ついこないだまで名前すら知らなかったアメリカの孤高の映画監督らしいニナ・メンケス。そのメンケスによる、映画とジェンダーと性的搾取に関するドキュメンタリー『ブレインウォッシュ セックス‐カメラ‐パワー』を見てきたんですが、これが予想をはるかに上回る出来映えで、今年の目下ベストワンといって過言じゃなかった。うれしい悲鳴。


『ブレインウォッシュ セックス‐カメラ‐パワー』(2022、アメリカ)
brainwashed_main-1620x1080 (1)

脚本:不明
監督:ニナ・メンケス


最初はウンザリした
正直言って最初はウンザリしました。タイトルから推しておよその内容はわかっていたとはいえ、映画表現のすべてをジェンダーとか性的搾取につなげるフェミニズム的観点が気に食わず。もういいよ、いいじゃないか別に、面白ければ! と。

でも、この映画でニナ・メンケスが名前を出さなかったけれど「巨匠」の一人であるヒッチコックは、バーグマンに対して「イングリッド、面白ければいいじゃないか」と言ったらしい。『映画術』はもう売り払ってしまったので何の映画のどういう場面で上のように言ったのかわからないが、もしかすると、バーグマンが性的搾取されてると思って撮り方を変えてほしいと言ったら、「面白ければいいじゃないか」と言ったのではないか。(ヒッチは他にも「たかが映画じゃないか」とも言ってるけど、いまから考えるに「たかが映画なんだから男が女を性的に搾取してもよかろう」という意味に聞こえてしまう)

などという妄想をしていたら、この映画ともっと真剣に向き合わないといけないと思ったのでした。だって私だって「面白ければいいじゃないか」「たかが映画じゃないか」と思っていたのですから。

でも、当の女性のほうにしてみれば、シスジェンダーで異性愛者の監督がいて、同じセクシュアリティのカメラマンがいて、男性俳優という主体がいて、女性はこれらの男性に見られる「客体」でしかない。こういう映像を見続けていると、女性は「男好みの女でいないといけない」と刷り込まれ、そのイメージに合うように自分自身を改造してしまう。それがブレインウォッシュ、つまり「洗脳」だというわけです。女は男に性的に魅力的な女でいなければいけない、男に見られる客体であり続けなければならない、という。

少しも「たかが映画」じゃないし、「面白ければいい」ってもんでもない。

ボーヴォワールでしたか。「女に生まれるのではない。女になるのだ」と言ったのは。女を女たらしめているのは他でもない男であり、しかも無意識によかれと思ってしているのがすごくたちが悪い。

上記のようにこの映画の見方が変わったのは、『上海から来た女』を論じた箇所でした。


照明
3fbc8653ae6249e647f4a71ebd92ef87

『めまい』のこの画が、「女性を客体化している」のは一目瞭然ですが、次はどうでしょう?


o0958072015283751507

『上海から来た女』のリタ・ヘイワース。少しも客体ではなさそうですが、オーソン・ウェルズや他の男優陣が陰影の濃い照明を施されているのに対し、ヒロインのリタ・ヘイワースだけはフラットな照明が当てられ、いわば「物」のように扱われている、と。

↓このショット↓なんか顕著ですよね。

The-Lady-from-Shanghai2 (2)

うーん、目からウロコだ。


性暴力肯定映画『ブレードランナー』
9fce8408d4ecae4e2ec873436ceaa48f

ある女性が驚くべき見解を示します。『ブレードランナー』のような映画があるから性暴力がなくならないのだ、と。え!

ハリソン・フォードがショーン・ヤングにキスを求めて拒否されるも、ついには暴力的にキスをして、ヤングはそれを許容する、というシーン。

なるほど、言われてみれば確かにその通りだけど、言われるまでまったく気づかなかった。それはやはり、私がシスジェンダーの異性愛者というマジョリティだからなんでしょう。そして、女性を客体化された映像を見ても何の違和感もなく見てしまえる「権力」側の人間だからでしょう。自分は当然主体で、女性は客体で当然だと心の奥底で思っているはず。

といっても、この映画を作ったニナ・メンケスは「そういう撮り方をしてはいけない」と言ってるわけではないのが勘所でしょうか。「ただ事実を示しているだけだ」と。

つまり、そういう撮り方で撮られた映画があってもいいし、上映されてもいい、でも、そこで女性が男性の都合のいいように客体化されている事実だけは見落としてはならない、そのためにこの映画を作ったのだ、ということなんでしょう。

彼女が一番批判したかったのは、女性初のオスカー受賞監督でありながら、男性を主体として描いた『ハート・ロッカー』の監督キャスリン・ビグローと、主役スカーレット・ヨハンソンを客体としてしか描かなかった『ロスト・イン・トランスレーション』の監督ソフィア・コッポラなのかな。


『マンディンゴ』
a0212807_08412953

普通の映画とは違い、女が男をレイプする『マンディンゴ』では、男の奴隷を女の主人がレイプするんですが、男を女のように客体として撮っているのがけしからん、と。

最初はその何がいけないの? と思ったのですが、女であろうと男であろうと、人間を客体化するのがけしからんことだとニナ・メンケスは主張したいのだと理解しました。ただ、映画評論家のロジャ・イーバートはこの映画を「差別主義者のゴミ」と言ったそうで、この映画が大好きな私は発狂しそうなほど怒りました。

とにもかくにも、この映画を見てなかった昨日までと、見た今日からとでは、映画の見方ががらりと変わりそうです。『キャリー』のオープニングクレジットなんてもう見れたもんではないですな。

これは革命だ!

(ただ、脚本のクレジットがないのが不満。フィクションであろうとドキュメンタリーであろうと脚本は書きます。撮影の前に書くのがフィクション、撮影のあとに書くのがドキュメンタリー。全米脚本家組合賞にだって「ドキュメンタリー部門」がありますよね。最近、こういうの多い)





このエントリーをはてなブックマークに追加