石井千湖という書評家が名だたる積ん読名人たちに取材した、その名も『積ん読の本』を読み、大変感銘を受けました。


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積読とは何ぞや
詩人で比較文学研究者・菅啓次郎言葉
「積ん読は英語にもフランス語にもスペイン語にもない」

ドイツ人が職業というマライ・メントラインの言葉
「積ん読はドイツ語には訳せない。本の山という言い方ならあるけど」

確かに「積ん読」は訳せないでしょうね。だって駄洒落だから。「本の山」も適当でない。積ん読という言葉の一側面しか訳せてないから。

積ん読とは何ぞや。私は三つの意味があると思います。

①読み物を積む、つまり本を積む行為。
②「積んどく」→「積んでおく」→「とりあえず買った本を積んでおく」行為。
③積んでおくことによって読む行為。

このうち、③が要諦というか、著者が取材した12人がみなこの重要性を語っていたように思いました。

12人の言葉から
学術史家の山本貴光
「本は形のあるインデックスというところがいい。だから私は積ん読がいくら増えても気にしません。むしろ積まなくてどうするという感じです

過激な言葉ですが、積ん読という行為の重要性を物語っていると思います。「形のあるインデックス」なるほど。だから↓次のような言葉↓も出てくる。

小説家・角田光代の言葉
「背表紙が見えないとその本の存在を認識できなくなるんです。見えない本は他人の本みたいな。積ん読にすらならない」

積むだけでは積ん読にならない。本の存在を把握できている状態で積まなければ積ん読とはいえない。なるほど.

ずっと前に、ツイッターで「#あなたの本棚のあいうえお」「#~かきくけこ」というハッシュタグが流行りました。

文字通り、「あ」から始まる本のタイトル、「い」で始まるもの~~~最後は「お」で始まるもの、5冊を並べて写真に撮って投稿するのです。

このとき、自分の本棚をチラ見するだけで、自分がこれまでどんな本を読んできたか、これからどんな本を読もうとしているかがほとんどわかってしまうことに気づきました。既読の本は過去の自分、未読の本は未来の自分。

背表紙が見えない、つまりタイトルと著者名がわからない本は存在してないのと同じという角田さんの主張はだからよくわかるんですよ。チラ見しただけでタイトルと著者名が一発でわかるというところが積ん読の要諦なんじゃないか。

個人商店の本屋を商う辻山良雄の言葉
「読んだ本しか家にないということは、自分がわかっている世界しかないということですよね。そんなのつまらないじゃないですか。読んでない本があると、世界は外に広がっている。道の世界に自分が開かれているんです」

これは内田樹先生も同じようなことを言っていましたっけ。図書館の本はほとんどが読んでいない。だから、図書館に行くと己の無知ぶりを思い知らされる。図書館とはそういう場であるべきだ。と貸本屋と化しつつある図書館行政を批判していました。最近はベストセラーの仕入れ数もだいぶ減ったようですが。

そこで↓こんな言葉も↓。

社会学者の服部恵典
「積ん読っていうのは、『読まない本を買ってる』んじゃなく、『自分のための図書館を建ててる』んですよね」

なるほど! そういう視点はなかった。積んで積んで積んで~~~回って回って回って回る……じゃなかった。積む行為を重ねていくと、自分だけの図書館ができあがる、と。なるほどね。で、圧倒的な量の未読本によって己の無知ぶりを思い知らされると。つまり、積ん読とは自分で自分を叱る行為なわけだ。そういうマゾヒスティックな欲望を満たすために積ん読してるとは思わなかった。目から鱗。

でも私の場合、最近はお金がないから少しずつ積ん読の量が減っています。何とかして図書館といえるだけの本を積まなきゃ。

島尾敏雄の孫娘・しまおまほは、読書が苦手なのに作家になれたらしい。それは、やはり、おじいさんが積んでいた本に圧倒されながら生きてきたからではないか。

なぁんてことを思った初冬の夕暮れでした。

最後に、この本では取材した文章だけでなく、12人の実際の積ん読状態を様々な角度からの画像で魅せてくれます。いろんな本の情報が載ってるので、読書案内としても最適かと。

本は愛しているけど、すべての本はスキャン待ちという辞典編纂者・飯間浩明という人の言葉にだけはのれませんでした。

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積ん読の本
石井千湖
主婦と生活社
2024-10-01




積読こそが完全な読書術である
永田 希
イースト・プレス
2020-04-17



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