先日のアカデミー賞授賞式で見事、作品賞を含む5冠を達成したアメリカン・インディペンデント映画『ANORA アノーラ』。
監督のコメントで、日本で一番知られているのは、「映画でセックスワーカーへの偏見をなくしたい」との言葉でしょう。
その意気やよし! でも……と思うのです。
ピンク映画や日活ロマンポルノ
(日活ロマンポルノ『天使のはらわた 赤い教室』の一場面)
まずアダルトビデオ=AVの話から始めましょう。
いまから30年くらい前、京都の映画専門学校で学んでいたころ、AVの撮影現場を撮ったドキュメンタリー番組を見ながら、こんなことを言うクラスメイトがいました。
「こんなのは男のやる仕事じゃない」
え……おまえはいつも彼らが手掛けた作品を見て愉しんでいるのでは? もともとAVなんか見ないという奴なら言ってもいいですが、彼はそうじゃなかった。(そもそもそんな男がいるとは到底思えませんが)
でも、逆にいえば、そんなことを平気の平左で言えるほど、下半身にまつわる仕事は「汚れた仕事」と思われているのでしょう。
AVについて不埒なことを言っていたのはその男一人だけでした。それぞれ「自分だってAVを愉しんでいるのだから」と胸の内では思っていたのでしょう。
ところが、これが日活ロマンポルノとなると、途端にほとんどの人間が見ようともしないのです。
私はこう言いました。
「『死んでもいい』は見たの? 見たならロマンポルノも見ればいいじゃないか。同じ成人指定の映画なんだから」
ロマンポルノやピンク映画に誘導しようとしても、彼らは頑として動かなかった。「そんな汚れた映画は」みたいな言い方はしてませんでしたけど、そう仄めかすような言い方でした。AVもロマンポルノもピンク映画も「汚れた仕事」らしい。へえ~、映画を作ろうという人間が映画を差別しているのはいかがなものか、と私一人だけ頑張りましたが、伝わりませんでした。
友人の妻

話はそこから10年ほど飛びます。
高校時代の友人が結婚とほぼ同時にかなりの過疎地に異動になり、その家へお祝いも兼ねて遊びに行きました。
その友人はピンク映画未体験でしたが、その小さな町に映画館がひとつしかなく、それもピンク映画館だというから、それじゃあ一緒に行こうとなりました。
3本立てでしたが、面白かったのは1本だけで、あとは駄作。でもまぁそんなもんです。問題は、私が彼の家に行く前に、奥さんが「こんな小さな町でポルノを見に行くなんて変な噂が立つからやめてほしい」と言っていたことです。友人から聞きました。
私は最初「じゃ、やめとこう」と言ったのですが、友人が「いや、一緒に行くと約束したから」と強く言うのでその通りにしました。
そして帰宅してから、そのころ流行っていたミクシィに、「小さな町で友人とピンク映画を見に行ったが、彼の奥さんが、変な噂が立つからやめてほしい、と言っていたらしく、腹が立った」みたいな日記を書きました。
すると、専門学校時代の後輩がこんなコメントをしてきました。彼はすでに自主製作とはいえ何本も映画を撮っていた人間で、プロの現場にも知り合いがたくさんいました。
「僕や神林さんは映画を志している人だから腹が立つのはわかるけど、その奥さんは映画志望者じゃないから、その反応はごく普通ですよ。僕は前からピンク映画に関わっている人と喋っていて違和感を覚えるんです。ピンク映画は素晴らしいものだ、俺たちの映画を偏見の目で見るのは許さない、みたいな言説に対して」
当時の私は何を言ってんだか、と取り合わず、反論したら熱くなりすぎていやな気分になるからコメントはせず、そこで終わりとしました。
ショーン・ベイカー

