話題のドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』を見てきました。平日なのにサービスデーということもあってか、やはり盛況でした。(以下ネタバレあり)


『どうすればよかったか?』(2024、日本)
sns (1)

脚本(編集?):藤野知明&淺野由美子
監督:藤野知明


他なる映画と
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いま、濱口竜介監督による『他なる映画と』第1巻を読んでるんですが、印象的なフレーズがいくつもあって、そのひとつが「撮ることは撮り逃すことと同義である」というやつ。

映像にはフレームがありますからね。右へカメラを振れば、それまで画面の左端に映っていたものを撮り逃すことになる。

この『どうすればよかったか?』にもありました。

監督の姉で、大学生のときに統合失調症を発症したにもかかわらず、面子を重んじる両親のせいで通院すら許されず、自宅内で幽閉されていた主人公。

彼女が監督のインタビューで答えているとき、左手を広げて指さすんですね。左手だから観客から見て右側です。何を指しているのか見せてほしい、カメラを右に振って! と思ったら、ちゃんと右に振ってくれたんですが、同時に主人公の顔の左側が不可視の領域に隠れてしまい、「撮ることは撮り逃すことと同義である」という『他なる映画と』の一節を思い出したのでありました。


撮られなければならない場面
sub11「どうすればよかったか?」©︎ 2024動画工房ぞうしま  (1)

この映画は最近のドキュメンタリー映画と同様、「脚本」のクレジットがありませんが、おそらく「編集」としてクレジットされているお二人なのでしょう(監督とプロデューサー)。

撮り逃すことがあるとすれば、見せ逃すこともあるんだろうか。と見ていて思いました。つまり、確かに撮ったシーンを、見せなきゃいけないのに、見せることなく編集でカットした、というようなこと。

あるとしたら大罪ですよね。だって、観客に見せるべき場面なのだから。小津作品の脚本家だった野田高悟は、そういう場面を「演じられなければならない場面」と言って、シナリオ内にちゃんと書くように説いています。

この『どうすればよかったか?』はドキュメンタリーだから、脚本は撮影のあと(もしくは並行して)書かれるものだろうし、脚本にそういうシーンが書かれるべきとは思いません。

書かれはしなくとも撮るべきなのです。

大切な姉の弟として、おそらく姉と両親の問題を撮りたくて映画学校に行ったんでしょうから、姉が死んだあとに「どうすればよかったか?」と父親だけ(母親はすでに亡くなっている)に問いかけるんじゃなくて、姉も母親も生きていたとき、みんな元気だったときにそういう問いかけをし、その場面を撮るべきだった。撮られなければならない場面ですよ、絶対に。撮ったのならカットすることなくちゃんと見せるべき。

それをエネルギッシュな母親が死に、主人公である姉も死んだあと、もうヨボヨボで死期の迫った父親だけになってから、

「病院に連れて行かなかったのは、自分たちの子どもが統合失調症というのは面子が悪かったから?」
「この映画を他の人に見せる前提で編集してるんだけど、別にいい?」

とか訊くのは卑怯だと思う。「何をいまさら」と監督である弟に対して殺意を覚えたというのが私の偽らざる気持ちです。あんな弱った親父さんならたいして反対しないだろうし、したとしても、死んでから映画を公開すればいいという計算がうかがえます。

私は統合失調症じゃないが、ちょっと前は神経症(ノイローゼ)、いまは躁うつ病(双極性障害)を患っているのでね。自宅内に幽閉されるとか考えただけで恐ろしい。

それを監督の姉は20年も耐えたんでしょう? 両親を問いつめたかったならもっと前に言え。できなかったのならこんな映画を人に見せるな。


1分で精神症状が学べる本304
松崎 朝樹
KADOKAWA
2024-09-19


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