都心1館だけの上映から全国拡大公開へと大ヒット街道驀進中の『侍タイムスリッパー』を見てきましたが、私はどうにも引っかかるものを感じて乗りきれませんでした。(以下ネタバレあり)
『侍タイムスリッパー』(2023、日本)
脚本・監督・撮影・編集(ほか全11役):安田淳一
出演:山口馬木也、冨家マサノリ、沙倉ゆうの、峰蘭太郎、庄野崎謙、紅萬子、福田善晴、井上馨
編集がよい
まず良い点から挙げると、何より編集がいいですね。斬られ役に収まるまでが長いとか言われているようですが、私はそうは感じなかった。
逆に、音のズリ下げ・ズリ上げを随所に使い、できるだけテンポよく見せようという工夫が感じられてよかったと思います。ズリ下げ・ズリ上げを多用しなかったら150分は超えてたんじゃないでしょうか。さすがにそれでは冗長で、ここまでの高評価は得られなかったでしょう。監督さん、かなり時間かけて編集したんじゃないでしょうか。
あとは、タイムスリップ映画にはつきものですが、時代背景のずれにより起こる勘違いやそれから発生する笑いですね。結構笑えました。
ただ、最後まで現代の人々が、主人公の高坂新左衛門と敵役の風見恭一郎を本物の武士だと知らずに終わりますが、最後までばらさないというのはどうなんでしょうね。ウソと違って絶対に露見しないといけないことではないし、ばれたら最後の斬りあいも止められてたでしょうし。ま、それはいいか。
なぜ斬られ役なのか
さて、ここから疑問点に移ります。
主人公の会津藩士・高坂新左衛門は、憎き長州藩士を討とうと斬り結んだところで現代の撮影所のオープンセットにタイムスリップします。
つまり彼は勝負の真っただ中で幕末から放り出されたのです。憎い、長州が憎い。坂本龍馬も憎い。とにかく幕府に反する者どもはすべて叩っ斬る! という勢いのはずの彼が、なぜ「斬られ役」を自ら欲するのか、ここがわからない。
彼がやりたいのは斬るほうのはずじゃないの? つまり主役。主役をやりたいといっても何をバカなと笑われるだけ。斬られ役から始めろと言われる。そんなことは侍としてのプライドが許さんと撮影所を出ていく。
が、あのとき……長州藩士と斬り結んだあのとき、あのまま続けていれば俺は斬られていたのではあるまいか。いや、そんなことはない。本当にそうか? 俺は結局その程度の剣士だったのではあるまいか。そうに違いない。自己嫌悪にかられた新左衛門は、泣く泣く斬られ役を所望する。という展開にすればよかったんじゃないかと思うのです。
そうすれば、あのショートケーキにもさらに意味をつけられます。
つまり、自分が斬られたから、さらには幕府が滅んで新しい時代がやって来たから、俺の国・日ノ本はこんなに豊かでいい国になったんだ。そうだ、斬られてよかったんだ、と。(第二次世界大戦に負けたからよかったんだ、という昭和世代の心をくすぐることもできたかもしれない)
斬られてよかった。だからこそ、斬られ役を一生懸命やるのだ。ここはもう新左衛門のマゾヒスティックな面が出ていい気がします。斬られるたびに悦びに打ち顫えるという。しかし、これでは実際の『侍タイムスリッパー』と違う味になっちゃいますかね? でも、そうでもしないと「なぜ斬られる側になりたいのか」がわからないんですよ。
この主人公はあまりにものわかりがよすぎますよね。徳川幕府が滅びて140年という厳しい現実をあまりに簡単に受け入れすぎです。最終的に受け入れるとしても、もっとジタバタするのが人間だと思う。
真剣勝負
もうひとつわからないのが、新左衛門が薩長土肥によって会津藩士たちを全滅させられたことを知り、いまは映画スターに収まっているあのときの長州藩士・風見恭一郎を許せない、斬りたいと映画の撮影現場での彼との立ち回りに真剣を使わせてほしいと申し出るところ。
何で映画の撮影現場を使うんでしょうか???
新左衛門は風見恭一郎を討ちたいわけですよね。ただ卑怯な手は使いたくない。それだけなら映画の撮影現場でやる必要はないんじゃないですか? 二人だけでナイフでも買ってきて、深夜の公園かどこかで正々堂々と果たし合いをすればよろしい。
ゆえに、新左衛門が映画の撮影で真剣勝負がしたいと申し出るのは完全に作者の都合です。なぜお世話になった助監督さん他、スタッフのみんなに迷惑をかけるかもしれないのに、めっちゃ危険な手を使うのか。それは作者の都合でしかないですよね。
↓私ならこうしますね。↓
新左衛門と風見恭一郎が新作映画のクライマックスで立ち回りを演じる。新左衛門も風見も現代に慣れてしまって、ウソの立ち回りをするのがやっと。そこにすべてを知っている助監督が(そう、彼女だけはすべてを知っている設定にするのです)二人の竹光を真剣にすり替えておく。
あまりの重さに「何だこれぇ」となるが、久しぶりの本身の輝きを見て、二人とも自分の本分を思い出し、真剣勝負! 死闘の末に新左衛門が風見を討つ。
そう、そういう結末にしちゃう。実際の映画ではなぜ新左衛門が風見を斬れなかったのか、少しもわからなくなっています。
しかし、私が考案した結末だと、新左衛門も助監督も逮捕されますよね。それは『侍タイムスリッパー』の味とはそれこそ違ったものになっちゃってますね。
でも、逆にいえば、それぐらいのことをしたくなってしまうくらい、この映画はわからないところだらけだし、ご都合主義なのです。
劇場によっては終了時に拍手が起こるとか。わからない!
