文芸評論家・三宅香帆氏による話題の書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を一気読みしました。うん、これは面白い!
「働いていると本が読めなくなる」と聞いてすぐ浮かんだのは、映画『花束みたいな恋をした』で菅田将暉が演じた人物が自己啓発本ばかり読んで、あとはゲームばかりという生活になってしまい、恋人役の有村架純が「前はそんなじゃなかったよね」みたいなことをいう場面であった。
この『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はまさにその『花束みたいな恋をした』のセリフの引用から始まったので、我が意を得たり! と膝を打った。しかし、そのあとはかなり意外な内容であった。
何と、著者は「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」その奥の奥にある原因と対策を求めて、明治時代までさかのぼるのである。浩瀚な書物を渉猟したのがすぐわかるほどいろんな文献からの引用が次々と現れる。
明治から大正、昭和までを概括できるような文章を引用すると、
「そもそも明治時代の「修養」は、青年に自己研鑽を促す思想だった。家のためではなく個人のために自己を磨くべきだとする、新しい立身出世の思想潮流だったのだ」
「しかし大正時代、自らを労働者と区別しようとする「読書階級」ことエリート新中間層が登場した。それによって「修養」=労働者としての自己研鑽と、「教養」=エリートとしてのアイディンティティを保つための自己研鑽、その二つの思想に分離した」
「だとすれば、労働者階級と新中間層階級の格差があってはじめて「教養」は「労働」と距離をとることができる」
「雑にまとめてしまえば、高度経済成長期の長時間労働は、日本の読書文化を、結果的に大衆に開放したのである。サラリーマンが増えた時代、みんな働いているのだから、働いている人向けの本を出すのが、一番売れるはずだ。出版社はそのように考え、サラリーマンに特化した本、ハウツー本やサラリーマン小説を誕生させたのだ。そしてそれは結果的に、労働者階級に読書を開放することになった」
さて、このような「過去」や「歴史」はとても重要な概念らしい。結論近くになると、著者はこう言うのだ。
「過去や歴史とはノイズである」
そして、『花束みたいな恋をした』の菅田将暉が読んでいた自己啓発本についてはこう言う。
「自己啓発書は「ノイズを除去する」姿勢を重視していた」
さらにこう続ける。
「情報とは、ノイズの除去された知識のことを指す」(←自己啓発本の類は、知識ではなく「情報」であふれているという)
「問題は、読書という偶然性にあふれたノイズありきの趣味を、私たちはどうやって楽しむことができるのか、というところにある」
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』というタイトルの本を読んで、即効性を求めた人にとって、明治から昭和までの「歴史」はノイズでしかなかったに違いない。でも、読書とはそうやって「まわりくどいノイズ」をあえて提供してもらえる営みなのだ。
「大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。仕事のノイズになるような知識をあえて受け入れる。仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか」
「自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである」
これが結論。(本文でも太字でした)
以下は、職探しをする現在の私がビジネスシーンで感じることです。
著者は新自由主義にまみれた現代のビジネスシーンをこう俯瞰する。
「現代社会は、働くことのできる全員に「全身」の仕事へのコミットメントを求めてくる」
これは面接を受けていてよく出会う場面なんですが、いま実家暮らしなので、「お住まいはご実家ですか?」と聞かれることが多いんですね。住所に建物名がないから。「そうです」と答えると、「同居されてる方は」「母一人です」「お母様の介護など必要な状況ですか」「いいえ。まったく元気です」
介護が少しでも必要なら、それだけで不採用なんでしょうね。というか、年老いた親と二人だけで暮らしているだけでかなりマイナスポイントなのかもしれない。何かあったらすぐ帰らないといけないし。
だから、現在の企業はほとんどが「全身」での仕事へのコミットメントを求めてくるわけです。
あとは、「ノイズ」の問題。著者の論では、他者のノイズを受け入れるのが「本を読む」営為だということだった。いまはノイズを除去する自己啓発本ばかり読む菅田将暉のような人が増えている、と。
まさにビジネスシーンではそうなんですよね。
ちょっと前なら面接で「趣味は何ですか?」ってよく聞かれてたんですよ。ちょっと前のネットニュースで読みましたけど、受験者の口が軽くなる話題のほうがその人の人となりがよくわかるから必ず聞くと。
でも、そういう面接官は少数派になってしまったようで、趣味が何かなんてもうめったに聞かれません。
趣味は直接的に仕事に関係してくるわけじゃないから。仕事にとって「ノイズ」だというわけでしょう。
趣味もだけど、最近は「志望動機」すら聞かないところ、増えましたね。「そちらの会社でないとだめな理由」とかどうでもよくて、ただ「仕事」ができるかどうかだけが大事なんですかね?
