チャーリー・シーンがブレイクする直前に撮られた『ブロークン・ジェネレーション』を見ました。(以下ネタバレあり)
『ブロークン・ジェネレーション』(1985、アメリカ)
脚本:グレン・モーガン&ジェームズ・ウォン
監督:ペネロープ・スフィーリス
出演:チャーリー・シーン、マックスウェル・コールフィールド、クリストファー・マクドナルド
2002年まで日本での公開がなかった本作、「ホラー映画より恐ろしい青春映画」という触れ込みはウソじゃなかったですね。
物語は、成績がまったくよくなく、将来の夢もなく、高校の卒業式の翌日から近所の工場勤めを死ぬまでしなければならない無教養な高校生二人の一晩の凶行を描きます。
この映画の主役二人は、ただムカついたとかそれだけの理由で人を殺したりします。そこにはまったく共感できないのですが、「共感できないキャラクター」といえば思い出すことがあります。
かつて、「まったく共感できない主人公だけど、クライマックスですべてを清算して共感に足る人物に変化する、一発大逆転のキャラクター」をシナリオで表現してみたんですが、プロの脚本家からこう言われました。
「プロットを読ませてもらったときは傑作になるんじゃないかと思ったけど、違ったね。君は一発大逆転の主人公を描いていい気になってるようだが、それじゃダメなんだ。共感できない主人公から少しずついやなところを抜いていって少しずつ共感できるようにしなきゃいけない。主人公を一発大逆転のキャラクターにしてはいけないんだ」
なるほど。確かに仰せのとおりかもしれない。ということを今日見た『ブロークン・ジェネレーション』で初めて完全に理解できました。あれから20年たってからわかるとは遅すぎ。
共感できない主人公たち
あまりに後先のことを考えず、ただそのときの気分で暴行や殺人を働いているように見える彼らにも、同情すべき境遇があります。
それはやはり「学歴」や「教養」がなければどこにも這い上がれない格差社会でしょう。当時はレーガン政権でアメリカはすでに超格差社会だったはず。夢も希望もない、気づいたら工場で30年働いていたと気づく、そんな人生しか待っていない。だから犯罪を働いていいわけじゃないけど、彼らが夢も希望もないとつぶやくとき、「彼らなりにつらかったんだな」と思わないわけにはいかない。
そういうふうに、明日から工場勤めしかない人生を憂うセリフが、彼らの無軌道すぎる青春から「いやなところ」を少しずつ抜いていってくれます。どんどん二人は軌道から外れていくのに、見ているこちらは共感はしないけど、同情はしてしまう。一歩間違えれば彼らと同じことをしていたかもしれないと思わせるものがある。
そこには、二人を追う刑事のキャラクターに負うところも大ではなかったでしょうか。
二人がゲイ・バーで知り合った男を殺し、近隣の刑事があまりにゲイへの差別が激しく、殺されたゲイを口汚く罵るとき、もともと二人を追っている刑事が「便所みたいに汚い口だな!」と締め上げる。
罪を憎んで人を憎まずを地で行く刑事さんが追う二人だからこそ、こちらも、罪を憎むだけで二人を憎むことはできなくなります。
最後は、チャーリー・シーンがもう一人の親友を殺します。警官隊に負われ、もう終わりは目に見えているのに、それでもまだやってやると息巻く親友をチャーリー・シーンは殺してやる。「たった2秒の苦しみだ」と。逮捕、収監、裁判、刑務所と無間地獄が続くチャーリー・シーンより親友のほうが幸せのようです。『インファナル・アフェア』のラストを思い出しましたね。
親友だからこそ撃ち殺した。これ以上の苦しみは自分だけで充分だと。ここで主人公のキャラクターは完全に共感できるものとなりました。一発大逆転ではなく、少しずつ毒を抜いていって、そこまでもっていった。素晴らしい作劇です。
家庭環境
映画の冒頭には、名うての連続殺人鬼の紹介があって、ほとんどの人が家庭で幼少期に虐待を受けていたり、充分な愛情を得て育てられていなかったことが示されていました。
本作のチャーリー・シーンとその親友は家庭の場面がまったくないのですが、彼らもまた親から虐待を受けていたという示唆なんでしょうか。
別に親からの虐待とかなくてもいいですが、愛情のない家庭で育ったという背景はきちんとオンで描いたほうがよかったんじゃないでしょうか。
卒業式の夜に、家にひっそりと「卒業おめでとう」とカードだけが置いてあるのが「愛情不足」の表現なんでしょうか。私はごく普通の家庭に見えたけど……?
