ピーター・ハイアムズ監督のファンを公言しておきながら、恥ずかしいことにこれまで未見だった『シカゴ・コネクション/夢みて走れ』を初めて見ました。(以下ネタバレあり)


『シカゴ・コネクション/夢みて走れ』(1986、アメリカ)

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原案:ゲイリー・ディボア
脚本:ゲイリー・ディボア&ジミー・ヒューストン
監督・撮影・製作総指揮:ピーター・ハイアムズ
出演:ビリー・クリスタル、グレゴリー・ハインズ、ダラン・フリューゲル、ジミー・スミッツ、ダン・ヘダヤ


ふざけた感じが80年代風?
ビリー・クリスタルとグレゴリー・ハインズの刑事コンビは、銃撃戦でも積極果敢に悪漢のアジトに自ら侵入していくほどの度胸の持ち主ながら、署長から休暇を言い渡されたら、フロリダへ行ってバーを一軒買う。そして辞めると言い出す。

このへん、個人的にはあまり好きになれませんでした。やはり、ビリー・クリスタルとグレゴリー・ハインズの二人が「趣味」で刑事をやってるような感じがね。銃撃戦での度胸は買うものの、フロリダでバーをやるから辞めるとか、何のつもりかと。

この映画が参照しているのは明らかに『ダーティハリー』と『フレンチ・コネクション』ですよね?

高架下ならぬ高架上、つまり線路上でのカーチェイスは『フレンチ・コネクション』へのオマージュだろうし、敵のアジトに乗り込むときに「クリント・イーストウッドか?」「ダーティ・トニーだ」というセリフもあります。

この『シカゴ・コネクション』だけでなく、多くの現代映画まで、刑事映画というジャンルはあの二本の傑作にいまだに呪縛されている。それほど『ダーティハリー』と『フレンチ・コネクション』は群を抜いた傑作なのです。


『ダーティハリー』と『フレンチ・コネクション』
あの日本の刑事映画の独創は何だったかといえば、やはり主人公の刑事のキャラクター設定でしょう。

ポパイは『シカゴ・コネクション』と同じく、仕事そっちのけでオンナってところもあるけど、基本的にハリー・キャラハンと同じく、「悪人は殺してもかまわない」というまっすぐすぎて歪んでしまった正義感が独特です。

とにかく、犯人が目の前にいたら、他のものが何も見えなくなってしまうのがポパイとハリー・キャラハンでした。

でも、『シカゴ・コネクション』のビリー・クリスタル(ビリー・クリスタルとグレゴリー・ハインズのどちらが主人公かという問題もありますが、おそらくビリー・クリスタルでしょう)にはそれほどの正義感がありません。だから、終盤、元妻を悪漢たちに拉致されるという展開が必要になる。そうでもしないとビリー・クリスタルは「本気」になれないからです。

ハリー・キャラハンはすでに妻と死別しており、ポパイには妻子がいなさそうです。

彼らには「守るべき存在」がいない。そういう弱点を設定していない。弱点は彼らの歪んだ正義感にあります。彼ら二人を窮地に陥らせるのは、サソリ座の男やフェルナンド・レイというよりは、彼ら自身の「心のありよう」なのです。そして、彼ら自身をそこから救い出すのもまた、彼らの「心のありよう」=「悪人は殺してもかまわない」なのです。

彼らは「本気」になるためのスイッチがありません。なぜなら、日常的にそのスイッチが入ったままだからです。ハリー・キャラハンが冒頭でホットドッグを食べているときに銀行強盗の予兆をつかみ取るのは示唆的ですね。彼らにおいては、犯罪とは日常なのです。身内を拉致されてから本気になったのでは遅いのです。

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『シカゴ・コネクション/夢みて走れ』におけるビリー・クリスタルは、やはり、あの二本の傑作に比べると、面白みに欠けます。心のありようが枷になることもない。元妻や他の人質、麻薬その他、人物や小道具といった物理的なものが彼を追いつめる。心理は決して彼に襲いかかりません。いや、逆にいえば、襲いかかるほどの心理が何も設定されていないのです。

それでいい、そういうのが面白いという人もいるでしょう。そういう人を私は否定しませんが、どうしても好きになれないのです。




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