『ドライブ・マイ・カー』の三浦透子が2年前に主演した『そばかす』をU-NEXTにて鑑賞し、ちょいとげんなりしてしまいました。(以下ネタバレあり)
『そばかす』(2022、日本)
原作・脚本:アサダアツシ
監督:玉田真也
出演:三浦透子、前田敦子、伊藤万理華、伊島空、前原滉、北村匠海、坂井真紀、三宅弘城
シン・シンデレラ
音大まで行ってチェリストを目指していたのにあきらめて実家へ戻り、コールセンターで働いていた主人公が、何か(何だったんだろう?)をきっかけに保育園で働くことになる。
いまどきの子どもは動画ばかり見ていて紙芝居なんか見ない、という先輩の助言を受けて、デジタル紙芝居を作ることになる。
そこで、『シンデレラ』の従来版、「みんなにいじめられていたシンデレラが、王子様に見初められて幸せになりました。めでたしめでたし!」という物語を書いたところ、三浦透子の同窓生で元AV女優の前田敦子が猛反対。こんなの昔の女の幸せじゃん、それもルッキズムじゃんみたいなことを言い出し、そのときはじめて三浦透子は自身がアロマンティック・アセクシャルであることを告白する。
それなら自分自身のシンデレラをやろうよ、となり、誰も愛することができないシンデレラ、恋愛とか結婚とかしなきゃいけないんですか? と疑問を投げかける、いわば「シン・シンデレラ」を描くのだけど、子どもも大人も困惑気な顔をするので、三浦透子はノートパソコンを閉めて自ら物語の進行をやめてしまう。
保育園には政治家の子どもがいて、「多様性もいいですけど、もっとちゃんとした価値観を学ばせてから特殊なことを教えるべきじゃないですか」とわかったふうな口をきいていたけど、アセクシャルというのは肉体に関することなので「価値観」じゃないですよね。よく知らないけど。
少なくとも、私の躁うつ病という病気を「価値観」などと評されたら怒り心頭。あのシーンの三浦透子もそういう気持ちだったんじゃないかな。
それより、ノートパソコンを閉めたことについて「なぜだ」と疑問を呈する向きが多いらしいですが、あれは「ストリップ」ですもんね。
上述の通り、アセクシャルは「肉体」に関することで、それを赤裸々につづった物語だから、あのシン・シンデレラは「ストリップ」なんですよね。自分の裸をじっと見つめられたら恥ずかしくていたたまれなくなるのも必定だと思います。(ただ、あのシン・シンデレラの結末をどこかできちんと明示してほしかった。三浦透子が自分の人生をどう見つめているのか、その片鱗が見えると思ったので、最後まで何もなかったのはとても残念)
ただ、問題は北村匠海ですよね。ラストに至って新しく入ってくる新人保育士。
彼もまたアセクシャルで、先輩からシン・シンデレラのことを聞いて三浦透子は同類なのだと映画などに一緒に行く。で、「僕も同じなんですよ」。
三浦透子は同類がすぐ近くにいると知って笑顔で走り出すハッピーエンド。
よかったよかったと拍手したいところだけど、違和感ありありでしたね。北村匠海が女だったら特に何も思わなかったでしょうけど、男でしょ。シンデレラの王子と被るじゃないですか。どうしたって、王子様と出会ってなんぼの女という生き物、という昭和的思考から自由になれてないように見えるじゃないですか。
いや、この映画の作者たちはできるだけ自由になって遠くへ飛ぼうとしているのはよくわかります。だからこそ、北村匠海の役を女にしてほしかった。それなら「よかったよかった」と拍手していたと思います。
カメラワーク
この映画は基本的に手持ちを封じ、フィックスで撮られているので好感がもてます。
画像のシーンみたいに望遠で撮ったシーンが散見されましたが、これがまたいいんですよね。望遠で狙いながら、微妙に移動で寄っていくんですが、この寄り方が実にいい。いつの間にか寄っていたという感じ。
三浦透子はどうも好きになれません。三宅弘城、前原滉、伊藤万理華あたりに注目して見ていました。坂井真紀はもちろんのこと、といいたいところですが、彼女は最近、演じる役が似たようなものばかりでちょいと食傷気味ですかね。
