『OUT』『グロテスク』『残虐記』などで一世を風靡した桐野夏生は、その後、あまり私の好みの作家ではなくなってしまったので、最近読んでなかったんですが、「あの桐野夏生が戻ってきた」という触れ込みを信じて『燕は戻ってこない』を読んでみたら、これが大当たりでした。


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テレビドラマ化もされてるし、漫画化もされてるみたいですが、どちらも未完のようなので、ドラマやマンガの続きを楽しみにしている人は、以下がっつりネタバレあるので、以下の文章は読まないでください。

この小説は、いわゆる「代理母出産」を主軸に据えた物語です。

主な登場人物は以下の通り。

・大石理紀(リキ)
 貧困から脱するために代理母になる女。29歳。病院事務。
・草桶基(もとい)
 リキに代理母になることを依頼する男。43歳。バレエダンサー。
・草桶悠子
 基の妻で、基との離婚を決意することになる。のちに翻意。デザイナー。
・草桶千味子
 基の母で、代理母契約のお金はほとんど千味子が出しているので基は頭が上がらない。悠子とは仲が悪い。バレエ教室経営。
・ダイキ
 女性用風俗の自称セラピスト。リキと関係をもったあと、故郷の沖縄の離島に帰る。
・日高
 リキの故郷・北海道出身の男。リキと関係をもつ。
・りりこ
悠子の友人で春画作家。性に関してかなりあけすけだが、処女。アセクシャルらしい。男根に異常な興味をもっている。


この物語がかなり面白いのが、登場人物一人一人の感情や考え方がころころ変わるところです。リキ、基、悠子の主要三人物はみんな千々に乱れるけど、あらすじを紹介するためにも、ここはリキの心の変化を記します。

まず、テルという職場の友人から卵子提供でひと稼ぎしようと言われてその気になるも、臆したり、青沼という係員から「代理母出産はいかがでしょう?}と提案され、それがかなりの額を稼げると知ると乗り気になるも、やっぱり子宮を売るようなまねはやめようとなり、でもアパートに怖いサラリーマンが越してくると、その人から逃げるために引き受ける。新しい家を提供してもらえるからだ。

私は、代理母出産がこんなに金になるとは知らなかった。新しい家。手付金、妊娠したらいくら。出産したらもう500万とかね。それでリキの場合は、さらに、産んでから一年間は基と一緒に暮らして子どもを育てるという計画(←結局ご破算になるけど)。その間の生活費やらなんやら。

その代わり行動を制限される。北海道の叔母が死んだので墓参りに行くと、基から「勝手なまねは慎んでください。大事な体なんだから。くれぐれも他の男と関係をもちませんよう」などと命令口調の高圧的なメールが来る。

リキはそれに反発して自称セラピストのダイキや、過去に関係をもった同郷の日高という男とセックスする。それから数日後に人工授精。まだダイキや日高の精子が生きてるうちのことだから、誰の子か判然としない。

リキはだんだんお腹の中の子どもがいとおしくなるけど、双子と判明すると途端に重荷に感じたり、心は千々に乱れる。無事に出産が終わったらリキは基たちが驚くほど堂々とした女になったりする。そして、双子のうち男のほうだけを草桶夫妻のために置いておき、女のほうは胸に抱えて沖縄へ行こうかそれとも故郷の北海道か、と逃げる。

「女同士で一緒に生きよう。クソみたいな世の中だけど、それでも女はいいよ。女のほうが絶対にいい」

という最後のセリフが胸に響く。

ラスト1ページでどんでん返しってわけじゃないけど、そう来たか、という驚きと、納得の結末に喝采を贈りました。これはかなり爽快な結末でした。

代理母となると、やはりリキも悩んでいたように、産んだあとに契約通りに「はい、どうぞ」と赤の他人の夫婦に渡せるものなのかどうか。渡せたとしても、10年、20年とたったときに、会いに行きたくならないか。

