内田樹先生の『図書館には人がいないほうがいい』を読みました。韓国の司書さんたちの前で行われた講演録をまず韓国語で出版してから、訳者さんが訳してくれたものです。ありがたいですね。
いきなり映画のタイトル『ジョン・ウィック・チャプター2』が出てきたので驚きました。(私はこのシリーズとはパート1でオサラバしてるので未見ですが)
「『ジョン・ウィック:チャプター2』の中で、ニューヨーク中の殺し屋から追われる身となったジョン・ウィックは、ニューヨーク公共図書館に逃げ込みます。人けのない書架の奥のほうにある厚い書物をくりぬく。そこにジョンは大切な宝物を隠していたので、それを取りに行ったのです。もちろん宝物はそこにちゃんとありました。彼がその本を前に書架に戻してからどれぐらいの歳月が流れたか知りませんが、誰一人その本を開かなかったのです。僕はその場面を見て『図書館はこうでなくっちゃ』とつぶやいてしまいました。そうなんですよ。そこが図書館の『すごいところ』なんです」
税金で賄った大切な蔵書を長らく誰も読んでいない。それが図書館としてのあるべき姿だという。なぜそう言えるのか。この本を読んでいくとあら不思議。すっかり納得させられちゃいました。
まず、内田先生はこう言い切ります。
「図書館はそこを訪れた人の無知を可視化する装置である」
どういうことか。
「中学生のころから、私は折に触れて図書館の中を長い時間さまよったけれども、そこでいちばん骨身にしみたのは「読みたい本がこんなにある」という喜び以上に、「読むことなく生涯を終える本がこんなにある」という己の知見の狭さについての痛切な自覚だった」
「自分がどれほど無知であるかを思い知ること。いまも無知だし、死ぬまで勉強してもたぶん無知のままで終わるのだ、と。その自分自身の恐るべき「無知」を前に戦慄するというのが、図書館で経験する最も重要な出来事だと僕は思います」
だから図書館は誰にも読まれない本が必要だと。廊下を歩く人間を見下ろして「この程度の本も読んでないおまえは無知丸出しの大バカ野郎だ」と本が人間を罵るような装置として図書館はあるというんですね。すごい逆説というか卓見ですね。
同じようなことが、昔の日本の家の中にもあったと内田先生は言います。
「昔の家には必ず鴨居の下に扁額が掛かり、床の間には掛け軸が下がり、屏風には色紙が貼ってあった。そして、たいていそこには「読めない文字」が書かれていた。だから好奇心が兆したときには、その家の人に向かって「これは何という字が書いてあるのですか?」と訊ねなければならなかった。その問いに答えてくれるのは必ずしも質問者と同程度の教養人ではなかった。むしろほとんどの場合はそうではなかった。ときには廊下から覗き込む子どもやお茶を運んできた使用人が教えてくれた。「文字の読み方を人に教わる」というのは、自分にはそれなりに教養があると思っている人間にとっては「屈辱的な経験」である。でも、そういう屈辱をシステマティックに味わうことを通じて己の無知を思い知るという教育的な仕掛けはたぶんどこの国の文化にもあったのだと思う」
なるほど確かに。そのような家に住んだことはないが。わかる気がする。あれが知性を活性化するためのものだったとは。目からウロコ。
知性を活性化するといえば、この本の中盤くらいで、図書館の話から離れて、知の活性化という話がしばらく続くのですが、私は昔友人だった人間のことを思い出していました。
「学びの姿勢としてよくないことは、頭の中にガラクタな情報や知識が詰まっていて、もう新しい知識や情報が入らない状態です。「無知」というのはそのことなんです。(中略)ですから、それを逆にいうと、「知的」というのは渇いたスポンジが水を吸うように次々と新しい知に対しての渇望が湧いてくる状態のことです。そういう知の自己刷新のことを「知」というんです」
