劇場公開してほしいと懇願する署名活動が行われているそうですが、ちょうど加入しているU-NEXTで配信が始まったので、何と罰当たりな、と思いながら見てしまいました、クリント・イーストウッド監督最新作『陪審員2番』。いやぁ、イーストウッドの映画では久しぶりに「面白かった!」と唸ってしまう極上の映画でした。(以下ネタバレあり)


『陪審員2番』(アメリカ、2024)
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脚本:ジョナサン・エイブラムズ
監督:クリント・イーストウッド
出演:ニコラス・ホルト、ゾーイ・ドゥイッチ、トニ・コレット、J・K・シモンズ、キーファー・サザーランド


物語のあらまし
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ある恋人同士の男女がいて、女が痴話喧嘩の末に男に殺されたとして、その男サイスを被告人として裁判が起こされる。検察官は次期検事長と目される女性フェイスで、この裁判で勝つことが検事長になるための条件という設定。弁護士は国選弁護人。

被告人サイスは恋人ケンドルを殴り殺して橋の上から小川のほとりに捨てたとされるが、何と陪審員2番に選ばれた主人公ケンプはその日、双子が生まれる予定だったが流産し、悲しみのあまり車で暴走して鹿を轢いてしまった。と妻アリソンには言っていたが、実は被告の恋人ケンドルを轢いて谷底まで落としてしまったのではないか。自分が真犯人だ。


葛藤
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主人公ケンプは、己が真犯人ではないのか、被告人サイスは無罪だ。と思いながら陪審に臨む。誰もがサイスが犯人に決まっていると有罪を主張するなか、最後に残されたケンプは無罪を主張。というか、もう少し考えたほうがいいと、あの『12人の怒れる男』のヘンリー・フォンダと同じことを言って、みんなに議論しましょうと促す。

有罪にしてしまえば自分は安全だ。だけど良心が許さない。主人公ケンプは映画を通してずっとゆれています。

カメラもゆれますよね。特に陪審員室のシーンで顕著ですが、フィックスで撮られた映像と、左右に微妙にゆれる映像がミックスされています。物語に見合った撮り方というべきで、古典的ハリウッド映画に通暁したイーストウッドならではの演出だなと唸りました。

自分が轢き逃げをした、という自責の念に囚われるケンプは、仲のいい弁護士にその通り話すと、「君は以前に飲酒運転で逮捕されている。次に危険運転致死罪となれば終身刑は免れないよ」と言われ、さらにゆれます。

正直に洗いざらい喋ってしまうことが彼なりの正義なのでしょうが、身重の妻と生まれてくる子どものことを考えると言えない。

言えないが、即座に被告人サイスを有罪にしてしまうのは良心が許さない。だから議論を続ける。

ここで、初日からケンプの言動がおかしいと見抜いていた黒人男性の陪審員が、「答えは二つにひとつだ。有罪か評決不能」といい、評決不能になれば裁判やり直しで、注目されている裁判だから、評決が出るまで裁判は続けられるだろう、と前述の弁護士から教わります。

そこでケンプは決断します。どうやって翻意したかは描かれませんが、有罪を主張して全員一致で有罪の評決が出ます。

しかし……

陪審員の中に元刑事がいて、職権を使って事件当時に修理に出された車のナンバーを調べていた。これがばれて彼は陪審員をクビになるのですが、検察官フェイスは、その資料をもとに独自に調査して、オーラスでは、ケンプに事情を聴きに来ます。来るべきものが来てしまったという、すべてを覚悟したケンプの表情で映画は幕を閉じるのですが、そもそもなぜケンプは「陪審員2番」なのでしょうか? そしてなぜそれがタイトル(原題も同じ)になっているのでしょうか?


陪審員2番
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『12人の怒れる男』や『12人の優しい日本人』では、陪審員は互いを番号で呼びあいます。本名を明かすことは禁じられているからです。

ですが、この『陪審員2番』では、主人公だけ「2番」と明示され、他の陪審員の番号はどうでもいいとばかりに明かされません。もちろん互いを番号で呼び合うこともない。なのに、なぜ主人公だけ「陪審員2番」であり、タイトルも『陪審員2番』なのでしょうか。

そうです。この映画に「2」という数字がすでにいくつかありましたね。

はたして正義の鉄槌を下されるべきは、被告人サイスか、それとも主人公ケンプか「サイスかケンプか」、ここに「2」という数字があります。

検察官フェイスが最後に迷う、「真実か検事長の椅子か」という「2」。

そして、黒人陪審員が言っていた、有罪か無罪かではなく、「有罪か評決不能か」という「2」。

さらに、忘れてならないのが、双子の「2」。その「2」が流産した日に、サイスかケンプかという「2」の事件が起きる。そして、「2」のことは忘れて一人だけの赤ん坊が生まれた日に、ケンプはその子を守るためにサイスを「有罪」という「1」にもっていく。

めちゃくちゃうまい作劇になっています。


さらなる「2」
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主人公ケンプは本当に被害者ケンドルを轢き逃げで殺したのでしょうか?