蛇足
前半は、主役二人が恋しているボニーという同級生の女の名前が何度も出てくるので、ボニー&クライドよろしく彼らも最後はハチの巣にされるのだろうかと、期待(?)してしまいましたが、それはなかった。うまいミスリードでしたな。
『ブロークン・ジェネレーション』(1985、アメリカ)
脚本:グレン・モーガン&ジェームズ・ウォン
監督:ペネロープ・スフィーリス
出演:チャーリー・シーン、マックスウェル・コールフィールド、クリストファー・マクドナルド
2002年まで日本での公開がなかった本作、「ホラー映画より恐ろしい青春映画」という触れ込みはウソじゃなかったですね。
物語は、成績がまったくよくなく、将来の夢もなく、高校の卒業式の翌日から近所の工場勤めを死ぬまでしなければならない無教養な高校生二人の一晩の凶行を描きます。
この映画の主役二人は、ただムカついたとかそれだけの理由で人を殺したりします。そこにはまったく共感できないのですが、「共感できないキャラクター」といえば思い出すことがあります。
かつて、「まったく共感できない主人公だけど、クライマックスですべてを清算して共感に足る人物に変化する、一発大逆転のキャラクター」をシナリオで表現してみたんですが、プロの脚本家からこう言われました。
「プロットを読ませてもらったときは傑作になるんじゃないかと思ったけど、違ったね。君は一発大逆転の主人公を描いていい気になってるようだが、それじゃダメなんだ。共感できない主人公から少しずついやなところを抜いていって少しずつ共感できるようにしなきゃいけない。主人公を一発大逆転のキャラクターにしてはいけないんだ」
なるほど。確かに仰せのとおりかもしれない。ということを今日見た『ブロークン・ジェネレーション』で初めて完全に理解できました。あれから20年たってからわかるとは遅すぎ。
共感できない主人公たち
あまりに後先のことを考えず、ただそのときの気分で暴行や殺人を働いているように見える彼らにも、同情すべき境遇があります。
それはやはり「学歴」や「教養」がなければどこにも這い上がれない格差社会でしょう。当時はレーガン政権でアメリカはすでに超格差社会だったはず。夢も希望もない、気づいたら工場で30年働いていたと気づく、そんな人生しか待っていない。だから犯罪を働いていいわけじゃないけど、彼らが夢も希望もないとつぶやくとき、「彼らなりにつらかったんだな」と思わないわけにはいかない。
そういうふうに、明日から工場勤めしかない人生を憂うセリフが、彼らの無軌道すぎる青春から「いやなところ」を少しずつ抜いていってくれます。どんどん二人は軌道から外れていくのに、見ているこちらは共感はしないけど、同情はしてしまう。一歩間違えれば彼らと同じことをしていたかもしれないと思わせるものがある。
そこには、二人を追う刑事のキャラクターに負うところも大ではなかったでしょうか。
二人がゲイ・バーで知り合った男を殺し、近隣の刑事があまりにゲイへの差別が激しく、殺されたゲイを口汚く罵るとき、もともと二人を追っている刑事が「便所みたいに汚い口だな!」と締め上げる。
罪を憎んで人を憎まずを地で行く刑事さんが追う二人だからこそ、こちらも、罪を憎むだけで二人を憎むことはできなくなります。
最後は、チャーリー・シーンがもう一人の親友を殺します。警官隊に負われ、もう終わりは目に見えているのに、それでもまだやってやると息巻く親友をチャーリー・シーンは殺してやる。「たった2秒の苦しみだ」と。逮捕、収監、裁判、刑務所と無間地獄が続くチャーリー・シーンより親友のほうが幸せのようです。『インファナル・アフェア』のラストを思い出しましたね。
親友だからこそ撃ち殺した。これ以上の苦しみは自分だけで充分だと。ここで主人公のキャラクターは完全に共感できるものとなりました。一発大逆転ではなく、少しずつ毒を抜いていって、そこまでもっていった。素晴らしい作劇です。
家庭環境
映画の冒頭には、名うての連続殺人鬼の紹介があって、ほとんどの人が家庭で幼少期に虐待を受けていたり、充分な愛情を得て育てられていなかったことが示されていました。
本作のチャーリー・シーンとその親友は家庭の場面がまったくないのですが、彼らもまた親から虐待を受けていたという示唆なんでしょうか。
別に親からの虐待とかなくてもいいですが、愛情のない家庭で育ったという背景はきちんとオンで描いたほうがよかったんじゃないでしょうか。
卒業式の夜に、家にひっそりと「卒業おめでとう」とカードだけが置いてあるのが「愛情不足」の表現なんでしょうか。私はごく普通の家庭に見えたけど……?
蛇足
前半は、主役二人が恋しているボニーという同級生の女の名前が何度も出てくるので、ボニー&クライドよろしく彼らも最後はハチの巣にされるのだろうかと、期待(?)してしまいましたが、それはなかった。うまいミスリードでしたな。
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