そういう奴いたなぁ、と遠い目になりました。彼はとにかく自分の知らない知見に接すると、すぐに「それは嘘だ」あるいは「それはほんとに本当か」と言ってきました。新しい知見に接したらまず受け入れなければならないのに、まず撥ねつけるという真似ばかりしていました。
何でもはっきり言う私は、「おまえは言葉の真の意味で頭の悪い人間だ」と言ってやりました。それでもわからなかったらしい。内田先生によれば、こういう人間の病巣の根は深いとのことです。
「この無知で凝り固まった子たちを解きほぐすのってなかなか難しいんです。だって子どもたちが居着くのは、実は自己防衛のためだからです。自己刷新というのは、一回自分の手持ちのスキームを手放すことです。一度、自分の信念の体系を壊して、無防備な、開放状態になる。だからそのときにはすごくフラジャイルで、傷つきやすくなる。その柔らかい状態になったときに、誰かに傷つけられた経験をもってる子は、それがトラウマになって自分を開くことをやめてしまうんです。怖いから」
なるほどねぇ。彼もまた被害者だったわけか。知的であろうとして一度自分を無防備な開放状態に置いたけれど、そこで手ひどく騙されたりしたわけですね。
「知的であるためにはある種の無防備さが必要なんです。「無防備になれる」ってものすごく高度な能力なわけです。その能力を涵養していくことが、学校教育の、特に初等中等教育の仕事なんだと思います。子どもたちに「イノセンス」でいいんだよ。無防備でかまわないんだよ。無防備でいても誰も君を傷つけないから」と約束すること」
私はあのとき「おまえは頭が悪い」などと言うべきではなかった。「無防備でいいんだよ」と言うべきだった。後悔。
ところで、本は商品でしょうか。商品ではないのでしょうか。内田先生の答えは明快です。その両方である。
本は商品だけれども、その前に公共財である。公共財であるうえで商品でもある。公共財でなく商品でしかない本(政治家の宣伝本)は焚書と同じ効果をもつと手厳しい。
なぜかというのは以下の文章を読むとよくわかります。
「「原発事故が起きた」「戦争が勃発した」「感染症が拡大」とかいうニュースについては「ここから先は有料記事です」などというふざけた真似はしないはずです」
「「ここからあとは有料記事」というのは、「まあ、別に知らなくても特に困るという話じゃないんですけどね」というタグを貼っているようなものです。情報に課金することのいかがわしさはこの逆説に集約されていると僕は感じます」
有用な情報が載っている本は公共財だから本来は無料で配るべきものである。しかし、それでは書き手が生活できないから、それで商品の形ももたせているだけだ。という内田節。
さて、私は、中島らもさんの『しりとりえっせい』を読んで、読む力と書く力を獲得した者ですが、『しりとりえっせい』との電撃的出逢い(と思っていたもの)はそうではないと内田先生は言います。
「どの本を手に取ってもよかったのだが、他ならぬその本を「たまたま」手に取ってしまったという偶有性が保証されていなければ、「宿命」という言葉は出てこない。(中略)書評で絶賛されていたり、友だちに熱心に勧められたり、夏休みの課題図書であったりした本は、どれほど面白く読んでも、それを「宿命の出逢い」だと言い募ることはできない。そこには人為が介在しているからだ」
『しりとりえっせい』は一緒に書店に行った次兄が「これ、面白いらしいよ」と言っていたので騙されたつもりで買い求めたのです。そしたらハマってしまった。何度も読み、ほとんどすべてを諳んじられるくらいに読みました。
それが「宿命の出逢い」とは違う、というのは、それこそ違うと思う。
内田先生は「友達に熱心に勧められたりした本との出逢いを宿命の出逢いと言い募ることはできない」と言ってますが、次兄は熱心に勧めたのではなかった。「面白いらしいよ」とつぶやくように言っただけです。そこにたまたま乗るだけの気まぐれや財貨があった。その偶有性は認めてほしい。
この本のほとんどの項目に私は同意署名しますが、以上の箇所については珍しく反旗を翻します。
