phaというペンネームの「元日本一有名なニート」が書いた『パーティーが終わって、中年が始まる』。私もニートの期間が長いので興味深く拝読しました。(以下ネタバレあり)
まず、先日読んだ三島由紀夫によるエンタメ小説(!)『命売ります』の一節を置きます。
「人生が無意味だ、というのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーがいるものだ」
確かにそうですね。私も主人公と同じで自殺願望に取りつかれて生きてきたけど、「こんなことに何の意味があるのか」みたいなことを思いながら、それでも無意味なことをおろそかにしては生きていけないことだけはわかった50代のいま。
『パーティーが終わって、中年が始まる』の著者、phaさんも同じらしく、
「いつまでこんな感じでやっていけるのだろう、ということは、あまり真剣に考えてはいなかった。わからないけど、まあなんとかなるんじゃないか、と思っていた」
なるほど、それは私も同じです。これはニート期間の長い人間なら誰しも思っていることでしょう。ごく普通の人でも「自分だけはガンにはならないだろうし、そもそも死なないのでは?」と心のどこかで思ってるのとまったく一緒。
「すべてのものが移り変わっていってほしいと思っていた二十代や三十代のころ、怖いものは何もなかった。何も大切なものはなくて、とにかく変化だけがほしかった。この現状をぐちゃぐちゃにかき回してくれる何かをいつも求めていた。喪失感さえ娯楽のひとつとしか思っていなかった」
もう20年くらい前、人生どんづまりな自分を取り巻く環境を一変させる出来事として「希望は、戦争」と書いた人がいましたっけ。同じニートの私でもさすがにそれは……と思ったな。だって、それって「壮大な自殺」でしょ。秋葉原通り魔殺人と何が違うの? 自分で手を下すか下さないかの差じゃないですか。
しかしそのような、変化ばかりを求め、私と同じように同じことの繰り返し(いわゆるルーティーン)に飽き飽きしてすぐ仕事を辞めてしまっていたのに、phaさんは46歳のいまではこういう心境だそうです。最終章の「猫との境界線が消えていく」の最終節(つまりラストの一文)を引用します。
「続く間は最大限、いまの生活を保っていたい。朝起きて、餌をやって、トイレを掃除する。膝の上にのせて撫でる。抱き上げると嫌がる。布団に入ると寄ってくる。そんなルーティーンを。繰り返しを。明日も。明後日も」
これは一見、感動的な結末のようで、私は好きになれなかった。なぜか。
確かに、ルーティーンを嫌っていた著者(主人公)が、それを好きになる変化を描いた、これはビルドゥングス・ロマン=教養小説といえるかもしれない。
でも、私は聴いたことがないが、phaさんの大好きなマヘル・シャラル・ハシュ・バズというバンドは不安定で未完成なところが魅力らしく、「曲なんてちゃんと始まらなくていいし、ちゃんと終わらなくていい」といいんながら、なぜ(始まりはともかくとして)ちゃんとした終わりのある本を書いたのだろう? それがまず疑問。
さらに、この本は前半において「SFを超えた人生論」だったのに、後半において「ただの人生論」になってしまっていると感じたから。
前半にはこんな一節があります。
「人は誰でも歪みを抱えていて、それぞれがその歪みの形にぴったり合った箱を作り出している。この世界には無数の水槽が並んでいるだけなのかもしれない。それは結局、身体から取り出されてコンピュータにつながれて、今日はお日様が暖かいなあ、と言っている水槽の中の脳とそんなに変わらないんじゃないか。何かを見ているようでも、全部自分の中にあるものを見ているだけにすぎないのだ。自分の中から本当に出ることができたことがいままでの人生で何度あるだろうか」
ほとんど『マトリックス』ですよね。しかしながら、「水槽の中の脳」は『マトリックス』だけど、「何かを見ているようでも、全部自分の中にあるものを見ているだけにすぎないのだ」という「自分の中」というのは著者の独創でしょう。
さらに結末の一文で、「自分の中から本当に出ることができたことがいままでの人生で何度あるだろうか」と結ぶ。『マトリックス』』の世界から完全にphaという人間に引き寄せて、ものすごく小さい世界観に着地する。
これが見事だと思いましたよ。フィリップ・K・ディックをもちだすまでもなく、SFってすべてのジャンルの中で一番壮大な世界観を描けるジャンルだと思っているのだけど、そのSFから四畳半の世界へ一気に引き寄せる著者の腕力というか、これはもう才能でしょうね。