さて、問題のショーン・ベイカーの発言です。
「映画でセックスワーカーへの偏見をなくしたい」
それには少しも異論はありません。と言いたいところですが……
よく、「風俗嬢は素晴らしい仕事だ。社会のためになくてはならない」という言説を見かけますね。私自身、風俗嬢にそのまんま言ったことがあります。でも、その子は苦い笑みを浮かべていただけでした。
「風俗嬢は素晴らしい仕事だ」という言説には、決まって「じゃあ、おまえの奥さんや彼女や娘が風俗で働いていてもそう言えるのか」という反論が出てきます。
私はそれに答えられない。「もしおまえの息子がAV男優になっても、AVの仕事はなくてはならないと言えるのか」と問われても、やはり黙するほかない。
この「おまえの娘・息子が~~」というのは詭弁のような気がするのですが、頭が悪いのか、確証が得られない。論破できない。
だから、ショーン・ベイカーの「セックスワーカーへの偏見をなくしたい」という気持ちはよくわかるけど、「セックスワーカーへの偏見」そのものは、もしかしたら友人の奥さんのように健全なものなのかもしれない。それが「普通の人」ということか。
でも、そのような汚れ仕事を必要とする人がいるし(ホスト狂いとか借金苦とか)、汚れ仕事に手を染める人(ほとんど女性)を必要とする人たちもたくさんいる。
だから素晴らしいのか?
しかし、素晴らしいと言った途端、「じゃあ、おまえの娘が~~」という伝家の宝刀で叩き斬られる。
難しい。これはおそらく死ぬまで自問自答し続ける問題のように思います。だからアノーラも無理やり婚約破棄させられるし、もはや最後は泣くしかない。
うーん、本当に難しい。差別問題と同じくらい難しい問題だ。
差別はおそらくなくならない。セックスワーカーへの偏見もおそらくなくならない。でも、なくそうと努力することは大事。結局なくならないのに? 空振りに終わるのに? たとえ空振りをしようともバットを振ることが大事なのか。
京都時代に、ロマンポルノやピンク映画の素晴らしさを級友たちに説いたときと同じだ。根の深い偏見に対してはいくら頑張っても徒労に終わる。そして徒労に終わるとわかっていてもやっぱりショーン・ベイカーと同じく、偏見をなくしたいと強く思う。
なぁんだ、結局、ショーン・ベイカーは同志だということを確認しただけか。でも、今夜はよく眠れそうだ。
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『ANORA アノーラ』感想(複雑な思い)
『天使のはらわた 赤い教室』は内部告発の映画である

監督のコメントで、日本で一番知られているのは、「映画でセックスワーカーへの偏見をなくしたい」との言葉でしょう。
その意気やよし! でも……と思うのです。
ピンク映画や日活ロマンポルノ

まずアダルトビデオ=AVの話から始めましょう。
いまから30年くらい前、京都の映画専門学校で学んでいたころ、AVの撮影現場を撮ったドキュメンタリー番組を見ながら、こんなことを言うクラスメイトがいました。
「こんなのは男のやる仕事じゃない」
え……おまえはいつも彼らが手掛けた作品を見て愉しんでいるのでは? もともとAVなんか見ないという奴なら言ってもいいですが、彼はそうじゃなかった。(そもそもそんな男がいるとは到底思えませんが)
でも、逆にいえば、そんなことを平気の平左で言えるほど、下半身にまつわる仕事は「汚れた仕事」と思われているのでしょう。
AVについて不埒なことを言っていたのはその男一人だけでした。それぞれ「自分だってAVを愉しんでいるのだから」と胸の内では思っていたのでしょう。
ところが、これが日活ロマンポルノとなると、途端にほとんどの人間が見ようともしないのです。
私はこう言いました。
「『死んでもいい』は見たの? 見たならロマンポルノも見ればいいじゃないか。同じ成人指定の映画なんだから」
ロマンポルノやピンク映画に誘導しようとしても、彼らは頑として動かなかった。「そんな汚れた映画は」みたいな言い方はしてませんでしたけど、そう仄めかすような言い方でした。AVもロマンポルノもピンク映画も「汚れた仕事」らしい。へえ~、映画を作ろうという人間が映画を差別しているのはいかがなものか、と私一人だけ頑張りましたが、伝わりませんでした。
友人の妻

