ニコラス・ケイジが禿げ頭になって主演した『ドリーム・シナリオ』を見てきたんですが、これがまだ公開第一週なのに場内ガラガラで寂しい思いをしました。(以下ネタバレあり)
『ドリーム・シナリオ』(2023、アメリカ)
脚本・監督:クリストファー・ボルグリ
出演:ニコラス・ケイジ、ジュリアンヌ・ニコルソン、リリー・バード、ジェシカ・クレメント、マイケル・セラ
まず断っておきたいのは、私の頭が悪いのか、それとも描写の仕方が悪いのか、よくわからないところが多々あったので、この記事は感想というよりただの「つぶやき」です。
胡蝶の夢
主人公のポールが多くの人の夢に登場し、最初は人気を博します。ところが、だんだん夢の中で悪さをするようになって嫌われる。現実には何もしていなのに人気者になり、何もしていないのに大炎上してしまったポールの運命は……?
という内容なんですが、みんなの夢の中に出てきたから好感を抱くのはわかりますが、いくら実在の人物でも、夢で悪さするからといって、娘の学芸会を見に来ちゃダメとか、そこまで嫌いますかね? レストランで食べていたら「この店から出ていけ」と言われ、拒否したら唾をポールの皿に吐き散らすとか、ちょっとやりすぎ。
ただ気になるのは、私も夢をテーマにしたシナリオを書いたことがあるんですが、どうしても、クリストファー・ノーランの『インセプション』なんかもそうなんですけど、夢をテーマにすると、結局、荘子の『胡蝶の夢』になってしまうし、あれを超えられないんです。もし超えられる人がいたらやってほしいくらい。でも、たぶん人類には無理だと思う。
この『ドリーム・シナリオ』も、結局、あのラストシーンは『胡蝶の夢』ってことですよね? 違うの? 違うんだったら教えてください、あのラストの意味を。
イマジナリーライン
この映画では、人物が向き合っている場面で、何度もイマジナリーラインを越えているカットつなぎがありました。それも5回くらい。
いや、別に越えたかったら越えてもいいんです。作法を守るために映画を作ってるわけじゃないと思うので。でも、作法を破るにはそれなりの「意図」が必要だと思うんですよね。
吉田喜重監督の『人間の約束』のクライマックスでは、意図的にイマジナリーラインを踏み越えていて、それがそのシーンのもつ意味をより大きく表現できるという手段になっていました。
この映画ではそれがないんです。ただ作法を踏みにじっているだけ。残念です。
ニコラス・ケイジ
とまぁ、いつものようにムキになっちゃいましたが、私が注目したのは何といってもニコラス・ケイジですよ、ニコラス・ケイジ!
あれはもう25年くらい前か。『ロスト・イン・アメリカ』という本が出て、黒沢清、青山真治、塩田明彦、高橋洋などの面々が集まってアメリカ映画の現在を語るという、なかなか興味深い本でしたが、あの本の中でスターの話になり、黒沢さんが「ニコラス・ケイジというのがいまだにわからない」と言っていてめっちゃ共感したんですよ。確かに『バーディ』とか「リービング・ラスベガス」とかに出ていた頃のニコラス・ケイジは、ぜんぜんスターっぽくなく、伯父さんの七光りで俳優になれたんじゃないの、と言いたくなるくらいの冴えない役者でした。
それがいつからでしょう。もう10年前か、もっと前かもしれないけど、ニコラス・ケイジ主演作というだけで見たくなる自分に気づいたんです。
「ちょっと変な顔をした俳優」から「めちゃくちゃ面白い顔をしたスター俳優」に変貌しました。数年前の『PIG/ピッグ』なんかもかなりよかったじゃないですか。同じ監督の血まみれになるやつも(タイトル失念)。
だから、いま黒沢さんがニコラス・ケイジについて語るとどんなことを言うのか興味津々なんですよね。
この『ドリーム・シナリオ』のニコラス・ケイジは最高でした。芝居がうまいとかそういうことじゃなく、自分の顔の面白さを最大限に活かした「面白い芝居」が満載でした。笑えましたね。
そういえば、「笑える映画」を軽く見る人がいまだに多いですが、『スワロウテイル』などの岩井俊二監督は「笑える映画」の最高例として『トレマーズ』を挙げていました。岩井監督は別に好きではないが(脚本家としては好きです)『トレマーズ』で笑えるというのはひとつの才能だと思いました。わからないではないけど、私は笑えなかったのでね。
とりとめのないつぶやきでした。
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『人間の約束』感想(視線劇の異様なクライマックス)
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まず断っておきたいのは、私の頭が悪いのか、それとも描写の仕方が悪いのか、よくわからないところが多々あったので、この記事は感想というよりただの「つぶやき」です。
胡蝶の夢
主人公のポールが多くの人の夢に登場し、最初は人気を博します。ところが、だんだん夢の中で悪さをするようになって嫌われる。現実には何もしていなのに人気者になり、何もしていないのに大炎上してしまったポールの運命は……?
