精神科医・春日武彦の『無意味なものと不気味なもの』を読んだら、庄野潤三の短編小説が俎上に載せられていて興味をもった。残念ながらその短編小説は入手が困難らしく(図書館で全集でも読めばいいのかもしれないが、たぶんページが日焼けしたりして読みにくいんじゃないかと。そもそも神戸の図書館にあるのかどうかも不明)別のエッセイ集『庭の山の木』を読んだ。するとこれがものすごく面白かった。


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恥ずかしながら告白すると、私は庄野潤三の文章をまったく読んだことがなかった。エッセイも小説も、である。読んだことがないのに名前は知っているのだから相当な「文豪」なのだろうと思っていた。「読んだことがないのに名前はよく知っている」のを「文豪」の定義にしていいときもあろう。ここには私が書けない文章がつまっている。

例えば、著者がいろんな「プロ」の現場を訪れる文章がある。TVディレクターの仕事の現場とか、「小京都」と呼ばれる郡上八幡(「ぐじょうはちまん」と読みます)とか、年末の授産場などである。

そこで庄野潤三は徹底して「観察者」に徹している。そこがすごい。私なんかすぐにいいの悪いのと言って批評してしまうが、庄野潤三にはそのような悪癖がない。

次のような具合である。

「八幡の町を歩いてみてすぐに気がつくことは、商店の数が非常に多いことだ。大げさないい方をすれば、全町が商店街のように見える。私たちは昼間、町を歩きながら、何の店がいちばん多いだろうと話合った。
「薬局が多い」と一人がいう。すると、ほかの者は「本当に薬局は多いなあ」という。今度はもう一人が「洋品店が多い」というと、みな、「多い、多い」という。次に一人が「電気屋が多いな」というと、みな「そうだ、電気屋も多い」という」


ただ郡上八幡の町を子どもたちと歩いて、彼らの言葉をドキュメントしているだけである。

しかし味がある。「写実」という言葉があるけれど、少なくとも庄野潤三に関してこの『庭の山の木』(の最初の一章)は「写実文学」なのだろうと思った。

すぐいいの悪いのという奴は、己の頭の悪さを露呈しているだけだろう。本当に頭のいい人は、見たまま、聞いたままをスケッチできる。そのうえ、ありのままを書いているだけのように見えて、現場での著者の「驚き」や「笑い」までもが透けて見えてくるところが、味があるという所以だと感じられる。

「笑い」といえば、こんな章もあった。「睫毛」と題されたそれは、

「目の中にほこりの入りやすい人と、そうでない人がいるのではないか」

との一文で始まる。

著者は、睫毛が短いらしくて、それでいまさら親を恨んでみたりするのもナンだと言ったり、砂ぼこりのひどい日はサングラスをかけて外出するといいながら、サングラスは風景が変わってしまうから嫌いだと言ったり、あまりほこりを気にしていると不審者と間違われるかしらんみたいなことを言ってみたりするのだが、何と最後はこんな一文で幕を閉じるのである。

「しかし、私はいくらか大げさに考えすぎているような気もする。睫毛のことは忘れよう」

笑った。げらげらと。これはもう完全に、締め切りが来たけど書くことがないので苦肉の策で身辺雑記を書いてみたというお手本のような一編である。売文家はたとえ笑われても原稿料をもらうために自分の生活を切り売りするものなのだろうか。

「ゆとりときびしさ」という章では、こんなことが語られる。

「大人とはどういうことを指すのか。
それについて何かひとことでもいおうとすれば、先ず自分のことを棚に上げないと、何もいえなくなる」


この文章の「大人」に「面白い映画」を代入すれば、私がこのブログでやっていることになる。自分のことを棚上げしないと批評はできない。それはそうだが、それを生業みたいにしてしまうのはどうなんだろう? ちなみに、著者の考える「大人」とはタイトル通り「ゆとり」「と「きびしさ」をもった人だそうです。

著者の中学時分の国語の先生だったという詩人の伊東静雄の言葉を引いて、

「もし自分が小説を書くとしたら、ロマンティックなものでなくて、それでは義理が済むまいが、というような小説を書きたい」

うーん、わからぬようでわかる気がする。「それでは義理が済むまいが」の真意がわからぬから何とも言えぬが、おそらくは「誰でも楽しめる軽いエンターテインメント小説」ではないのだろうな。私も脚本家志望の時分に、「見る人を選ぶようなシナリオを書きたい」なんて高慢なことを考えていた。(別に伊東静雄が私と同じだという意味ではない)

どうも私には「上から目線」なところがあって、コメディを書くにはそれでよかったのかもしれないが、普通のドラマとか、こういう雑文を書くと本性が出てしまう。

それに比べて庄野潤三の文章の何とも素直なことよ。私はこういう素直さがないから脚本家としてだめだったんだろうとつくづく思わされる。

庄野潤三はこう書く。

「もともと文学というのは、こんな、心細い、たよりない心持でいるのが普通なのだろう。そのほうがいいような気がする」

あとがきを読んで、『こちらあみ子』の今村夏子が庄野潤三の娘だと初めて知った。

 
庭の山の木 (講談社文芸文庫)
庄野潤三
講談社
2020-02-10



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