『そばかす』(2022、日本)
原作・脚本:アサダアツシ
監督:玉田真也
出演:三浦透子、前田敦子、伊藤万理華、伊島空、前原滉、北村匠海、坂井真紀、三宅弘城
シン・シンデレラ
音大まで行ってチェリストを目指していたのにあきらめて実家へ戻り、コールセンターで働いていた主人公が、何か(何だったんだろう?)をきっかけに保育園で働くことになる。
いまどきの子どもは動画ばかり見ていて紙芝居なんか見ない、という先輩の助言を受けて、デジタル紙芝居を作ることになる。
そこで、『シンデレラ』の従来版、「みんなにいじめられていたシンデレラが、王子様に見初められて幸せになりました。めでたしめでたし!」という物語を書いたところ、三浦透子の同窓生で元AV女優の前田敦子が猛反対。こんなの昔の女の幸せじゃん、それもルッキズムじゃんみたいなことを言い出し、そのときはじめて三浦透子は自身がアロマンティック・アセクシャルであることを告白する。
それなら自分自身のシンデレラをやろうよ、となり、誰も愛することができないシンデレラ、恋愛とか結婚とかしなきゃいけないんですか? と疑問を投げかける、いわば「シン・シンデレラ」を描くのだけど、子どもも大人も困惑気な顔をするので、三浦透子はノートパソコンを閉めて自ら物語の進行をやめてしまう。
保育園には政治家の子どもがいて、「多様性もいいですけど、もっとちゃんとした価値観を学ばせてから特殊なことを教えるべきじゃないですか」とわかったふうな口をきいていたけど、アセクシャルというのは肉体に関することなので「価値観」じゃないですよね。よく知らないけど。
少なくとも、私の躁うつ病という病気を「価値観」などと評されたら怒り心頭。あのシーンの三浦透子もそういう気持ちだったんじゃないかな。
それより、ノートパソコンを閉めたことについて「なぜだ」と疑問を呈する向きが多いらしいですが、あれは「ストリップ」ですもんね。
上述の通り、アセクシャルは「肉体」に関することで、それを赤裸々につづった物語だから、あのシン・シンデレラは「ストリップ」なんですよね。自分の裸をじっと見つめられたら恥ずかしくていたたまれなくなるのも必定だと思います。(ただ、あのシン・シンデレラの結末をどこかできちんと明示してほしかった。三浦透子が自分の人生をどう見つめているのか、その片鱗が見えると思ったので、最後まで何もなかったのはとても残念)
ただ、問題は北村匠海ですよね。ラストに至って新しく入ってくる新人保育士。
彼もまたアセクシャルで、先輩からシン・シンデレラのことを聞いて三浦透子は同類なのだと映画などに一緒に行く。で、「僕も同じなんですよ」。
三浦透子は同類がすぐ近くにいると知って笑顔で走り出すハッピーエンド。
よかったよかったと拍手したいところだけど、違和感ありありでしたね。北村匠海が女だったら特に何も思わなかったでしょうけど、男でしょ。シンデレラの王子と被るじゃないですか。どうしたって、王子様と出会ってなんぼの女という生き物、という昭和的思考から自由になれてないように見えるじゃないですか。
いや、この映画の作者たちはできるだけ自由になって遠くへ飛ぼうとしているのはよくわかります。だからこそ、北村匠海の役を女にしてほしかった。それなら「よかったよかった」と拍手していたと思います。
カメラワーク
この映画は基本的に手持ちを封じ、フィックスで撮られているので好感がもてます。
画像のシーンみたいに望遠で撮ったシーンが散見されましたが、これがまたいいんですよね。望遠で狙いながら、微妙に移動で寄っていくんですが、この寄り方が実にいい。いつの間にか寄っていたという感じ。
三浦透子はどうも好きになれません。三宅弘城、前原滉、伊藤万理華あたりに注目して見ていました。坂井真紀はもちろんのこと、といいたいところですが、彼女は最近、演じる役が似たようなものばかりでちょいと食傷気味ですかね。
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