それが、この本全体としては、「変化ばかりを求めていた主人公が、ルーティーンを求めるようになる」という、ものすごくわかりやすいビルドゥングス・ロマンが描かれていて、こういうのを書けないと「売れない」のかもしれないけど、私は最終章を読んだときにとても残念な気持ちになりました。
全体の感想は以上。以下は、部分的に感じたことをつらつらと。
「「もうだめだ」が若いころからずっと口癖だったけれど、いま思うと、二十代のころに感じていた「だめ」なんてものはたいしたことがない、ファッション的な「だめ」だった。四十代からは「だめ」がだんだん洒落にならなくなってくる。これが本物の衰退と喪失なのだろう」
このphaさんは、二十代三十代と四十代以降を対立概念として捉えがちだけど、本当にそうなのかなぁ。私は16歳で自殺願望に取りつかれてからは、何歳になっても「自分はだめ」としか思ってなかった。そんな自分でも結局は「何とかなる」と思っていたのだから、究極的なところでは「だめ」とは思ってなかったのかもしれない。ま、どっちにしろ一緒のような気がするが。
「大切なのはお金を稼ぐことではなく、お金を気軽にあげたりもらったりする空気を作り出すことだ。そのサイクルの中にいれば、まあだいたいのことは何とかなるはずだ」
これはつまり、金は天下の回り物、というやつですね。
「自分が働いて、自分のお金を得て、それを自分のために使う。完全に一人で完結している」
以前の職場では3つのチームに分かれていたんですが、あるチームはデータ入力したあと、チェック班にチェックを任せず、自分たちだけでチェックもしていた。つまり、完全に自分たちだけで完結していたわけです。
こうなると閉じてしまって、職場全体でもそのチームだけが孤立というか浮いているというか、他の2チームとは関係ないみたいになってしまってよろしいことではなかった。
私はいまはニートだが、職探しをしていて、見つかれば当然働くけど、自分で働いて稼いだお金を自分のためだけに使わず、国境なき医師団に寄付している。タダでお金をあげるというのは気持ちいいですよ!
なにより、完全に一人で完結したり、閉じたりしないからね。風通しをよくすれば、金は天下の回り物となって、寄付した分くらい、また自分のところへ返ってきますって。
「僕は「いい人」なのではなく、いろんなことがどうでもいいだけなのだ」
私はかねてより、自分はサイコパスなのでないかと疑ってるのだけど……そういえば、脳科学者・中野信子先生の『サイコパス』にはサイコパスの定義ってどう書かれてたっけ? 憶えてない。中野さんの言葉を借りれば、さしずめ私は「負け組サイコパス」ですね。
サイコパスって多いらしいですよ。弁護士なんかはたいていサイコパスらしいし。あのマザー・テレサもサイコパスだった可能性が高いらしいですから。
いろんなことがどうでもよく、すべてが他人事に見えてしまう私もサイコパスなんじゃないかと思うのだけど、別の研究者の言によると、「自分はサイコパスではないか、と疑う人はサイコパスではない」というから、何もかもわからなくなってくる。診断してほしい。
「帰って、あれとあれをやらなくちゃ。洗濯と、何だっけ。何かわからないけどあれだ。買うものがいくつかあった気がする。こまごまとした、別に面白くもないもの。なんだかわからないけど、何かをいつもやっていかなくちゃいけないのだ」
「いつも追いつかれている」という章の最後に置かれた一文。
これを読んで思い出したのは、バブルのころの「ほしいものがほしいわ」というキャッチコピー。確か糸井重里の作品ですよね。
何が自分を駆動しているのかわからないけど、駆動そのものは止めてはいけないと盲目的に信仰している。これはもはや「宗教」だ。
著者がこういう俗っぽい宗教にはまっているとは思わなかった。最後のほうに置かれた文章だから、世間並みになってきたという表現なのだろうか。
でも、それなら、前半に、普通に働いている人が「労働教」とか「普通教」にはまっているとか、そういう一文がほしかった気がする。
いろいろ難癖はつけましたが、各章の出だしの一文が、「掴み」としてかなりうまいと思いましたし、なるほど、「本を書きませんか?」とオファーのある人っていうのは、こういう文章が書ける人なんだな、と憧れました。
最後にこれを。
「社会に参加したくなかった」
わかるわかる!
