哲学者・國分功一郎さんの『目的への抵抗』を読み、大変感銘を受けました。そして意外なことに、ある俳優のことを思い出しました。


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人が何かをするとき、何らかの目的があって、その目的のために別の何かを手段とする。これは自明のことのように思われます。

ダイエットをしているから脂肪や糖質があまり含まれてないものを食べるとか、女の子にモテたいからバンド活動をするとか、東京へ行くために新幹線に乗るとか。

でも、國分功一郎さんは、というか、彼が専門として研究しているらしいハンナ・アーレントは、こう言っているそうです。

「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義に他ならない」

國分さんはこう言い換えます。

「目的から自由である活動を忘れたとき、人間は目的のためにあらゆる手段とあらゆる犠牲とを正当化するようになります」

そして、ハンナ・アーレントはこうも言っているそうです。

「パフォーマンス芸術においては完成はパフォーマンスそのものにあり、最終作品にあるのではない」

なるほど!

確かに、私がシナリオを書いていた頃、そんな感じでした。最終的にシナリオを完成させることが目的ではあるけれども、そのプロセスの、シナリオを書くという行為そのものが楽しい、グルーブ感にあふれいてることを忘れては面白いものは書けない。というか、書いているときにグルーブ感を忘れてことは一度もありません。書くことそのものが楽しくなければ最終的なシナリオも面白くはならないでしょう。

國分さんは「遊びとしての政治」という概念をもちだし、こう言います。

「プラトンは遊びと真剣を分けるのではなくて、真剣に遊ぶことの重要性を説いている」

そこで、この人を思い出しました。


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俳優の原田芳雄。

親友だった桃井かおりの言によると、原田芳雄は、自身の俳優業のことを決して「仕事」と言わなかったそうです。「遊び」と言っていた、と。

真剣に遊んでいたわけですね。考えてみれば、芝居というのは、パフォーマンス芸術ですよね。つまり、完成された芝居を形作るために演じるのではなく、演じることそのものが作品。

映画や芝居という「作品」を作るのが「目的」で俳優をやっていたのでしょうが、「いい映画を作ること」を目的としてしまうと、俳優である自分は簡単に「手段」となってしまう。監督やカメラマンがいい仕事をするための「駒」になってしまう。(←俳優でこの罠に堕ちている人、結構いると思う)

自分は誰に従属することなく、独立した人間=俳優として、パフォーマンス芸術たる芝居をするのだという矜持。

「あくまでも真剣なものを追求するという目的に従属するかぎりで遊びが認められる。それはいわば、ウィークデイに働くという目的のために休むことが肯定されるような事態です。休むために休むことは認められない」

これは確かにある。用がないのに休みをとったらなぜか非難されるんですよね。

原田芳雄は、休むために休む、遊ぶために遊ぶことを追求した人だったのだと思います。

自由を謳歌するために。自分が自分であるために。



ゴールデン☆ベスト 原田芳雄
原田芳雄
ユニバーサルミュージック
2006-06-21



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