いま、山田太一さんの、40年前に刊行された『いつもの雑踏 いつもの場所で』というエッセイ集を読んでるんですが、かなり昔のものなので琴線に触れるものがあまりないものの、この文章には共感せざるをえないという絶品のやつがありました。

「子供のころの事など」と題した3ページほどの短文のキーワードは、
「悪い事をする連中にはかなわない」
というもので、冒頭を引用してみると、
「子供のころの私には『悪い事』をする同年輩の連中には、かなわないという思いがあった。自分が悪い事が出来ないのは、先生に叱られるのが怖いからで、他に理由がないことを知っていた。(中略)それは意気地のないことだ、という思いがあった」
山田太一さんは、そういう思いがあったから、殴り合いのけんかをしたり、いろいろ悪い事をしたという。しかしながら、どうしても成績がいいからか「真面目な生徒」としか認識されなかったらしい。
そのもどかしさはよくわかる。
私も高校三年の時分、登校拒否をしていたのだけど、そのときやっていた昼の帯ドラマを見ていたら、その作品のキーワードは、
「優等生というレッテル」
だった。いちど「優等生」というレッテルを貼られると、そこから抜けられなくなってしまう。そのもどかしさを描いたドラマであった。
「優等生」とはほめ言葉であり、決して「レッテル」ではない、というのが社会通念だが、その通念への反逆といった趣きの作品で、毎日見るのが楽しかった。(別に私は「優等生というレッテル」への反逆という意識で学校を休んでいたのではなかったのではあるが)
それはさて、私も山田太一さんのように「悪い事」をやってみたことがあるかというと、撮影所にいた頃、飛騨高山まで土曜ワイド劇場のロケに行った。そのとき泊まっていたホテルで、露天風呂の垣根によじ登って女子更衣室を覗いたことがあった。
あれは確かに「悪い事」だろうが、先輩が率先して覗いていたからそれに乗じて、というだけの話で、一人ではできなかっただろう。ちなみに、その作品の主役は村上弘明さんで、「見える?」と、自分も覗きたいなぁという感じで聞いてきた。あの人の場合、もしばれたら社会的地位を失うからで、終始見たそうな顔をしているのが可笑しかった。
さて、他に私が手を染めた「悪い事」は何だろうと考えると、ほとんどないのだが、これはどうだろうか?
中学三年のとき、トイレに行くと、いつも不良たちがタバコを吸っていた。「神林も吸うか?」なんて聞かれたりもしたが、私はタバコが大の苦手で(当時は親父が禁煙する直前だった)断り続けていた。
その日も断ってトイレを出ようとしたら、うちの担任が廊下の向こうからこっちへ向かって歩いてくる。私はとっさに「〇〇(←担任のあだ名)が来る! 消せ消せ!」と言った。不良たちは慌てて火を消したが、担任は来なかった。どうもこっちへ来ると思ったのは勘違いだったらしい。私は不良たちに詫びると、「ええってええって」と快い返事が返ってきた。トイレを出ようとすると、「あいつええ奴やな」という声も聞こえてきた。
何のことはない。喫煙という校則と法律に違反する行為に加担したように見えて、私は不良たちから嫌われるのが怖かっただけなのだった。担任に目をつけられるのもいやだが、不良たちから目をつけられるのもいや。すべてが怖かった。
私は常に「いい人」でありたいと思っているらしい。というより、正確には悪い事をするのが異常に怖いのだ。
かつて最初の主治医に、
「僕はたぶん自殺はしないと思います。自殺願望はあるけど、死ぬのが異常に怖いので」
と言ったことがある。主治医はただうなずいていただけだったが、ということは、私は「自死」を「悪い事」と認識しているのだろうか。
自殺未遂したときに、友人から「自殺することは周りの人間も殺すことだと思う」と言われ、いやいや、俺はそんな正論を簡単に言える人間には絶対になりたくないのだ、と強く思ったのだけど。
山田太一さんは先のエッセイを次のような一文で締めくくっている。
「私が小、中学生の頃に抱いた『悪い事』をする連中にはかなわない、という気持ちを、社会は失ってはいけない、と思うのだが――」
いま、そういう気持ちを社会は失っていると思う。不倫などでキャンセルされる芸能人は後を絶たないし。
最近、日本の映画やテレビドラマを見ていてすごく気になるのが、食べる前の「いただきます」と食べた後の「ごちそうさま」をすべての登場人物がちゃんと言っていること。そんなの当たり前だろう、という声が聞こえてきそうだけど、いやいや、みんながみんなちゃんと言うわけではない。いただきますを言わない行儀の悪い人というキャラ設定でもいいじゃないか。
たぶん、正しくない行為を描くとクレームが入るんでしょうね。それを未然に防ぐために登場人物はみんなお行儀のいい人になってしまう。そうやって、映画の中の行為が「正しい事」だけになっていく。
もっと「悪い事」をしよう。