まず、先日読んだ三島由紀夫によるエンタメ小説(!)『命売ります』の一節を置きます。
「人生が無意味だ、というのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーがいるものだ」
確かにそうですね。私も主人公と同じで自殺願望に取りつかれて生きてきたけど、「こんなことに何の意味があるのか」みたいなことを思いながら、それでも無意味なことをおろそかにしては生きていけないことだけはわかった50代のいま。
『パーティーが終わって、中年が始まる』の著者、phaさんも同じらしく、
「いつまでこんな感じでやっていけるのだろう、ということは、あまり真剣に考えてはいなかった。わからないけど、まあなんとかなるんじゃないか、と思っていた」
なるほど、それは私も同じです。これはニート期間の長い人間なら誰しも思っていることでしょう。ごく普通の人でも「自分だけはガンにはならないだろうし、そもそも死なないのでは?」と心のどこかで思ってるのとまったく一緒。
「すべてのものが移り変わっていってほしいと思っていた二十代や三十代のころ、怖いものは何もなかった。何も大切なものはなくて、とにかく変化だけがほしかった。この現状をぐちゃぐちゃにかき回してくれる何かをいつも求めていた。喪失感さえ娯楽のひとつとしか思っていなかった」
もう20年くらい前、人生どんづまりな自分を取り巻く環境を一変させる出来事として「希望は、戦争」と書いた人がいましたっけ。同じニートの私でもさすがにそれは……と思ったな。だって、それって「壮大な自殺」でしょ。秋葉原通り魔殺人と何が違うの? 自分で手を下すか下さないかの差じゃないですか。
しかしそのような、変化ばかりを求め、私と同じように同じことの繰り返し(いわゆるルーティーン)に飽き飽きしてすぐ仕事を辞めてしまっていたのに、phaさんは46歳のいまではこういう心境だそうです。最終章の「猫との境界線が消えていく」の最終節(つまりラストの一文)を引用します。
「続く間は最大限、いまの生活を保っていたい。朝起きて、餌をやって、トイレを掃除する。膝の上にのせて撫でる。抱き上げると嫌がる。布団に入ると寄ってくる。そんなルーティーンを。繰り返しを。明日も。明後日も」
これは一見、感動的な結末のようで、私は好きになれなかった。なぜか。
確かに、ルーティーンを嫌っていた著者(主人公)が、それを好きになる変化を描いた、これはビルドゥングス・ロマン=教養小説といえるかもしれない。
でも、私は聴いたことがないが、phaさんの大好きなマヘル・シャラル・ハシュ・バズというバンドは不安定で未完成なところが魅力らしく、「曲なんてちゃんと始まらなくていいし、ちゃんと終わらなくていい」といいんながら、なぜ(始まりはともかくとして)ちゃんとした終わりのある本を書いたのだろう? それがまず疑問。
さらに、この本は前半において「SFを超えた人生論」だったのに、後半において「ただの人生論」になってしまっていると感じたから。
前半にはこんな一節があります。
「人は誰でも歪みを抱えていて、それぞれがその歪みの形にぴったり合った箱を作り出している。この世界には無数の水槽が並んでいるだけなのかもしれない。それは結局、身体から取り出されてコンピュータにつながれて、今日はお日様が暖かいなあ、と言っている水槽の中の脳とそんなに変わらないんじゃないか。何かを見ているようでも、全部自分の中にあるものを見ているだけにすぎないのだ。自分の中から本当に出ることができたことがいままでの人生で何度あるだろうか」
ほとんど『マトリックス』ですよね。しかしながら、「水槽の中の脳」は『マトリックス』だけど、「何かを見ているようでも、全部自分の中にあるものを見ているだけにすぎないのだ」という「自分の中」というのは著者の独創でしょう。
さらに結末の一文で、「自分の中から本当に出ることができたことがいままでの人生で何度あるだろうか」と結ぶ。『マトリックス』』の世界から完全にphaという人間に引き寄せて、ものすごく小さい世界観に着地する。
これが見事だと思いましたよ。フィリップ・K・ディックをもちだすまでもなく、SFってすべてのジャンルの中で一番壮大な世界観を描けるジャンルだと思っているのだけど、そのSFから四畳半の世界へ一気に引き寄せる著者の腕力というか、これはもう才能でしょうね。