という内容なんですが、みんなの夢の中に出てきたから好感を抱くのはわかりますが、いくら実在の人物でも、夢で悪さするからといって、娘の学芸会を見に来ちゃダメとか、そこまで嫌いますかね? レストランで食べていたら「この店から出ていけ」と言われ、拒否したら唾をポールの皿に吐き散らすとか、ちょっとやりすぎ。
ただ気になるのは、私も夢をテーマにしたシナリオを書いたことがあるんですが、どうしても、クリストファー・ノーランの『インセプション』なんかもそうなんですけど、夢をテーマにすると、結局、荘子の『胡蝶の夢』になってしまうし、あれを超えられないんです。もし超えられる人がいたらやってほしいくらい。でも、たぶん人類には無理だと思う。
この『ドリーム・シナリオ』も、結局、あのラストシーンは『胡蝶の夢』ってことですよね? 違うの? 違うんだったら教えてください、あのラストの意味を。
イマジナリーライン
この映画では、人物が向き合っている場面で、何度もイマジナリーラインを越えているカットつなぎがありました。それも5回くらい。
いや、別に越えたかったら越えてもいいんです。作法を守るために映画を作ってるわけじゃないと思うので。でも、作法を破るにはそれなりの「意図」が必要だと思うんですよね。
吉田喜重監督の『人間の約束』のクライマックスでは、意図的にイマジナリーラインを踏み越えていて、それがそのシーンのもつ意味をより大きく表現できるという手段になっていました。
この映画ではそれがないんです。ただ作法を踏みにじっているだけ。残念です。
ニコラス・ケイジ
とまぁ、いつものようにムキになっちゃいましたが、私が注目したのは何といってもニコラス・ケイジですよ、ニコラス・ケイジ!
あれはもう25年くらい前か。『ロスト・イン・アメリカ』という本が出て、黒沢清、青山真治、塩田明彦、高橋洋などの面々が集まってアメリカ映画の現在を語るという、なかなか興味深い本でしたが、あの本の中でスターの話になり、黒沢さんが「ニコラス・ケイジというのがいまだにわからない」と言っていてめっちゃ共感したんですよ。確かに『バーディ』とか「リービング・ラスベガス」とかに出ていた頃のニコラス・ケイジは、ぜんぜんスターっぽくなく、伯父さんの七光りで俳優になれたんじゃないの、と言いたくなるくらいの冴えない役者でした。
それがいつからでしょう。もう10年前か、もっと前かもしれないけど、ニコラス・ケイジ主演作というだけで見たくなる自分に気づいたんです。
「ちょっと変な顔をした俳優」から「めちゃくちゃ面白い顔をしたスター俳優」に変貌しました。数年前の『PIG/ピッグ』なんかもかなりよかったじゃないですか。同じ監督の血まみれになるやつも(タイトル失念)。
だから、いま黒沢さんがニコラス・ケイジについて語るとどんなことを言うのか興味津々なんですよね。
この『ドリーム・シナリオ』のニコラス・ケイジは最高でした。芝居がうまいとかそういうことじゃなく、自分の顔の面白さを最大限に活かした「面白い芝居」が満載でした。笑えましたね。
そういえば、「笑える映画」を軽く見る人がいまだに多いですが、『スワロウテイル』などの岩井俊二監督は「笑える映画」の最高例として『トレマーズ』を挙げていました。岩井監督は別に好きではないが(脚本家としては好きです)『トレマーズ』で笑えるというのはひとつの才能だと思いました。わからないではないけど、私は笑えなかったのでね。
とりとめのないつぶやきでした。
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