これをもって『図書館には人がいないほうがいい』の感想を終わります。
いきなり映画のタイトル『ジョン・ウィック・チャプター2』が出てきたので驚きました。(私はこのシリーズとはパート1でオサラバしてるので未見ですが)
「『ジョン・ウィック:チャプター2』の中で、ニューヨーク中の殺し屋から追われる身となったジョン・ウィックは、ニューヨーク公共図書館に逃げ込みます。人けのない書架の奥のほうにある厚い書物をくりぬく。そこにジョンは大切な宝物を隠していたので、それを取りに行ったのです。もちろん宝物はそこにちゃんとありました。彼がその本を前に書架に戻してからどれぐらいの歳月が流れたか知りませんが、誰一人その本を開かなかったのです。僕はその場面を見て『図書館はこうでなくっちゃ』とつぶやいてしまいました。そうなんですよ。そこが図書館の『すごいところ』なんです」
税金で賄った大切な蔵書を長らく誰も読んでいない。それが図書館としてのあるべき姿だという。なぜそう言えるのか。この本を読んでいくとあら不思議。すっかり納得させられちゃいました。
まず、内田先生はこう言い切ります。
「図書館はそこを訪れた人の無知を可視化する装置である」
どういうことか。
「中学生のころから、私は折に触れて図書館の中を長い時間さまよったけれども、そこでいちばん骨身にしみたのは「読みたい本がこんなにある」という喜び以上に、「読むことなく生涯を終える本がこんなにある」という己の知見の狭さについての痛切な自覚だった」
「自分がどれほど無知であるかを思い知ること。いまも無知だし、死ぬまで勉強してもたぶん無知のままで終わるのだ、と。その自分自身の恐るべき「無知」を前に戦慄するというのが、図書館で経験する最も重要な出来事だと僕は思います」
だから図書館は誰にも読まれない本が必要だと。廊下を歩く人間を見下ろして「この程度の本も読んでないおまえは無知丸出しの大バカ野郎だ」と本が人間を罵るような装置として図書館はあるというんですね。すごい逆説というか卓見ですね。
同じようなことが、昔の日本の家の中にもあったと内田先生は言います。
「昔の家には必ず鴨居の下に扁額が掛かり、床の間には掛け軸が下がり、屏風には色紙が貼ってあった。そして、たいていそこには「読めない文字」が書かれていた。だから好奇心が兆したときには、その家の人に向かって「これは何という字が書いてあるのですか?」と訊ねなければならなかった。その問いに答えてくれるのは必ずしも質問者と同程度の教養人ではなかった。むしろほとんどの場合はそうではなかった。ときには廊下から覗き込む子どもやお茶を運んできた使用人が教えてくれた。「文字の読み方を人に教わる」というのは、自分にはそれなりに教養があると思っている人間にとっては「屈辱的な経験」である。でも、そういう屈辱をシステマティックに味わうことを通じて己の無知を思い知るという教育的な仕掛けはたぶんどこの国の文化にもあったのだと思う」
なるほど確かに。そのような家に住んだことはないが。わかる気がする。あれが知性を活性化するためのものだったとは。目からウロコ。
知性を活性化するといえば、この本の中盤くらいで、図書館の話から離れて、知の活性化という話がしばらく続くのですが、私は昔友人だった人間のことを思い出していました。
「学びの姿勢としてよくないことは、頭の中にガラクタな情報や知識が詰まっていて、もう新しい知識や情報が入らない状態です。「無知」というのはそのことなんです。(中略)ですから、それを逆にいうと、「知的」というのは渇いたスポンジが水を吸うように次々と新しい知に対しての渇望が湧いてくる状態のことです。そういう知の自己刷新のことを「知」というんです」
そういう奴いたなぁ、と遠い目になりました。彼はとにかく自分の知らない知見に接すると、すぐに「それは嘘だ」あるいは「それはほんとに本当か」と言ってきました。新しい知見に接したらまず受け入れなければならないのに、まず撥ねつけるという真似ばかりしていました。
