いま濱口竜介監督の『他なる映画と』第1巻を読み終わりました。これから第2巻なんですが(図書館の予約待ち)ちょいと不満があります。


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俎上に載せられる監督の名前が、小津、溝口、成瀬、エドワード・ヤン、フリッツ・ラング、エリック・ロメール、イーストウッドと、蓮實重彦が好きな名前ばかりじゃないですか。


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そりゃまぁわかることはわかるんですよ。

濱口さんの師匠は黒沢清監督で、黒沢さんの師匠が蓮實重彦だから。でも何かバランス悪い。

小説家で映画評論もする阿部和重っているじゃないですか。あの人も蓮實信奉者で、蓮實の好きそうな映画ばかり見て論評してる(いまもかどうかは定かじゃないが、かつてはそうだった)。

それで、『映画叢書』という月刊誌で「蓮實重彦は二人いらない」と攻撃されてたのを思い出しました。

『他なる映画と』第1巻を読んで一番思うのもそこですね。そりゃ「ジャン・ルノワールの演技指導」とかいうビデオを見て自分なりの演出手法を編み出したなんて言うくだりは、さすが実作者ならではの論考で、これは蓮實には絶対に語りえないことだな、とは思いましたけど。(それでも「ジャン・ルノワール」という名前は蓮實がよく出すものですよね)

でも、全体的に、阿部和重と同じで、蓮實が好きそうな映画しか見てないの? と思っちゃうんですよね。それってバランス悪くない? と。


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いまこの人の初映画論集『映像のカリスマ』を再読してるんですが、蓮實が俎上に載せそうにない名前がいっぱい挙がってるじゃないですか。

ゴダール、イーストウッド、スティーブ・カーバー、リチャード・T・ヘフロン、スピルバーグ、ジョン・カーペンター、ヴェンダース、小津なんかは同じだけど、トビー・フーパー、クローネンバーグ、ロバート・ゼメキス、ローレンス・カスダン、バリー・レビンソン、山本薩夫、黒澤明、クリストファー・リー、ピーター・カッシング、ヴィンセント・プライス、そして蓮實がこき下ろす伊丹十三と後期のサム・ペキンパー

おそらくですが、濱口さんや阿部和重が蓮實の好きそうな映画ばかりに偏っているのは、蓮實が書いた本を読むところから入っているからじゃないでしょうか。

黒沢さんは、「難解な本じゃなくて、生身の蓮實重彦に完膚なきまでに叩きのめされたのが大きかった」と言っています。

だから、蓮實がけなす映画を自分の目で見、目を凝らしてその映画のいいところを必死で見つけようとしていたのではないか。蓮實は「私も教師のはしくれとして、いかにして教師を軽蔑するかを教えてきたつもりです」と『映画狂人』シリーズの一冊で語っています。黒沢さんは蓮實を軽蔑というか全力で否定しようと思って、蓮實がほめそうもないトビー・フーパーたちを高く評価してきたのでしょう。『トレマーズ』なんかもね。すべては師匠から自由になるために。(私は蓮實を否定するために『いとこのビニー』を高く評価します)

『映像のカリスマ』の一節にも、「どんな映画にも作者の創造営為は見つけられるはずだ」という文章があります。これは非常に大事です。

『他なる映画と』第2巻ではそういう独創的な、濱口さんならではの固有名詞が出てくることを期待しています。

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映像のカリスマ・増補改訂版
黒沢 清
エクスナレッジ
2006-08-21




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