『侍タイムスリッパー』(2023、日本)
脚本・監督・撮影・編集(ほか全11役):安田淳一
出演:山口馬木也、冨家マサノリ、沙倉ゆうの、峰蘭太郎、庄野崎謙、紅萬子、福田善晴、井上馨
編集がよい
まず良い点から挙げると、何より編集がいいですね。斬られ役に収まるまでが長いとか言われているようですが、私はそうは感じなかった。
逆に、音のズリ下げ・ズリ上げを随所に使い、できるだけテンポよく見せようという工夫が感じられてよかったと思います。ズリ下げ・ズリ上げを多用しなかったら150分は超えてたんじゃないでしょうか。さすがにそれでは冗長で、ここまでの高評価は得られなかったでしょう。監督さん、かなり時間かけて編集したんじゃないでしょうか。
あとは、タイムスリップ映画にはつきものですが、時代背景のずれにより起こる勘違いやそれから発生する笑いですね。結構笑えました。
ただ、最後まで現代の人々が、主人公の高坂新左衛門と敵役の風見恭一郎を本物の武士だと知らずに終わりますが、最後までばらさないというのはどうなんでしょうね。ウソと違って絶対に露見しないといけないことではないし、ばれたら最後の斬りあいも止められてたでしょうし。ま、それはいいか。
なぜ斬られ役なのか
さて、ここから疑問点に移ります。
主人公の会津藩士・高坂新左衛門は、憎き長州藩士を討とうと斬り結んだところで現代の撮影所のオープンセットにタイムスリップします。
つまり彼は勝負の真っただ中で幕末から放り出されたのです。憎い、長州が憎い。坂本龍馬も憎い。とにかく幕府に反する者どもはすべて叩っ斬る! という勢いのはずの彼が、なぜ「斬られ役」を自ら欲するのか、ここがわからない。
彼がやりたいのは斬るほうのはずじゃないの? つまり主役。主役をやりたいといっても何をバカなと笑われるだけ。斬られ役から始めろと言われる。そんなことは侍としてのプライドが許さんと撮影所を出ていく。
が、あのとき……長州藩士と斬り結んだあのとき、あのまま続けていれば俺は斬られていたのではあるまいか。いや、そんなことはない。本当にそうか? 俺は結局その程度の剣士だったのではあるまいか。そうに違いない。自己嫌悪にかられた新左衛門は、泣く泣く斬られ役を所望する。という展開にすればよかったんじゃないかと思うのです。
そうすれば、あのショートケーキにもさらに意味をつけられます。
つまり、自分が斬られたから、さらには幕府が滅んで新しい時代がやって来たから、俺の国・日ノ本はこんなに豊かでいい国になったんだ。そうだ、斬られてよかったんだ、と。(第二次世界大戦に負けたからよかったんだ、という昭和世代の心をくすぐることもできたかもしれない)
斬られてよかった。だからこそ、斬られ役を一生懸命やるのだ。ここはもう新左衛門のマゾヒスティックな面が出ていい気がします。斬られるたびに悦びに打ち顫えるという。しかし、これでは実際の『侍タイムスリッパー』と違う味になっちゃいますかね? でも、そうでもしないと「なぜ斬られる側になりたいのか」がわからないんですよ。
この主人公はあまりにものわかりがよすぎますよね。徳川幕府が滅びて140年という厳しい現実をあまりに簡単に受け入れすぎです。最終的に受け入れるとしても、もっとジタバタするのが人間だと思う。
真剣勝負
もうひとつわからないのが、新左衛門が薩長土肥によって会津藩士たちを全滅させられたことを知り、いまは映画スターに収まっているあのときの長州藩士・風見恭一郎を許せない、斬りたいと映画の撮影現場での彼との立ち回りに真剣を使わせてほしいと申し出るところ。
何で映画の撮影現場を使うんでしょうか???
新左衛門は風見恭一郎を討ちたいわけですよね。ただ卑怯な手は使いたくない。それだけなら映画の撮影現場でやる必要はないんじゃないですか? 二人だけでナイフでも買ってきて、深夜の公園かどこかで正々堂々と果たし合いをすればよろしい。
ゆえに、新左衛門が映画の撮影で真剣勝負がしたいと申し出るのは完全に作者の都合です。なぜお世話になった助監督さん他、スタッフのみんなに迷惑をかけるかもしれないのに、めっちゃ危険な手を使うのか。それは作者の都合でしかないですよね。
↓私ならこうしますね。↓
新左衛門と風見恭一郎が新作映画のクライマックスで立ち回りを演じる。新左衛門も風見も現代に慣れてしまって、ウソの立ち回りをするのがやっと。そこにすべてを知っている助監督が(そう、彼女だけはすべてを知っている設定にするのです)二人の竹光を真剣にすり替えておく。
あまりの重さに「何だこれぇ」となるが、久しぶりの本身の輝きを見て、二人とも自分の本分を思い出し、真剣勝負! 死闘の末に新左衛門が風見を討つ。
そう、そういう結末にしちゃう。実際の映画ではなぜ新左衛門が風見を斬れなかったのか、少しもわからなくなっています。
しかし、私が考案した結末だと、新左衛門も助監督も逮捕されますよね。それは『侍タイムスリッパー』の味とはそれこそ違ったものになっちゃってますね。
でも、逆にいえば、それぐらいのことをしたくなってしまうくらい、この映画はわからないところだらけだし、ご都合主義なのです。
劇場によっては終了時に拍手が起こるとか。わからない!
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