「子供のころの事など」と題した3ページほどの短文のキーワードは、
「悪い事をする連中にはかなわない」
というもので、冒頭を引用してみると、
「子供のころの私には『悪い事』をする同年輩の連中には、かなわないという思いがあった。自分が悪い事が出来ないのは、先生に叱られるのが怖いからで、他に理由がないことを知っていた。(中略)それは意気地のないことだ、という思いがあった」
山田太一さんは、そういう思いがあったから、殴り合いのけんかをしたり、いろいろ悪い事をしたという。しかしながら、どうしても成績がいいからか「真面目な生徒」としか認識されなかったらしい。
そのもどかしさはよくわかる。
私も高校三年の時分、登校拒否をしていたのだけど、そのときやっていた昼の帯ドラマを見ていたら、その作品のキーワードは、
「優等生というレッテル」
だった。いちど「優等生」というレッテルを貼られると、そこから抜けられなくなってしまう。そのもどかしさを描いたドラマであった。
「優等生」とはほめ言葉であり、決して「レッテル」ではない、というのが社会通念だが、その通念への反逆といった趣きの作品で、毎日見るのが楽しかった。(別に私は「優等生というレッテル」への反逆という意識で学校を休んでいたのではなかったのではあるが)
それはさて、私も山田太一さんのように「悪い事」をやってみたことがあるかというと、撮影所にいた頃、飛騨高山まで土曜ワイド劇場のロケに行った。そのとき泊まっていたホテルで、露天風呂の垣根によじ登って女子更衣室を覗いたことがあった。
あれは確かに「悪い事」だろうが、先輩が率先して覗いていたからそれに乗じて、というだけの話で、一人ではできなかっただろう。ちなみに、その作品の主役は村上弘明さんで、「見える?」と、自分も覗きたいなぁという感じで聞いてきた。あの人の場合、もしばれたら社会的地位を失うからで、終始見たそうな顔をしているのが可笑しかった。
さて、他に私が手を染めた「悪い事」は何だろうと考えると、ほとんどないのだが、これはどうだろうか?
中学三年のとき、トイレに行くと、いつも不良たちがタバコを吸っていた。「神林も吸うか?」なんて聞かれたりもしたが、私はタバコが大の苦手で(当時は親父が禁煙する直前だった)断り続けていた。
その日も断ってトイレを出ようとしたら、うちの担任が廊下の向こうからこっちへ向かって歩いてくる。私はとっさに「〇〇(←担任のあだ名)が来る! 消せ消せ!」と言った。不良たちは慌てて火を消したが、担任は来なかった。どうもこっちへ来ると思ったのは勘違いだったらしい。私は不良たちに詫びると、「ええってええって」と快い返事が返ってきた。トイレを出ようとすると、「あいつええ奴やな」という声も聞こえてきた。
何のことはない。喫煙という校則と法律に違反する行為に加担したように見えて、私は不良たちから嫌われるのが怖かっただけなのだった。担任に目をつけられるのもいやだが、不良たちから目をつけられるのもいや。すべてが怖かった。
私は常に「いい人」でありたいと思っているらしい。というより、正確には悪い事をするのが異常に怖いのだ。
かつて最初の主治医に、
「僕はたぶん自殺はしないと思います。自殺願望はあるけど、死ぬのが異常に怖いので」
と言ったことがある。主治医はただうなずいていただけだったが、ということは、私は「自死」を「悪い事」と認識しているのだろうか。
自殺未遂したときに、友人から「自殺することは周りの人間も殺すことだと思う」と言われ、いやいや、俺はそんな正論を簡単に言える人間には絶対になりたくないのだ、と強く思ったのだけど。
山田太一さんは先のエッセイを次のような一文で締めくくっている。
「私が小、中学生の頃に抱いた『悪い事』をする連中にはかなわない、という気持ちを、社会は失ってはいけない、と思うのだが――」
いま、そういう気持ちを社会は失っていると思う。不倫などでキャンセルされる芸能人は後を絶たないし。
最近、日本の映画やテレビドラマを見ていてすごく気になるのが、食べる前の「いただきます」と食べた後の「ごちそうさま」をすべての登場人物がちゃんと言っていること。そんなの当たり前だろう、という声が聞こえてきそうだけど、いやいや、みんながみんなちゃんと言うわけではない。いただきますを言わない行儀の悪い人というキャラ設定でもいいじゃないか。
たぶん、正しくない行為を描くとクレームが入るんでしょうね。それを未然に防ぐために登場人物はみんなお行儀のいい人になってしまう。そうやって、映画の中の行為が「正しい事」だけになっていく。
もっと「悪い事」をしよう。

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