エクセルは使えますか? ワードは? パワーポイントは? コントロールとC、コントロールとVのショートカットはわかりますか? そんなことばかり聞いてくる。
私たちはいまロボット扱いを受けている。働くロボット。その会社の仕事だけができればそれでいいロボット。
確かにロボットにノイズはない。ノイズがあればすぐ修理が必要になりますからね。最近は契約期間が3か月とか短いところが多いので、実際、私がノイズをもってしまえばすぐに契約終了ということになるのでしょう。
その前に、私はおそらく労働市場においてはノイズだらけの人間だと思うので、採用されるまでが一苦労。書類審査で落とされてばかりで、今回の失業はもうひと月半になるのに、書類審査を通過して面接に至ったのがまだ3回のみ。
映画が好きです、シナリオで賞をもらいました、ムードメイカーと呼ばれてました、そういうのはすべて「ノイズ」なんでしょうね。ムードメイカーなんて大事なことだと思うんだけど。
すべては、タイピング速度が1分間に何文字、使えるソフトは何と何、そんなことばかり重視されてる。俺はロボットじゃない。数字ばかり重視するところじゃ働きたくねーよ。
さて、こんな叫びを上げる私のような人間のために、著者は次のような提言をしてくれる。これをもって本稿の終わりとしたい。
「(全身ではなく)半身のコミットメントこそが、新しい日本社会つまり「働きながら本を読める社会」をつくる」
「「半身」とはさまざまな文脈に身をゆだねることである。読書が他者の文脈を受け入れることだとすれば、「半身」は読書を続けるコツそのものである」
「働いていると本が読めなくなる」と聞いてすぐ浮かんだのは、映画『花束みたいな恋をした』で菅田将暉が演じた人物が自己啓発本ばかり読んで、あとはゲームばかりという生活になってしまい、恋人役の有村架純が「前はそんなじゃなかったよね」みたいなことをいう場面であった。
この『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はまさにその『花束みたいな恋をした』のセリフの引用から始まったので、我が意を得たり! と膝を打った。しかし、そのあとはかなり意外な内容であった。
何と、著者は「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」その奥の奥にある原因と対策を求めて、明治時代までさかのぼるのである。浩瀚な書物を渉猟したのがすぐわかるほどいろんな文献からの引用が次々と現れる。
明治から大正、昭和までを概括できるような文章を引用すると、
「そもそも明治時代の「修養」は、青年に自己研鑽を促す思想だった。家のためではなく個人のために自己を磨くべきだとする、新しい立身出世の思想潮流だったのだ」
「しかし大正時代、自らを労働者と区別しようとする「読書階級」ことエリート新中間層が登場した。それによって「修養」=労働者としての自己研鑽と、「教養」=エリートとしてのアイディンティティを保つための自己研鑽、その二つの思想に分離した」
「だとすれば、労働者階級と新中間層階級の格差があってはじめて「教養」は「労働」と距離をとることができる」
「雑にまとめてしまえば、高度経済成長期の長時間労働は、日本の読書文化を、結果的に大衆に開放したのである。サラリーマンが増えた時代、みんな働いているのだから、働いている人向けの本を出すのが、一番売れるはずだ。出版社はそのように考え、サラリーマンに特化した本、ハウツー本やサラリーマン小説を誕生させたのだ。そしてそれは結果的に、労働者階級に読書を開放することになった」
さて、このような「過去」や「歴史」はとても重要な概念らしい。結論近くになると、著者はこう言うのだ。
「過去や歴史とはノイズである」
そして、『花束みたいな恋をした』の菅田将暉が読んでいた自己啓発本についてはこう言う。
「自己啓発書は「ノイズを除去する」姿勢を重視していた」
さらにこう続ける。
「情報とは、ノイズの除去された知識のことを指す」(←自己啓発本の類は、知識ではなく「情報」であふれているという)
「問題は、読書という偶然性にあふれたノイズありきの趣味を、私たちはどうやって楽しむことができるのか、というところにある」
