ジョージ・A・ロメロによる『ゾンビ』シリーズ第二弾、その名もずばり『ゾンビ』。一番好きなダリオ・アルジェント監修版で再見しました。

そして、驚くべき事実に驚愕しました。これは新型コロナウイルスが大流行した2020年を予言した映画だったのだと。キーワードは「死者への敬意」です。(以下ネタバレあり)


『ゾンビ〔ダリオ・アルジェント監修版〕』(1978、アメリカ・イタリア)
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脚本・監督:ジョージ・A・ロメロ
出演:デビッド・エムゲ、ケン・フォリー、スコット・H・ライニガー、ゲイラン・ロス


まず、有名な役者が出演していないので、役名(とはちょっと違うけど)を確認しておきましょう。

黒人SWAT
白人SWAT
テレビマン
テレビウーマン(テレビマンの恋人)

主要人物はこの4人です。では「死者への敬意」から順に見ていきましょう。


死者への敬意
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テレビ出演中のある学者が、

「なぜゾンビが地上を跋扈しているか。それは、我々が死者へ敬意を払いすぎているからだ」

と言います。それに対しテレビクルーは猛抗議。これが開巻早々の冒頭のシーンです。いきなり騒然としていて何が話題なのかわかりにくいですが、前作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』で語られていた暴力的言説をもう一度繰り返しているのですね。

『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』で、「殺したゾンビはすぐに焼き払うべし!」とこれまたテレビ出演中の学者が息巻いていました。

しかし、西欧はキリスト教が支配的です。キリスト教の世界観では、最後の審判の日に、天国へ行く者と地獄へ行く者が振り分けられる。天国行きと決まっているわけじゃなく、確率は半々ですが、もし天国行きだとしても肉体がなければ行くことができない。というわけで、キリスト教やユダヤ教などでは火葬ではなく土葬にする。

それを火葬にせよ、と言っている。それも可及的速やかに。そして死者と接触するな、と。さらに、テレビでは「疫学研究所でワクチンの開発を検討中」と報道される。疫学? ワクチン?


新型コロナ
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これはもはや完全に「新型コロナ」の世界ですよね。2020年には志村けんや岡江久美子といった有名人が亡くなりましたが、彼らの遺族は、死者と対面すらさせてもらえなかった。世界中でそうでした。

そういう状況に異を唱えた哲学者が、イタリアのジョルジョ・アガンベンでした。

死者には死者の権利がある。それがアガンベンの主張でした。死者が弔いの言葉すらかけてもらえず、右から左へ抹殺されていくことへの抗議でした。

アガンベンは激しい非難にさらされました。命がかかってるんだから当たり前だろう、と。でも、本当にそうだろうか、と1978年のジョージ・A・ロメロは現代の観客に問いかけてきます。

『ゾンビ』では、冒頭のテレビ局のシーンのあと、SWAT隊がゾンビ一味を抹殺しに行くシーンに移り変わります。そのシーンで、ゾンビに変わり果てた夫に「あなた!」と名前を呼んで妻が抱きつくシーンがあるんですね。あれが「死者への敬意」です。その代わりその妻は夫に食われてしまうんですが。でも、ゾンビになっても、やはりその人は名前や人格をもった人間だというのが親しい者が感じる当然の感情です。それを学者は「死者への敬意が原因でゾンビが増えている」と言う。

『ゾンビ』は「死者への敬意」をキーワードとして、「はたして殺していい人間は存在するのか」という深遠な哲学と向き合うことになります。

そのはざまで葛藤に苦しむSWAT隊の若者が自死を選びますが、これはラストへの重要な伏線です。


躊躇
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今回見直して初めて気づきましたが、この黒人SWATと白人SWATは、冷酷非情な狙撃手のようでいて、実はゾンビを殺すときに一瞬の躊躇があるんですね。そのせいで白人SWATは食われてしまい、ゾンビに変容して黒人SWATに殺されてしまいます(ここももちろん仲間内での殺人なのでめちゃくちゃ躊躇あり)。

バンバン殺していってるようでいて、実は一瞬の躊躇によって彼らなりの「死者への敬意」を表明しているんですね。気づきませんでした。


殺していい人間
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この学者はテレビで過激なことを言います。

「ゾンビは本能に従っているだけ。エサを求めるただのケダモノにすぎない。どんどん殺していけ!」


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終盤に登場するこの人物は、ゾンビ増殖に乗じた強盗団の首領です。町が無法地帯と化したのをいいことに、ショッピングモールで悪行三昧のかぎりを尽くしている。

黒人SWATや白人SWAT、そしてテレビマンとテレビウーマンの4人は、殺さなかったら殺されるから仕方なく殺しているにすぎない。それが最低限の「死者への敬意」です。

なのにこの首領とその一味は、娯楽としてゾンビ狩りを楽しんでいる。一瞬の躊躇もなければ迷いもない。「合法的に人殺しができるぜ!」とばかりにバンバン殺していく。

ジョージ・A・ロメロは、はっきりゾンビよりも強盗団のほうを「殺していい人間」として描いています。黒人SWATをはじめ、みんなゾンビを殺さずに強盗団を殺していきますから。

死者への敬意が欠落した者はゾンビ以下、人間ではないという作者たちの「哲学」ですね。


ラストシーン
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強盗団を殲滅してもやはりゾンビはゾンビでどんどん増殖し、白人SWATだけでなく、テレビマンもゾンビになってしまう。あらかじめヘリの操縦を習っていたテレビウーマン(女は強い)がヘリを操縦してショッピングモールから脱出を図ります。

そのとき、黒人SWATは「俺はここに残る」と言うんですね。そして、小さな部屋に閉じこもって、ゾンビが侵入してきたら自決するつもりでいる。

これは、前述した通り、前半で自死した若者SWATが伏線となっています。死者への敬意という宗教心と、生き延びたいという動物的欲求のはざまで苦悩し、若者SWATは死ぬのですが、黒人SWATの場合も同じでしょう。

彼はこれまで生き延びるためという正当な理由こそあれ、あまりに多くのゾンビを殺しすぎた。先述した哲学者ジョルジョ・アガンベンは、「生き延びることだけが唯一絶対の正義という社会はいかがなものだろうか」と新型コロナで閉塞した世界に訴えかけました。

黒人SWATは彼なりに悩んでいたのでしょう。生き延びるためとはいえ俺はあまりに殺しすぎた。その落とし前をつける、と自決する決意をする。

でも、それをやめてヘリで逃げるんですよね。あれれ? と思いましたが、あれはあれでバッドエンディングなのかもしれません。

『インファナル・アフェア』では、殺されたトニー・レオンより生き延びたアンディ・ラウこそ無間地獄に落ちた不運な人という描き方でしたし、夏目漱石の『こころ』の先生だって、自殺したKよりつらく苦しい人生を送ってきたようだし。

42年後の社会まで射程圏内というこの『ゾンビ』は本当にすごい映画だと思います。


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