それが、この本全体としては、「変化ばかりを求めていた主人公が、ルーティーンを求めるようになる」という、ものすごくわかりやすいビルドゥングス・ロマンが描かれていて、こういうのを書けないと「売れない」のかもしれないけど、私は最終章を読んだときにとても残念な気持ちになりました。
全体の感想は以上。以下は、部分的に感じたことをつらつらと。
「「もうだめだ」が若いころからずっと口癖だったけれど、いま思うと、二十代のころに感じていた「だめ」なんてものはたいしたことがない、ファッション的な「だめ」だった。四十代からは「だめ」がだんだん洒落にならなくなってくる。これが本物の衰退と喪失なのだろう」
このphaさんは、二十代三十代と四十代以降を対立概念として捉えがちだけど、本当にそうなのかなぁ。私は16歳で自殺願望に取りつかれてからは、何歳になっても「自分はだめ」としか思ってなかった。そんな自分でも結局は「何とかなる」と思っていたのだから、究極的なところでは「だめ」とは思ってなかったのかもしれない。ま、どっちにしろ一緒のような気がするが。
「大切なのはお金を稼ぐことではなく、お金を気軽にあげたりもらったりする空気を作り出すことだ。そのサイクルの中にいれば、まあだいたいのことは何とかなるはずだ」
これはつまり、金は天下の回り物、というやつですね。
「自分が働いて、自分のお金を得て、それを自分のために使う。完全に一人で完結している」
以前の職場では3つのチームに分かれていたんですが、あるチームはデータ入力したあと、チェック班にチェックを任せず、自分たちだけでチェックもしていた。つまり、完全に自分たちだけで完結していたわけです。
こうなると閉じてしまって、職場全体でもそのチームだけが孤立というか浮いているというか、他の2チームとは関係ないみたいになってしまってよろしいことではなかった。
私はいまはニートだが、職探しをしていて、見つかれば当然働くけど、自分で働いて稼いだお金を自分のためだけに使わず、国境なき医師団に寄付している。タダでお金をあげるというのは気持ちいいですよ!
なにより、完全に一人で完結したり、閉じたりしないからね。風通しをよくすれば、金は天下の回り物となって、寄付した分くらい、また自分のところへ返ってきますって。
「僕は「いい人」なのではなく、いろんなことがどうでもいいだけなのだ」
私はかねてより、自分はサイコパスなのでないかと疑ってるのだけど……そういえば、脳科学者・中野信子先生の『サイコパス』にはサイコパスの定義ってどう書かれてたっけ? 憶えてない。中野さんの言葉を借りれば、さしずめ私は「負け組サイコパス」ですね。
サイコパスって多いらしいですよ。弁護士なんかはたいていサイコパスらしいし。あのマザー・テレサもサイコパスだった可能性が高いらしいですから。
いろんなことがどうでもよく、すべてが他人事に見えてしまう私もサイコパスなんじゃないかと思うのだけど、別の研究者の言によると、「自分はサイコパスではないか、と疑う人はサイコパスではない」というから、何もかもわからなくなってくる。診断してほしい。
「帰って、あれとあれをやらなくちゃ。洗濯と、何だっけ。何かわからないけどあれだ。買うものがいくつかあった気がする。こまごまとした、別に面白くもないもの。なんだかわからないけど、何かをいつもやっていかなくちゃいけないのだ」
「いつも追いつかれている」という章の最後に置かれた一文。
これを読んで思い出したのは、バブルのころの「ほしいものがほしいわ」というキャッチコピー。確か糸井重里の作品ですよね。
何が自分を駆動しているのかわからないけど、駆動そのものは止めてはいけないと盲目的に信仰している。これはもはや「宗教」だ。
著者がこういう俗っぽい宗教にはまっているとは思わなかった。最後のほうに置かれた文章だから、世間並みになってきたという表現なのだろうか。
でも、それなら、前半に、普通に働いている人が「労働教」とか「普通教」にはまっているとか、そういう一文がほしかった気がする。
いろいろ難癖はつけましたが、各章の出だしの一文が、「掴み」としてかなりうまいと思いましたし、なるほど、「本を書きませんか?」とオファーのある人っていうのは、こういう文章が書ける人なんだな、と憧れました。
最後にこれを。
「社会に参加したくなかった」
わかるわかる!
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