約10年前にももいろクローバーZの5人が主演した『幕が上がる』を見たんですが、これがもうとっても素晴らしかった!(以下ネタバレあり)


『幕が上がる』(2015、日本)
750x422

原作:平田オリザ
脚本:喜安浩平
監督:本広克行
出演:百田夏菜子、玉井詩織、高城れに、有安杏里、佐々木彩夏、黒木華、ムロツヨシ、志賀廣太郎、清水ミチコ、伊藤沙莉、芳根京子、吉岡里帆


みんなと同じ感想
img_ogp (1)
この映画を見て、まさかくさす人はいますまい。それほどまでに万人向けに仕上がっており、青春っていいなぁと思うし、黒木華が他の映画とは見違えるほど生き生きしていて初めていい女優だと思ったり、映画そのものの感想は他の人と特に変わりありません。

では何を言いたくて筆を執ったのか。

この映画を特別なものにしているのは、間違いなく「受験」ですよね。

全国大会を狙うとすると、1月までは少なくとも拘束される。それまで受験勉強はできない。学歴社会でそれは「社会的な死」を意味するかもしれない。黒木華先生も「さすがにそこまでは責任取れない」と言って、どうするかを主人公に問いかけます。

主人公は、「責任なんか取ってくれなくていいです。私たちが自分で取ります。だって私たちの人生ですから」と思い切ったことを言います。

受験を突破する可能性を低くしてでも、それでも私たちはこの芝居に賭けるのだ! という意気込みに感動するのですが(ちなみに、この映画ではいちいち「演劇」と言ってましたが、普通「芝居」とか「お芝居」と言ったりするんじゃないかしら)私はここに難しい問題を嗅ぎ取りました。


西部邁の差別論
ずっと以前、差別をテーマにした「朝まで生テレビ」を見ていたら、評論家の西部邁がこんなことを言って大顰蹙を買っていました。

「差別をなくしてしまったら、差別をなくそうという社会の潤いがなくなってしまいますよ」

これには、「差別をなくそうという意識を残すために差別をそのままにすべきだなんて暴論です!」と大反論が渦を巻いていましたが、そりゃそうでしょうね。


9c4efe0a15eb6ab405e631ccabf69aa0

でも、『幕が上がる』では西部邁の主張と同じことが起こっています。

一発試験の受験戦争で人生が決まるなんて馬鹿げたことです。でもそれを何十年もずっとやっている。そして、その受験という壁が『幕が上がる』をよりドラマチックにしている。受験戦争という馬鹿げたことが映画のスパイスになってしまっています。

差別はあってはならない。差別をなくそうと考える人、実際に動いている人はたくさんいます。でも、そういう「社会の潤い」が映画やテレビドラマ、小説などの物語を盛り上げるためのスパイスになってはいないか。

ツイッターやインスタなどのSNSで、政治的に正しいことをつぶやけば、いいねがたくさんもらえる。それと同じことだと思うのです。ただつぶやいているだけ。それじゃあ何も変わらない。


image02

高校時代、こんなことを言う先生がいました。

「将来、いまここにいる君たちの中から、この国を動かす力をもつ者が出たら、そのときは、ぜひ、大学の入学時期を9月にしてほしい。そうすれば高校生活をもう少しエンジョイできるものになるのではないかと思う」

新米教師の黒木華には、もとより生徒になめられてばかりのムロツヨシ先生にはそんな力はないにしても、少しはそういうことを言うセリフがあってもいいんじゃないかと思いました。

だって、実際の映画では、本当に受験戦争が映画のスパイスにしかなっていない。なぜ彼女たちは自分の人生を犠牲にしてまで部活に打ち込まないといけないのか。そんな学校制度は間違っているという視点がほしい。

私の言いたいことはそれだけです。








このエントリーをはてなブックマークに追加