地元の名画座に滑り込んできました。何かと話題の『ルックバック』。(以下ネタバレあり)


『ルックバック』(日本、2024)
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原作:藤本タツキ
脚本・監督:押山清高
声の出演:河合優実、吉田美月喜


ワンハリ?
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ちょっと前にクエンティン・タランティーノ監督による『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(略称『ワンハリ』)という映画がありました。

チャールズ・マンソンの一味に殺されたシャロン・テートとその周辺の人物を描いた映画で、終盤、そのマンソン一味がシャロン・テートの家に押し入るものの、架空の人物であるブラピとディカプリオが一味と格闘してシャロン・テートは殺されないという結末でした。

私は怒りました。シャロン・テートが殺されない世界線を描く。ありえたかもしれない、いや、そうあってほしかった世界を描く。それはタランティーノらしくてよろしい。しかし、問題はそのあとなんじゃないの? と。

殺されずにすんだシャロン・テートや夫のロマン・ポランスキーとかがその後、何をしたのか、あるいは何をなしえなかったのか、などを描くべきではないのか。ポランスキーは嫁さんが生きていても、それでもやっぱりアメリカでレイプ事件が起こして国際指名手配されたんだろうか、とか。

シャロン・テートが生き延びたあとを見たかった。というのが正直なところ。あそこで終わっては意味ないんじゃないの? と。


ルックバック
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今日見てきた『ルックバック』も似たような感じでした。

マンガの才があるとうぬぼれている藤野と、同級生で不登校生の京本。彼らはお互いのマンガの才を認め合う仲であり、二人でタッグを組んでマンガ賞を受ける。

が、京本は美大に進みたいといい、藤野は独りでマンガ家になる。そこであの京アニ放火殺人事件と思しき、「俺の絵をパクられた」と被害妄想に囚われた男による通り魔事件が起きて、京本は殺される。藤野は、自分が不登校の京本を部屋から出したからじゃないか、自分のせいで京本は死んだのだ、と自責の念に囚われる。

しかし、京本の家に行った藤野は相変わらずうず高く積まれたスケッチブックの山を見て、自分と出会ってなくても京本はその画力を活かすために美大に行っただろうし、通り魔に刺されもしただろう。

ここで、なぜか妄想となり、藤野はずっと空手を習っていた少女として美大通り魔殺人を未然に防ぐのだった。つまり、『ワンハリ』のシャロン・テートと同じく、京本は殺されない。自身の妄想に癒されて、藤野はまたマンガ道に邁進するのだった。

合っているのかどうか知りませんが、私にはそういう映画に見えました。

京本が死ななかった世界線を描きたい。それは京アニ放火事件など起こらず、監督やアニメーターが死なずに前と同じく普通に生きていた世界線を夢想すること。

でも、夢想だけでほんとにいいの?


イマジン
もう20年くらい昔になりますが、ジョン・レノンの『イマジン』が嫌いだと言った有名ミュージシャンがいました。理由は、「想像するだけで世界がよくなるなんてありえないから」。

アホかと思いましたね。ジョン・レノンは想像だけでいいなんて一言も歌ってない。まず、想像するところから始めようよ、と歌ってるんですよね?

それと同じで、シャロン・テートが生きている世界線、京本=京アニのスタッフたちが生きている世界線を想像するだけでは何も意味がないと思うんですよ。

殺されなかった世界線で、死んだはずの人物や周辺の人物がどう生きていくのか。そこまで想像の翼を伸ばしてほしい。


戦メリ?
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大島渚のキャリアで『戦場のメリークリスマス』は、質の面ではかなり下のほうだと私は思ってるんですが(やはり『愛と希望の街』とか『青春残酷物語』とか『少年』とか、大島なら60年代ですよね)、『戦メリ』は何といってもあの坂本龍一の音楽が素晴らしく、見てよかったという気持ちにさせられたもんです。

『ルックバック』もエンドクレジットのときの女性コーラスが素晴らしすぎるくらい素晴らしく、私の小賢しい感想など吹き飛んでしまうほどでした。

「すべての映画は音楽への嫉妬でできている」(黒沢清)





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