はミュージカル映画にする必要があったのか。
②後半、エミリアと元妻ジェシーの葛藤が軸になるのなら、前半のうちに愛しあう場面とか喧嘩する場面とか、エミリア(マニタス)とジェシーの葛藤を少なくともワンシーンは描いておく必要があったのではないか。
③終盤、銃撃戦の地にリタが赴くけど、いくら「もう40で恋愛もしてない、仕事もうまく行かない」からといって拳銃を手にして行くだろうか。彼女は弁護士で基本的に賢いのだから、そんな自滅行為をするわけがないと思うが……?

④↑このシーン↑、ミュージカルシーンなのだけど、この現実の部屋の場面と、どこかよくわからない暗闇の場所でバックダンサーと一緒にセレーナ・ゴメスが歌い狂うシーンがあったが、なぜあのホテル(だったか?)の部屋でバックダンサーたちと踊らないのだろうか? なぜ場所が二つあるみたいな描き方をするのか。
拡大再生産か縮小再生産か

繰り返しますが、この映画はミュージカルです。でも、ミュージカルというジャンルはもう完全に廃れてしまったと言っていいほど、目にする機会はめったになくなりました。
私は往年のハリウッド・ミュージカルの大ファンで、スターならフレッド・アステアとジーン・ケリー、監督ならマーク・サンドリッチ、ヴィンセント・ミネリ、スタンリー・ドーネンなどが好み。ベタで恐縮ですが。
ミュージカルが廃れた原因は、「リアリズムを珍重する映画ファンが増えた」から。私も昔はこのジャンルを嫌っていたからわかります。「なぜ普通にしゃべっているのにいきなり歌い出すのか」というやつでしょ?
だから最近のミュージカルは『ラ・ラ・ランド』みたいに、夢や幻想のシーンでだけ歌って踊り、それ以外の現実のシーンでは歌わない。「このシーンは幻想だから歌ってるんですよー」というエクスキューズが必要なのがいまという時代。
私はいつからか突然歌い出すミュージカルが好きになり、好きというより大好きになった。なぜかは知らないけど。ともかく、私みたいな根っからのミュージカルファンはこの『エミリア・ペレス』みたいにいきなり歌い出しても平気だけど、そうではない観客も大勢いる。
『ラ・ラ・ランド』みたいなやり方は、とてもうまいと思うし、多くの観客を勝ち取った。同じやり方でやればさらに大ヒット映画を積み重ねることができる。拡大再生産だ。(製作会社はどこもミュージカルというだけで及び腰なので、実際にはミュージカル映画を連打して市場規模拡大ということにはならないが、路線としては拡大再生産)
『エミリア・ペレス』はその逆を行っている。ただでさえトランスジェンダーの人が性別を転換するというだけで保守層は見ないでしょう。さらにミュージカルとなればもっと客は減る。この路線で行くなら、トランスジェンダーとかのポリティカル・コレクトネスは措いておいても、ミュージカル映画としては縮小再生産の路線ということになる。(これまたミュージカルというだけでいまは作品の連打がないので「再生産」にはならないけど、路線としては縮小再生産)
ミュージカルをやるなら本気でやるべし

縮小再生産路線のミュージカルを『エミリア・ペレス』は選んだ。ここを押さえておかないと、やれトランスジェンダーだとか何とか政治的なことばかり言っても意味ないような気がする。
縮小再生産路線のミュージカルとは、確認のために言っておくと、「普通にしゃべっていたのにいきなり歌い出す」昔ながらのミュージカルということ。
ミュージカル嫌いを門前払いして市場規模を縮小していくわけ縮小再生産路線と言っているのだけど、そういう映画が大好きな、私みたいな根っからのミュージカルファンはまだ棲息している。絶滅したはずのミュージカル映画を愛する人向けのミュージカルなわけでしょ、この『エミリア・ペレス』は。
だから↓このシーン↓なのである。

先述した、セレーナ・ゴメスが歌い狂うシーン。別の時空間と行き来して歌い狂うのだけど、やはりこの部屋だけで踊ってほしい。
そんな空間がない? 狭すぎる?
ならば、『恋愛準決勝戦』のアステアのように、壁や天井でタップを踏めばいいのである。パクリだって? パクればよろしい。偉大な映画はパクりに始まる。大いにパクればいいだけの話である。
そんなことより、「部屋が狭いから別の時空間を用意しました」的な演出が私は大嫌いなのだ。
縮小再生産路線のミュージカルとは、往年のハリウッドミュージカルのことである。それを再現する気概がないなら最初からやるなと言いたい。
縮小再生産といっても、いまはミュージカル映画を連打することは難しいから、実際は再生産にならないと先に言ったが、このようなやる気の感じられないミュージカル演出を見せられると、この映画1本だけでミュージカル嫌いをそれこそ拡大再生産してしまうのではないかと(つまりそれは「大縮小再生産」に他ならない)そちらのほうが心配になってしまう。

オスカー2部門にとどまった理由は主演女優の醜聞だけじゃないと思う。本気じゃないミュージカルシーンを見せられたら、そりゃ「この映画はミュージカルである必要があったのか」なんて疑問も湧き上がるってなもんですよ。

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