何でもはっきり言う私は、「おまえは言葉の真の意味で頭の悪い人間だ」と言ってやりました。それでもわからなかったらしい。内田先生によれば、こういう人間の病巣の根は深いとのことです。
「この無知で凝り固まった子たちを解きほぐすのってなかなか難しいんです。だって子どもたちが居着くのは、実は自己防衛のためだからです。自己刷新というのは、一回自分の手持ちのスキームを手放すことです。一度、自分の信念の体系を壊して、無防備な、開放状態になる。だからそのときにはすごくフラジャイルで、傷つきやすくなる。その柔らかい状態になったときに、誰かに傷つけられた経験をもってる子は、それがトラウマになって自分を開くことをやめてしまうんです。怖いから」
なるほどねぇ。彼もまた被害者だったわけか。知的であろうとして一度自分を無防備な開放状態に置いたけれど、そこで手ひどく騙されたりしたわけですね。
「知的であるためにはある種の無防備さが必要なんです。「無防備になれる」ってものすごく高度な能力なわけです。その能力を涵養していくことが、学校教育の、特に初等中等教育の仕事なんだと思います。子どもたちに「イノセンス」でいいんだよ。無防備でかまわないんだよ。無防備でいても誰も君を傷つけないから」と約束すること」
私はあのとき「おまえは頭が悪い」などと言うべきではなかった。「無防備でいいんだよ」と言うべきだった。後悔。
ところで、本は商品でしょうか。商品ではないのでしょうか。内田先生の答えは明快です。その両方である。
本は商品だけれども、その前に公共財である。公共財であるうえで商品でもある。公共財でなく商品でしかない本(政治家の宣伝本)は焚書と同じ効果をもつと手厳しい。
なぜかというのは以下の文章を読むとよくわかります。
「「原発事故が起きた」「戦争が勃発した」「感染症が拡大」とかいうニュースについては「ここから先は有料記事です」などというふざけた真似はしないはずです」
「「ここからあとは有料記事」というのは、「まあ、別に知らなくても特に困るという話じゃないんですけどね」というタグを貼っているようなものです。情報に課金することのいかがわしさはこの逆説に集約されていると僕は感じます」
有用な情報が載っている本は公共財だから本来は無料で配るべきものである。しかし、それでは書き手が生活できないから、それで商品の形ももたせているだけだ。という内田節。
さて、私は、中島らもさんの『しりとりえっせい』を読んで、読む力と書く力を獲得した者ですが、『しりとりえっせい』との電撃的出逢い(と思っていたもの)はそうではないと内田先生は言います。
「どの本を手に取ってもよかったのだが、他ならぬその本を「たまたま」手に取ってしまったという偶有性が保証されていなければ、「宿命」という言葉は出てこない。(中略)書評で絶賛されていたり、友だちに熱心に勧められたり、夏休みの課題図書であったりした本は、どれほど面白く読んでも、それを「宿命の出逢い」だと言い募ることはできない。そこには人為が介在しているからだ」
『しりとりえっせい』は一緒に書店に行った次兄が「これ、面白いらしいよ」と言っていたので騙されたつもりで買い求めたのです。そしたらハマってしまった。何度も読み、ほとんどすべてを諳んじられるくらいに読みました。
それが「宿命の出逢い」とは違う、というのは、それこそ違うと思う。
内田先生は「友達に熱心に勧められたりした本との出逢いを宿命の出逢いと言い募ることはできない」と言ってますが、次兄は熱心に勧めたのではなかった。「面白いらしいよ」とつぶやくように言っただけです。そこにたまたま乗るだけの気まぐれや財貨があった。その偶有性は認めてほしい。
この本のほとんどの項目に私は同意署名しますが、以上の箇所については珍しく反旗を翻します。
これをもって『図書館には人がいないほうがいい』の感想を終わります。
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