今日、U-NEXTで配信が始まったばかりのテレビシリーズ『ガールズ・オン・ザ・バス』を見始めました。ところが、第1話を見終わって何だか疲れてしまいました。
このテレビシリーズは、大統領選にツアー帯同して記事を書くべく悪戦苦闘する4人の女性記者を描いているのですが、それなりに面白いと思うものの、私の好きな作品じゃないなと見る前の予感的中といった感じなんです。
何が好かんと言って、女性の立場(原作者も女性)からその権利や男への嫌悪感を出すことがいやだとは少しも思いません。セクハラがだめなのは常識だし、#MeToo運動を踏まえないといまの女性は描けないと思うし。
私が乗れなかったのはそういう内容面ではなく、表層です。そう、スターがいないのです。
主役の女優さんはかわいらしいですが、いかんせん、スターじゃないからオーラがない。こないだ見た『ニコール・キッドマンの恋愛天国』で言うなら、ニコール・キッドマンやナオミ・ワッツには無名時代からオーラを感じます。というか、後にスターになるとわかっているからこちらが勝手に感じ取るんでしょうけど。
いずれにしても、『ガールズ・オン・ザ・バス』の主演女優にはオーラがない。かろうじてカーラ・グギーノという女優は名前は知っているけど、彼女もやはり芸歴が長いとはいえスターではない。
「スター」といえば、この人を思い出しました。
この人を知っている人は少ないでしょう。映画監督で脚本家の金秀吉(キム・スギル)さん。(在日朝鮮人なのに下の名前が「秀吉」なんですね。どういう経緯でそう名付けられたんだろう???)
1986年の石橋保や洞口依子が出演した『君は裸足の神を見たか』しか監督作品は見てませんが、これが、神戸のシネクラブで上映されたとき(もう30年以上前)見に行きました。つまらなかったのは別にいいです。つまらない映画なんて腐るほどあるし。
問題は、監督自身が来神して舞台挨拶があったんですけど、そこで「ウディ・アレンの映画が大好き」だというんですね。それも別にいいんです。私だって大好きだから。許せないのは、「いつまでもシュワちゃんじゃない!」と言ったことです。
当時、『トータル・リコール』や『ターミネーター2』で飛ぶ鳥を落とす勢いだったアーノルド・シュワルツェネッガーをけなしたのが許せなかった。しかも、さらに、「内容で見せる映画が好きです。誰が出てるとかじゃなくてね」。
椅子を蹴って帰ろうかと思いました。そりゃ内容も大事だろうが、スターがいなくても映画が成立すると考えてるのが気に障りました。たぶん、大スターを起用すれば客が入るという「計算」がいやだったんでしょうが、金さんは知らなかったのかな。ハンガリーの映画評論家、ベラ・バラージュの有名な言葉を。
「映画は、人間の顔が風景であることを発見した」
シュワルツェネッガー
スタローン
ジャッキー・チェン
この3人は私が17歳の秋に『明日に向って撃て!』を見て映画に狂う前に見ていた数少ないスターたちですが、みんないい顔をしていますよ。大島渚の顔を借りれば「チャーミング」なんです。
「チャーミングな顔=魅力的な風景」なしでも映画が成立すると頑なに信じているキムさんが哀れでした。
黒沢清監督が1998年のぴあフィルムフェスティバルに『蛇の道』が招待作品として上映されたときのティーチ・インで興味深いことを言っていました。俳優志望の青年が「現場で俳優さんにどんな演技指導をされますか?」という質問に対する答え。
「もうそれは決まってます。『あなた自身でいてください』これだけです。なぜかというと、例えば哀川翔が何々という名前の役を演じているとき、お客さんが見るのはその役もだけれど、哀川翔本人も見ているからです。映画のカメラというのは恐ろしくて、その人の人となりをすべて映し出してしまう。だから嘘はだめなんです。役を演じながらも自分自身でいることは忘れないでほしい」
この言葉に、映画における「スター」の重要性が語られている気がします。
哀川翔本人
哀川翔が演じる役
我々はこの二つを同時に見ている。そしてスターの「オーラ」というのほおそらく、「本人」の部分でしょう。役をはみ出して本人の魅力が大きくはみ出してしまう。図に書けばこんな感じかな。
本 人
役
観 客
皆既日食のときのフレアと同じ現象が起きているのだと思われます。観客から見ると役の輪郭を大きくはみ出して本人の魅力が顔を出す。そして、「本人」の部分の大きさはスター性の大小に比例する。
大衆がスターを追い求めるのは、何といってもこのオーラを感じ取りたいからで、オーラとは「人間としての魅力」なのだから、その匂いを嗅ぎ取ることができなくてよく映画監督なんかやってるな、と金秀吉さんについて思ったのでした。