話はそこから10年ほど飛びます。
高校時代の友人が結婚とほぼ同時にかなりの過疎地に異動になり、その家へお祝いも兼ねて遊びに行きました。
その友人はピンク映画未体験でしたが、その小さな町に映画館がひとつしかなく、それもピンク映画館だというから、それじゃあ一緒に行こうとなりました。
3本立てでしたが、面白かったのは1本だけで、あとは駄作。でもまぁそんなもんです。問題は、私が彼の家に行く前に、奥さんが「こんな小さな町でポルノを見に行くなんて変な噂が立つからやめてほしい」と言っていたことです。友人から聞きました。
私は最初「じゃ、やめとこう」と言ったのですが、友人が「いや、一緒に行くと約束したから」と強く言うのでその通りにしました。
そして帰宅してから、そのころ流行っていたミクシィに、「小さな町で友人とピンク映画を見に行ったが、彼の奥さんが、変な噂が立つからやめてほしい、と言っていたらしく、腹が立った」みたいな日記を書きました。
すると、専門学校時代の後輩がこんなコメントをしてきました。彼はすでに自主製作とはいえ何本も映画を撮っていた人間で、プロの現場にも知り合いがたくさんいました。
「僕や神林さんは映画を志している人だから腹が立つのはわかるけど、その奥さんは映画志望者じゃないから、その反応はごく普通ですよ。僕は前からピンク映画に関わっている人と喋っていて違和感を覚えるんです。ピンク映画は素晴らしいものだ、俺たちの映画を偏見の目で見るのは許さない、みたいな言説に対して」
当時の私は何を言ってんだか、と取り合わず、反論したら熱くなりすぎていやな気分になるからコメントはせず、そこで終わりとしました。
ショーン・ベイカー

さて、問題のショーン・ベイカーの発言です。
「映画でセックスワーカーへの偏見をなくしたい」
それには少しも異論はありません。と言いたいところですが……
よく、「風俗嬢は素晴らしい仕事だ。社会のためになくてはならない」という言説を見かけますね。私自身、風俗嬢にそのまんま言ったことがあります。でも、その子は苦い笑みを浮かべていただけでした。
「風俗嬢は素晴らしい仕事だ」という言説には、決まって「じゃあ、おまえの奥さんや彼女や娘が風俗で働いていてもそう言えるのか」という反論が出てきます。
私はそれに答えられない。「もしおまえの息子がAV男優になっても、AVの仕事はなくてはならないと言えるのか」と問われても、やはり黙するほかない。
この「おまえの娘・息子が~~」というのは詭弁のような気がするのですが、頭が悪いのか、確証が得られない。論破できない。
だから、ショーン・ベイカーの「セックスワーカーへの偏見をなくしたい」という気持ちはよくわかるけど、「セックスワーカーへの偏見」そのものは、もしかしたら友人の奥さんのように健全なものなのかもしれない。それが「普通の人」ということか。
でも、そのような汚れ仕事を必要とする人がいるし(ホスト狂いとか借金苦とか)、汚れ仕事に手を染める人(ほとんど女性)を必要とする人たちもたくさんいる。
だから素晴らしいのか?
しかし、素晴らしいと言った途端、「じゃあ、おまえの娘が~~」という伝家の宝刀で叩き斬られる。
難しい。これはおそらく死ぬまで自問自答し続ける問題のように思います。だからアノーラも無理やり婚約破棄させられるし、もはや最後は泣くしかない。
うーん、本当に難しい。差別問題と同じくらい難しい問題だ。
差別はおそらくなくならない。セックスワーカーへの偏見もおそらくなくならない。でも、なくそうと努力することは大事。結局なくならないのに? 空振りに終わるのに? たとえ空振りをしようともバットを振ることが大事なのか。
京都時代に、ロマンポルノやピンク映画の素晴らしさを級友たちに説いたときと同じだ。根の深い偏見に対してはいくら頑張っても徒労に終わる。そして徒労に終わるとわかっていてもやっぱりショーン・ベイカーと同じく、偏見をなくしたいと強く思う。
なぁんだ、結局、ショーン・ベイカーは同志だということを確認しただけか。でも、今夜はよく眠れそうだ。
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『天使のはらわた 赤い教室』は内部告発の映画である

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