長谷川和彦監督の45年前の「前作」である、『太陽を盗んだ男』を再見しました。(以下ネタバレあり)
比較神話学の権威ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』が先日、Eテレの『100分de名著』で取り上げられていましたが、あの『千の顔をもつ英雄』と、ユング心理学の集合的無意識を基に書かれたシナリオ教則本に、『クリエイティヴ脚本術』があります。私はあの本から多大なる影響を受けた者です。
この本では、問題を惹き起こす「誘因アクション」と、それを解決する「主要アクション」がある、と書かれています。
たいていは主要アクションは主人公が担うのですが、『太陽を盗んだ男』では違いますね。『罪と罰』も同様です。主人公ラスコーリニコフは高利貸しの婆さんを殺す「誘因アクション」を担う悪役で、事件を解決しようとする予審判事のポルフィーリーが「主要アクション」を担います。
『太陽を盗んだ男』の主人公が誰かは火を見るよりも明らかですが、彼はラスコーリニコフと同じ悪役ですよね。原爆を作って脅迫するわけですから。だから、沢田研二が担っているのは「誘因アクション」で、「主要アクション」を担うのは別の人物です。そうです、菅原文太刑事です。
冒頭の修学旅行のバスをジャックする伊藤雄之助のシークエンスで、菅原文太の主要アクションが描かれます。
伊藤雄之助の「陛下に会わせろ。息子を返していただく」という動機から出た銃撃戦という、「誘因アクション」があって、隙を見て彼を「撃て!」と命じて問題を解決する菅原文太の「主要アクション」。
それを見て、沢田研二は「この人となら戦える」と思ったというのですが、結末からいえば、「この人なら自分を止めてくれる」と思ったんでしょうな。見事な解決でしたから。死にたくてしょうがない、でも死ねない自分を見事に殺してくれるだろう。と。
文太刑事は何とか沢田研二を止めようとしますが、結局、いくら殺しても死ななかった文太刑事も最後にはお陀仏となります。
ここが妙なんですよね。
あそこで沢田研二と一緒に飛び降りて死んでも問題は解決しません。なぜなら、原爆の時限装置のスイッチは入ったままだからです。結局、あそこで沢田研二と一緒に死んでも死ななくても原爆は爆発する。
「さあ、行くぞ」と言って一緒に飛び降りるのは、もはや「主要アクション」ではなく「誘因アクション」です。悪役に利する行為なのですから。
「誘因アクション」を担う沢田研二にとって、最強の「主要アクション」を担う菅原文太は「同志」に近いものだったでしょう。
肥大化した自殺願望のために、東京中の人間を道連れに死のうとしている自分を止めてくれると信じていたのに、その同志を失った沢田研二は、ビルから落ちて死んだ菅原文太の亡骸を遠巻きに見つめて、涙目になります。「主要アクション」を遂行して自分を殺してくれるはずだった人間を、まさにこの自分が抹殺してしまったという哀しみ。
例えば『サイコ』、例えば『野獣死すべし』、例えば『シリアル・ママ』。
主役が「誘因アクション」を担い、敵役が「主要アクション」担う映画はごまんとありますが、『太陽が盗んだ男』では、「主要アクション」と「誘因アクション」が絡み合ってまるでラブストーリーのようです。
池上季実子との、ほとんどとってつけたような恋模様が必要だったのもこれでよくわかります。この映画の本当の恋愛は沢田研二と菅原文太との間にあり、それをカモフラージュするために池上季実子とのあれこれが必要だった。
そういえば、菅原文太の「さあ、行くぞ、9番」という最期のセリフ。「行く」には性的な意味も込められていると長谷川和彦監督から直接聞いたことがあります。
なるほど!
関連記事
『太陽を盗んだ男』(ゴジ監督発言録)
比較神話学の権威ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』が先日、Eテレの『100分de名著』で取り上げられていましたが、あの『千の顔をもつ英雄』と、ユング心理学の集合的無意識を基に書かれたシナリオ教則本に、『クリエイティヴ脚本術』があります。私はあの本から多大なる影響を受けた者です。
この本では、問題を惹き起こす「誘因アクション」と、それを解決する「主要アクション」がある、と書かれています。
たいていは主要アクションは主人公が担うのですが、『太陽を盗んだ男』では違いますね。『罪と罰』も同様です。主人公ラスコーリニコフは高利貸しの婆さんを殺す「誘因アクション」を担う悪役で、事件を解決しようとする予審判事のポルフィーリーが「主要アクション」を担います。
『太陽を盗んだ男』の主人公が誰かは火を見るよりも明らかですが、彼はラスコーリニコフと同じ悪役ですよね。原爆を作って脅迫するわけですから。だから、沢田研二が担っているのは「誘因アクション」で、「主要アクション」を担うのは別の人物です。そうです、菅原文太刑事です。
冒頭の修学旅行のバスをジャックする伊藤雄之助のシークエンスで、菅原文太の主要アクションが描かれます。
伊藤雄之助の「陛下に会わせろ。息子を返していただく」という動機から出た銃撃戦という、「誘因アクション」があって、隙を見て彼を「撃て!」と命じて問題を解決する菅原文太の「主要アクション」。
それを見て、沢田研二は「この人となら戦える」と思ったというのですが、結末からいえば、「この人なら自分を止めてくれる」と思ったんでしょうな。見事な解決でしたから。死にたくてしょうがない、でも死ねない自分を見事に殺してくれるだろう。と。
文太刑事は何とか沢田研二を止めようとしますが、結局、いくら殺しても死ななかった文太刑事も最後にはお陀仏となります。
ここが妙なんですよね。
あそこで沢田研二と一緒に飛び降りて死んでも問題は解決しません。なぜなら、原爆の時限装置のスイッチは入ったままだからです。結局、あそこで沢田研二と一緒に死んでも死ななくても原爆は爆発する。
「さあ、行くぞ」と言って一緒に飛び降りるのは、もはや「主要アクション」ではなく「誘因アクション」です。悪役に利する行為なのですから。
「誘因アクション」を担う沢田研二にとって、最強の「主要アクション」を担う菅原文太は「同志」に近いものだったでしょう。
肥大化した自殺願望のために、東京中の人間を道連れに死のうとしている自分を止めてくれると信じていたのに、その同志を失った沢田研二は、ビルから落ちて死んだ菅原文太の亡骸を遠巻きに見つめて、涙目になります。「主要アクション」を遂行して自分を殺してくれるはずだった人間を、まさにこの自分が抹殺してしまったという哀しみ。
例えば『サイコ』、例えば『野獣死すべし』、例えば『シリアル・ママ』。
主役が「誘因アクション」を担い、敵役が「主要アクション」担う映画はごまんとありますが、『太陽が盗んだ男』では、「主要アクション」と「誘因アクション」が絡み合ってまるでラブストーリーのようです。
池上季実子との、ほとんどとってつけたような恋模様が必要だったのもこれでよくわかります。この映画の本当の恋愛は沢田研二と菅原文太との間にあり、それをカモフラージュするために池上季実子とのあれこれが必要だった。
そういえば、菅原文太の「さあ、行くぞ、9番」という最期のセリフ。「行く」には性的な意味も込められていると長谷川和彦監督から直接聞いたことがあります。
なるほど!
関連記事
『太陽を盗んだ男』(ゴジ監督発言録)
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。