それを「双子」という手で解決したのはお見事でした。

そして、片方を夫婦に渡し、片方を自分で育てる衝撃の結末。双子を男女にして迷いなく女のほうを取るという決意に、すぐには言葉にならない感動がありましたね。

リキは、女だけセックスのあとに出産があって損だと言ってました。死ぬ危険もあるし、と。

そのリキが最後には「女のほうが絶対にいい」という結論に至る。それは子どもを産んだことのある人にしかわからないのかな。桐野夏生は子どもいますよね。

ただ、その結論に至るには、りりこという男根に異常な執着を示し、女であることの悦びを享受しているりりこの存在も大きいのでしょう。彼女は男根だセックスだと喫茶店で大声でしゃべるので非常識な人に見られているけど、なかなかどうしてここは二人だけにしなければ、と言いたいことがあってもあっさり部屋から出ていく場面が象徴されるように、一般常識をちゃんとわきまえている人物として描かれています。決してエキセントリックなだけじゃない。

りりこほど女性であることの悦びはリキは享受できないかもしれないけど、それでも、人工授精前に二人の男と立て続けにセックスするなど、基に対する反発があったとはいえ、リキはリキで結構奔放。

あとは、基や日高が担っている「無意識の女性蔑視者としての男」が嫌いだというのもあるんでしょうね。自分の子どもにああいうふうに育ってほしくない、みたいな。

基はかなり失礼な男ですが、一番驚いたのは、母の千味子と話す場面で、

「大奥なんていいな、なんてね。将軍が子ども50人も作ったなんて聞くと羨ましくて。そういう実験をやってみたいなって。こんな話、女の人にはできないけど」

というセリフ。千味子も女だということを完全に忘れてるんですね。千味子は「なるほどね」と冷静にかわしていたけど、かなり不愉快だったはず。

この会話はリキは知らないけれど、あのセリフにこめられたエッセンスを、基はリキに対しても放っているはずで、「男はどうしようもない」と思ったのは想像に難くありません。

それから、女だったら産んだ子どもが自分の子だとはっきりわかるけど、男の場合はDNAを調べないかぎりわからない(それでも100%じゃない)というのもあるんでしょうね。

基からすると、この子が本当に自分の子かわからない。DNA鑑定はしない、誰の子であっても自分の子として育てると言っていたけれど、彼の右往左往ぶりからすると、きっといつの日かDNA鑑定をするでしょう。で、自分の子じゃないとなったら…? もう愛情なんかもてない気がする。基であれば。

でも、リキは違う。胸に抱えた女の子ははっきりと自分の子。最初の主治医が言っていたけど、父親にとって子どもというのはペットの犬とほとんど変わらない、と。でも、女は違う。女は子どもを生み落とした後も、その子どもと直接体でつながっている気がするらしい。私は男のうえに、父親ですらないからよくわからない。

だから、リキが「女のほうが絶対にいい」という結論に至った理由はまだあるはずなんだと思う。でも、桐野夏生の筆力がすごいのでスルスル読めました。読み直すには長いし、これからテレビドラマを見て復習します。

確かなのは、この小説が見事なビルドゥングス・ロマンだということですね。

貧困にあえぎ、友人の誘いと何となくの流れで代理母登録したリキは、自己肯定感が低かった。先日読んだ『親ガチャの哲学』によると、周りの人が何もしないなかで、自分だけ困っている人を助けられる人こそ自己肯定感が強いそうです。

リキは、妊娠・出産を経て、基や悠子の心変わりに接するなかで自分もあまたの心変わりをし、つまり、必死で考え、考え、女の子と逃げる決心をする。

それは約束を破るということ。普通の人にはできない行動。でも、たとえそうであっても、自分とその子にとってベストの選択だとリキは信じている。自己肯定感の低い人間から高い人間への脱皮。読んでいる自分も成長したかのような錯覚に陥りました。

素敵な小説をどうもありがとうございました。





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