だって目撃者の証言があったじゃないか。という声が聞こえてきそうですが、あの目撃者に後日、検察官フェイスが話を聞きにいったら、「なあ、サイスが殺したんだろ?」と逆に訊いていました。つまり、彼は本当はサイスを見たかどうか定かじゃないのです。他の陪審員が先入観でサイスを疑っているのと同じで、そう思い込んで証言しただけです。

あの目撃者の証言のシーンで、映画は、事件現場で車から降り、橋の下を覗いていた主人公ケンプを見せます。じゃあ、目撃者が見たのは本当はケンプなのだから、ケンプが真犯人だ!

と考えるのが普通かもしれませんが、ここに「合理的疑い」があります。

この映画の前半では、法廷シーンで検察官フェイスや弁護士が何かを述べるたびに、ケンプが事件当夜のことを回想するのです。

そうです。あの橋の下を覗いていたケンプの映像は、目撃者の回想かもしれないけれど、ケンプの妄想かもしれないのです。あいつに見られた、という。

「映像」というのは、文脈によって見え方が変わります。いま自分が見ている映像が、現在のシーンか回想シーンか、あるいは、誰の見た目かなどは物語の文脈によります。この『陪審員2番』における決定的映像は、ケンプの妄想かもしれないし、目撃者の見た目かもしれない。(ここにも「ケンプか目撃者か」という「2」があります)


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この、サイスとケンドルの痴話喧嘩直前の映像は、いったい誰の「見た目」なのでしょう? 被告人サイスの回想でしょうか? それともそばにいた友人が撮ったスマホの映像でしょうか?

確か、映画の文脈では友人がスマホで撮った映像だったはずですが、しかし、こうやって1コマだけ切り取ると、サイスの回想のようにも見えてきます。

文脈なしに「映像」だけを見たら、それが誰の回想なのか、誰の見た目なのかは断定できないのです。

そして、真犯人がケンプというのも断定できない。彼がケンドルを轢き殺した事実は何も示されません。本当に鹿を轢いただけなのかもしれない。


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黒人陪審員は被告人サイスがクロだと間違った断定をしていましたが、検察官フェイスや我々観客が下す「ケンプがクロ」という断定、それこそが間違っているかもしれないのです。

フェイスの告発によりケンプを被告人とした裁判が開かれたとして(おそらくそうなるでしょうが)新しく選ばれた12人の陪審員は、彼の飲酒運転の経歴を知れば、「飲むのをやめていたはずなのに、飲んで被害者ケンドルを轢き殺したのだ」と断定するでしょう。ケンプはあの日、あの店に行っていましたしね。でも飲んではいない。

飲んではいない。でも誰も信じてくれないでしょう。飲まなかったのが真実でも、それを真実だとは誰も思ってくれない。

ケンプがフェイスに終盤に語る、「真実が正義とはかぎらない」というセリフは、それを言っているんだと思います。

ケンプは酒を飲まなかったという真実がある。真実はひとつだから「1」です。正義も「1」です。だけど、それは嘘だと主張する人間たちがいるために真実とは認定されない。

真実は、「それを真実だと思う人々」と「嘘だと決めつける人々」、その「2」によって引き裂かれます。そもそも陪審員制度がそういうものですよね。有罪か無罪かという「2」。

法廷というかぎられた場からフェイクニュースが跳梁跋扈する世界を撃つ映画、それが『陪審員2番』です。


劇場公開(蛇足に代えて)
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主人公ケンプは陪審が始まったとき、窓外を見ていました。そこに陪審員長の女性が「有罪と思うかそれとも無罪か」と声をかけ、画像のような映像になるのですが、これではニコラス・ホルトがいくらうまい芝居をしようと、ケンプの心の葛藤がわかりませんよね。

他にも、検察官フェイスがケンプの家を訪ねて、妻に鹿を轢いたことなどを聴取したとき、フェイスの後ろにケンプと妻が映った写真があったのですが、テレビ画面やパソコン画面だと、どうしても気づきにくい。

映画館の大画面ならどちらもはっきりとわかります。

映画は内容だけわかればいいと言って、VHSの時代から映画館に行かずテレビ画面で見ている人がいますが、画面が小さいゆえに、内容を理解できなくなるときが結構あるのです。

だからこそ、この映画を映画館で掛けるよう強く望みます。(やはり配信で見てしまったのは罪深かった)





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