このテレビシリーズは、大統領選にツアー帯同して記事を書くべく悪戦苦闘する4人の女性記者を描いているのですが、それなりに面白いと思うものの、私の好きな作品じゃないなと見る前の予感的中といった感じなんです。
何が好かんと言って、女性の立場(原作者も女性)からその権利や男への嫌悪感を出すことがいやだとは少しも思いません。セクハラがだめなのは常識だし、#MeToo運動を踏まえないといまの女性は描けないと思うし。
私が乗れなかったのはそういう内容面ではなく、表層です。そう、スターがいないのです。
主役の女優さんはかわいらしいですが、いかんせん、スターじゃないからオーラがない。こないだ見た『ニコール・キッドマンの恋愛天国』で言うなら、ニコール・キッドマンやナオミ・ワッツには無名時代からオーラを感じます。というか、後にスターになるとわかっているからこちらが勝手に感じ取るんでしょうけど。
いずれにしても、『ガールズ・オン・ザ・バス』の主演女優にはオーラがない。かろうじてカーラ・グギーノという女優は名前は知っているけど、彼女もやはり芸歴が長いとはいえスターではない。
「スター」といえば、この人を思い出しました。
この人を知っている人は少ないでしょう。映画監督で脚本家の金秀吉(キム・スギル)さん。(在日朝鮮人なのに下の名前が「秀吉」なんですね。どういう経緯でそう名付けられたんだろう???)
1986年の石橋保や洞口依子が出演した『君は裸足の神を見たか』しか監督作品は見てませんが、これが、神戸のシネクラブで上映されたとき(もう30年以上前)見に行きました。つまらなかったのは別にいいです。つまらない映画なんて腐るほどあるし。
問題は、監督自身が来神して舞台挨拶があったんですけど、そこで「ウディ・アレンの映画が大好き」だというんですね。それも別にいいんです。私だって大好きだから。許せないのは、「いつまでもシュワちゃんじゃない!」と言ったことです。
当時、『トータル・リコール』や『ターミネーター2』で飛ぶ鳥を落とす勢いだったアーノルド・シュワルツェネッガーをけなしたのが許せなかった。しかも、さらに、「内容で見せる映画が好きです。誰が出てるとかじゃなくてね」。
椅子を蹴って帰ろうかと思いました。そりゃ内容も大事だろうが、スターがいなくても映画が成立すると考えてるのが気に障りました。たぶん、大スターを起用すれば客が入るという「計算」がいやだったんでしょうが、金さんは知らなかったのかな。ハンガリーの映画評論家、ベラ・バラージュの有名な言葉を。
「映画は、人間の顔が風景であることを発見した」
シュワルツェネッガー
スタローン
ジャッキー・チェン
この3人は私が17歳の秋に『明日に向って撃て!』を見て映画に狂う前に見ていた数少ないスターたちですが、みんないい顔をしていますよ。大島渚の顔を借りれば「チャーミング」なんです。
「チャーミングな顔=魅力的な風景」なしでも映画が成立すると頑なに信じているキムさんが哀れでした。
黒沢清監督が1998年のぴあフィルムフェスティバルに『蛇の道』が招待作品として上映されたときのティーチ・インで興味深いことを言っていました。俳優志望の青年が「現場で俳優さんにどんな演技指導をされますか?」という質問に対する答え。
「もうそれは決まってます。『あなた自身でいてください』これだけです。なぜかというと、例えば哀川翔が何々という名前の役を演じているとき、お客さんが見るのはその役もだけれど、哀川翔本人も見ているからです。映画のカメラというのは恐ろしくて、その人の人となりをすべて映し出してしまう。だから嘘はだめなんです。役を演じながらも自分自身でいることは忘れないでほしい」
この言葉に、映画における「スター」の重要性が語られている気がします。
哀川翔本人
哀川翔が演じる役
我々はこの二つを同時に見ている。そしてスターの「オーラ」というのほおそらく、「本人」の部分でしょう。役をはみ出して本人の魅力が大きくはみ出してしまう。図に書けばこんな感じかな。
本 人
役
観 客
皆既日食のときのフレアと同じ現象が起きているのだと思われます。観客から見ると役の輪郭を大きくはみ出して本人の魅力が顔を出す。そして、「本人」の部分の大きさはスター性の大小に比例する。
大衆がスターを追い求めるのは、何といってもこのオーラを感じ取りたいからで、オーラとは「人間としての魅力」なのだから、その匂いを嗅ぎ取ることができなくてよく映画監督なんかやってるな、と金秀吉さんについて思ったのでした。
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