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』というタイトルの本を読んで、即効性を求めた人にとって、明治から昭和までの「歴史」はノイズでしかなかったに違いない。でも、読書とはそうやって「まわりくどいノイズ」をあえて提供してもらえる営みなのだ。
「大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。仕事のノイズになるような知識をあえて受け入れる。仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか」
「自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである」
これが結論。(本文でも太字でした)
以下は、職探しをする現在の私がビジネスシーンで感じることです。
著者は新自由主義にまみれた現代のビジネスシーンをこう俯瞰する。
「現代社会は、働くことのできる全員に「全身」の仕事へのコミットメントを求めてくる」
これは面接を受けていてよく出会う場面なんですが、いま実家暮らしなので、「お住まいはご実家ですか?」と聞かれることが多いんですね。住所に建物名がないから。「そうです」と答えると、「同居されてる方は」「母一人です」「お母様の介護など必要な状況ですか」「いいえ。まったく元気です」
介護が少しでも必要なら、それだけで不採用なんでしょうね。というか、年老いた親と二人だけで暮らしているだけでかなりマイナスポイントなのかもしれない。何かあったらすぐ帰らないといけないし。
だから、現在の企業はほとんどが「全身」での仕事へのコミットメントを求めてくるわけです。
あとは、「ノイズ」の問題。著者の論では、他者のノイズを受け入れるのが「本を読む」営為だということだった。いまはノイズを除去する自己啓発本ばかり読む菅田将暉のような人が増えている、と。
まさにビジネスシーンではそうなんですよね。
ちょっと前なら面接で「趣味は何ですか?」ってよく聞かれてたんですよ。ちょっと前のネットニュースで読みましたけど、受験者の口が軽くなる話題のほうがその人の人となりがよくわかるから必ず聞くと。
でも、そういう面接官は少数派になってしまったようで、趣味が何かなんてもうめったに聞かれません。
趣味は直接的に仕事に関係してくるわけじゃないから。仕事にとって「ノイズ」だというわけでしょう。
趣味もだけど、最近は「志望動機」すら聞かないところ、増えましたね。「そちらの会社でないとだめな理由」とかどうでもよくて、ただ「仕事」ができるかどうかだけが大事なんですかね?
エクセルは使えますか? ワードは? パワーポイントは? コントロールとC、コントロールとVのショートカットはわかりますか? そんなことばかり聞いてくる。
私たちはいまロボット扱いを受けている。働くロボット。その会社の仕事だけができればそれでいいロボット。
確かにロボットにノイズはない。ノイズがあればすぐ修理が必要になりますからね。最近は契約期間が3か月とか短いところが多いので、実際、私がノイズをもってしまえばすぐに契約終了ということになるのでしょう。
その前に、私はおそらく労働市場においてはノイズだらけの人間だと思うので、採用されるまでが一苦労。書類審査で落とされてばかりで、今回の失業はもうひと月半になるのに、書類審査を通過して面接に至ったのがまだ3回のみ。
映画が好きです、シナリオで賞をもらいました、ムードメイカーと呼ばれてました、そういうのはすべて「ノイズ」なんでしょうね。ムードメイカーなんて大事なことだと思うんだけど。
すべては、タイピング速度が1分間に何文字、使えるソフトは何と何、そんなことばかり重視されてる。俺はロボットじゃない。数字ばかり重視するところじゃ働きたくねーよ。
さて、こんな叫びを上げる私のような人間のために、著者は次のような提言をしてくれる。これをもって本稿の終わりとしたい。
「(全身ではなく)半身のコミットメントこそが、新しい日本社会つまり「働きながら本を読める社会」をつくる」
「「半身」とはさまざまな文脈に身をゆだねることである。読書が他者の文脈を受け入れることだとすれば、「半身」は読書を続けるコツそのものである」
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